第89話 聖女様とお風呂あがりに

「で、では、お先に……お風呂を頂戴しますね」


 着替えを抱えた明澄が僅かに頬を赤らめて、ぎこちなくそうに庵を見上げて言った。


 あれからマンションに戻ってくると、明澄は自宅へ着替えを取りに帰って直ぐに庵の部屋へやってきた。


 どちらが先に入るかで少しだけ問答があったけれど、重ね着していた庵は被害が少なかったので、結局は明澄が先に入ることになった。

 初めはああ言っていた明澄だが、寸前で取りやめるものと思っていたし、一緒に入るわけでないならそれぞれ自宅の風呂に入った方が早い。


 でもそうしなかったのは引っ込みがつかなかったからで、やっぱりやめておこうかと言い出せなかっただけだった。

 意外にも二人は意地っ張りだったわけだ。


 庵はとりあえず着替えてタオルで水分を拭き取っているから、風邪を引くことはないだろう。

 問題は理性とか欲望とかその他諸々。明澄を傷つけたくないので、どうにかしようとするつもりは無いが、変な事くらいは言ってしまいそうで怖かった。


「おう。しっかり温まってこいよ」

「な、なるべく早く上がりますので。また、あとで……」


 小さく手を振っていた明澄を見送って、庵はソファにどっかりと腰を沈める。しばらくすると、風呂場と隣接する洗面所兼脱衣所から音が聞こえてきた。


 風呂に入る準備中なのだろうが、庵も男なだけあって色々想像してしまう。

 バスタオルやドライヤーなどの必要なものは用意してあるから、変なハプニングが起こることはあるまい。


「何やってんだろうな……」


 想い人が自宅の風呂に入るという状況に、庵は既にパンクしそうだった。

 今は微かにシャワーの音が聞こえていて、さらに膨らみ始めた良からぬ妄想を掻き消すように、庵はソファにガンガンと頭をぶつける。


 このままだと、風呂から上がってきた明澄と顔を合わせられない。

 まずいなぁ、と頭を抱えた庵は気を紛らわせるため、学校指定の鞄からタブレット端末を持ち出してきて、絵を描きながら明澄を待つことにした。




「……あの、あがりました。次どうぞ」

「湯加減はどうだった?」

「とても良かったですよ」


 数十分後、お風呂からあがってきた明澄がリビングに顔を見せた。


 火照った様子で身を捩る明澄は、腿の半分ほどまでを覆う緩いTシャツ姿だった。

 おそらくシャツの下にショートパンツが隠れているのだろうが、一見すると履いていないような格好に見えて刹那だが焦った。


 襟ぐりは少し広めで首元より下が少し見える程度。

 明澄の細っこい白磁の手足が見えているが、それ自体はいつもとあまり変わらなかった。


 なのに色っぽさが漂っているのは、風呂上がりであることに併せて、明澄が普段ラフな姿を見せることが少ないからだろう。

 つい見入ってしまいそうだった。


「じゃあ、俺も風呂に行ってくる。適当に待っててくれ」

「夕食の下ごしらえでもしておきますね」

「頼んだ」


 まだ毛先が濡れていて上気した様子の明澄はとても魅力的で、これ以上は目に毒だ。

 意識していることを気取られまい、と庵は足早に洗面所へ足を向ける。


 その際、明澄が自身の髪を触りながら「庵くんの匂いがします」と言いながら機嫌よく台所へ向かったのを見た庵は、理性が吹き飛ぶ前に洗面所へと駆け込んだ。


「はぁ……考えるなって方が無理だろ……」


 浴室に入ると庵は仰ぐようにして、シャワーからのお湯を受けながら独り言を漏らす。

 さっきまでここに明澄がいたと思うと、どうしても意識せざるを得ない。同じシャンプーやボディソープなどを使っている、という事実に参ってしまいそうだった。


(これはよくないな)


