第88話 聖女様と雨に降られて
「ねぇ? 傘余ってたりしないかしら?」
放課後、帰り支度を整えていた庵の元に胡桃が困り顔で尋ねてきた。隣にいる奏太も同じような表情で肩を竦めている。
窓の外に目を向けると、土砂降りの雨と風で木々が大きく揺れているのが視界に入ってきた。これでは傘があっても濡れてしまうような気もしたが、無いよりはマシだろう。
貸してあげたいのは山々なのだけれど、生憎と一つしか持ち合わせていない。
庵は「悪い。持ってない」と言うしかなかった。
「はぁ、降水確率も当てになんないわねぇ」
「君はよく傘を持ってたね。今朝の天気予報だとかなり低かっただろ?」
「昨日の夜は五十パーセントって言ってたからな。朝の予報は良くても、こういう時は稀に降るんだよ。だから、風呂も沸かしてきた」
「しょうがない。コンビニまで走ろうか」
「そうするしかないわね」
「風邪引かないようにな」
庵もたまたま嫌な予感がしたから傘を用意していただけだ。二人には申し訳ないが、運が悪かったとしか言う他あるまい。
「あ、胡桃さん。良ければ私の傘をお貸ししましょうか?」
胡桃と奏太が雨に濡れることを覚悟したところで、凛とした綺麗な声が教室の隅から聞こえてくる。
そちらに目を向けると、明澄が可愛らしい水色の傘を抱えていた。
「え、もしかして二つ持ってるの?」
「いえ、ここには傘が私と朱鷺坂さんの分で二つありますから、二人一組で使うのが良いかと思いまして」
彼次第ではありますけどね、と明澄の提案は実に合理的で、解決策として花丸をあげたくなるくらいだった。
友達が雨に濡れるのは忍びなかったから、庵は即答で承諾する。
雨が酷くなる前にと四人は傘を分け合うのだが、その際庵に向けられる視線はややきつかった。
特に男子からは「あいあい傘!?」「羨ましい」といった、怨念にも似た視線が飛んできている。庵は若干優越感を覚えながら、そそくさと逃げるように教室を出た。
「助かったよ。ありがとう」
「明澄って、ほんと聖女様だわ」
「傘は明日返してくれたらいいからな」
「お役に立てたのなら良かったです」
学校を出て十数分。
交差点に差し掛かったところで、カップル二人とはお別れだ。
庵と奏太、明澄と胡桃のペアで傘を共有していたから、四人は入れ替わってそれぞれの帰路に就く。
庵と明澄は帰る場所が同じだし、初めから二人で相合傘をしても良かったが、大きな噂になりそうで避けていた。
ここまで来たら他の生徒もいないし、明澄と歩いても問題ないだろう。
奏太たちと別れると、明澄の傘に収まって相合傘をする。
「庵くん、そちら濡れてませんか?」
「流石に二人だと狭いからな。明澄が濡れなきゃそれでいいよ」
「……だめです。庵くんが風邪を引いたら申し訳なくなります」
明澄が傘を持つと、今のように傘を寄せてくるのが分かっていたから、庵が手に持って明澄の方へ傘を寄せている。
けれど、明澄はそれに気づいたらしく、僅かに頬を膨らませ傘を握っている手ごと押し戻された。
優しいな、とは思いつつも女子が体を冷やすのが良くないことは男の庵でも知っている。朝は肌寒かったのでブレザーの下にベストも着ているし、雨には多少耐性があるはずだと、押し戻された傘を少しだけ明澄へ押し付けるように傾けた。
「庵くんは仕方のない人ですね。ではこうしましょうか」
「あのう、歩きにくいんですけど?」
傘の押し付け合いをしていると、明澄はやれやれとため息を付いて、傘ではなく身体を寄せてきた。
困惑する庵に問答無用と言わんばかりの勢いで、明澄は体半分ほど重なるように密着する。
二の腕から脇腹にかけ、柔らかく質量のあるそれが意識しなくても感じられて、明澄の体温ごと感触が伝わってくるのはとても心臓に悪い。
雨風で寒いはずの庵の内側は熱を帯び始める。
ここで明澄を引き剥がして傘を寄せてあげるのが紳士なのだろうが、庵の理性はその誘惑に勝てなかった。
傍にいる明澄を受け入れながら、その温もりを享受することにした。
「風邪を引いたらお仕事が出来ませんからね」
腕に寄り添う明澄がクスリと笑いながら零す。
どちらが風邪をひいても後味が悪い。
多少の歩き辛さはあるものの、思い切り濡れるよりはいいだろう。
庵が体調を崩したら明澄を心配させることになるだろうし、その逆もまた同じだ。
体を寄せ合っているためか、ほんのりと暖かい気もする。多分、気持ち程度だが。
雨宿りもありかなとか、出来るだけ明澄が濡れないようにしてやらないと、と庵はぼんやり考えながら歩いていく。
「家で風呂が沸いてるのは幸いだよ」
「私も沸かしておけばよかったです」
「ん? なら入りに来るか?」
「良いんですか?」
庵は思ったことをうっかり口にしてしまう。
立ち止まり、ふるりと隣に顔を向けると、明澄もまたぱちぱちと瞬きをしながらこちらをみやっている。
「冗談にしといてくれないか?」
「どうしましょうね」
悪戯っぽく笑みを浮かべた明澄に、庵はだらりと冷や汗を流すことになった。
異性に向かって自宅の風呂に入れ、などと言うのはやはり問題がある。普段は絶対に口にしないが、どうにか明澄が風邪を引いたりしないようにとばかり考えごとをしていたせいだ。
セクハラと言われても仕方ないし、怖々と明澄の反応を待つが、明澄は悪く思うでもなく瞳を閉じて何やら思案しているようだったから、こちらも色々考えてしまう。
「……明澄?」
「私は本気にしてしまいました。なのでありがたくお風呂を使わせてもらうことにします」
「い、いやそれは流石に……」
「失言をした庵くんが悪いのですよ?」
意地悪に瞳を光らせた明澄が言う。こうなると明澄を止めることは出来ない。
何かするつもりは無いけれど、やはり明澄が自宅の風呂に入るなんて考えただけで色々と危険だ。
ただ、明澄が誰に対してもこれほど無警戒では無いので、信頼されていると感じられるから嬉しくはある。
だからこそ、一定以上の好意があるように思えて、ある意味で庵の方が本気にしてしまいそうなのだ。
悩ましくて庵は悶々と考えていたが、チラと隣の明澄に目を向けると、雨に濡れて