 考えれば考えるほど良くない方向へ向かいそうだ。庵は頭を強くごしごしと洗いながら、邪悪な妄想を振り払いにかかった。



 「なんか疲れた」


 湯船に浸かりながら庵は息を吐いた。

 お風呂に入ったら疲れは取れそうなものだが、今日に限っては逆にどっと疲れた気がする。

 原因は自分にあるとはいえ、明澄があまりにも無防備だから、こんなにも悩ましいのである。


 庵は出来るだけ意識を向けないようにと、ぱしゃっと風呂のお湯を顔に掛けたところで、風呂場のドアを叩く音がした。


 「庵くん。少し良いですか?」


 すりガラス風に加工されたアクリル板のドアに明澄のシルエットが映る。


「えっ……?」


 入浴中に現れた明澄にびっくりした庵は、思わず体勢を崩しそうになった。

 ありえないとは思いつつも、まさか入ってくるとか背中を流すとか言い出すんじゃないかと、考えてしまったのはシチュエーション的に仕方ないだろう。


 困惑しつつも庵は「何か用か……?」と、平静を装いながらドアの向こうに声を送った。


 「え、えと……良ければ、ですけど。お風呂から上がったら庵くんの髪を乾かしてあげようかと思いまして」


 おずおずといった感じで明澄が申し出る。

 何を思ったのかは分からないけれど、これもスキンシップなのか。明澄が面倒見がいいことや世話焼きなことは知っているけれど、ちょっと過剰な気がする。


 ただ、明澄に髪を乾かしてもらえるなんて今後あるかどうか分からないし、この機会を逃すのは惜しい気もする。

 それに髪を乾かすとなると背後からになるだろうから、顔を合わせないで済むし、今の庵にとって良いクールダウンになりそうだ。


 などとやましいつもりは無いと、自分への言い訳を考えていると「い、嫌なら、やめておきますけど」なんて、寂しそうな口調で言われてしまって、庵は断る選択肢を完全に失った。




「熱くないですか?」

「大丈夫」


 優しい手つきで庵の髪にドライヤーをかける明澄は、加減を伺いながら乾かしてくれる。


 洗面所だと体勢的にやりづらいとのことで、リビングにドライヤーとタオルを持ってきて、ソファに寄り掛かった庵を背もたれの後ろから、エプロン姿の明澄が髪を乾かしてくれている。


 たまに不必要にさわさわと髪を梳かれたり、耳を触られるのがくすぐったいが、明澄の好きなことだと知っているので、庵はされるがままに受け入れていた。


「庵くんて、いいシャンプーやトリートメントを使ってますよね。お風呂でびっくりしました」

「行きつけの美容院の人に勧めてもらったやつなんだよ」


 学生とはいえ一応社会人の括りに入るので、身だしなみなどは割と気を使うのだ。

 美容師の人に学生のうちからやっておいたほうがいいとも言われたので、髪や肌のケアためそれなりの労力を費やしていた。


 あまり興味がなかったのだが、案外良くて今では気に入っているし、なんなら少し詳しくなったくらいだ。


「だから凄くいい匂いがするんですねぇ」

「明澄もいつも気を使っているよな。通りすがるだけで、良い匂いするし」

「自分の手入れは大事なことですから」


 明澄は堪能するように髪を梳きつつ、優しい手つきで乾かしてくれるからすごく眠たくなる。

 こうして会話をしながらでないと寝てしまいそうだ。


 さっきまでは疲れたなんて言っていたが、今ではすっかり安らいでいられる。

 異性。それも恋慕を抱く相手とあって若干もどかしく、湧き出る情欲に悶絶しそうだ。


 ずっとこうしていられるのではないか、と思うくらいには幸せで感情の起伏を激しくさせている。

 明澄の指先がさらりと髪を梳き、たまに頭を撫でる。それだけで庵は天に昇るような快さに襲われ続けていた。


「庵くん……なんだか耳が赤いですよ」

「湯上りだからな」


 悶えていることに気づかれたようだが、素直に心の内を明かす訳にはいかない。


 明澄でなければこうはならないし、庵は甘えるつもりも好きにさせることもない。好きな人に身を委ねることがどれだけ幸せなことか。

 庵は興奮と狼狽に安堵、羞恥や多幸など、ごちゃごちゃになりながらも様々な感情を同時に体験していた。


「はい。乾きましたよ」

「ん。ありがとう。なんか、いつもよりふわっとしてる気がする」


乾かし終わった髪に触れると、普段とは違う出来だったので庵は驚いた。


「そりゃあもう、丁寧にさせて頂きましたからね、お客様」


 おどけたように明澄そう告げられて、終わってしまったのか、と残念な気持ちになる。

 そんな欲を漏らす自分が嫌になり、恥ずかしくてぎゅっと目を瞑った。


「ほんと、庵くんの髪はいつ触ってもさらさらでつやつやですね。……いつまでも触ってたいです」


 ゆったりとしていると、また明澄に髪を触られる。

 くすぐったくて身を捩るけど、あまりの心地良さに体はすぐ弛緩していった。


「明澄の髪も触り心地いいよ。初めて触った時びっくりしたし。それに明澄の方がずっと綺麗だし、それを触れるなんて幸せだと思う」

「えと、あ、そ、そうです……か?」


 自分も手入れには気を使っているけれど、やっぱり明澄には勝てない。きっと庵と比べても、明澄のしていることは一つや二つの手間の違いどころではないだろう。

 どこを見てもばっちりにケアされているのが分かる。そのせいでいつもどきどきさせられて大変だ。


 はっきりと庵が感想を口にすると、明澄から微かに声が漏れ出て手の動きが止まった。

 変なことを言ったと、理解した庵は恥ずかしさからいたたまれなくなって、目元を手で覆う。


 い、今のはだな、と言い訳をしようと後ろへ振り返ろうとしたのだが、ふと背後から手が回ってきて阻止された。


「明澄?」

「ご、ごめんなさい。ちょっと、こう、していたくて……」


 庵の耳元に顔を寄せた明澄は、ぽそりと囁く。

 何かあったのだろうと察した庵は、話を聞くのは後にして、背後から身体を寄せてくる明澄の好きにさせることにした。

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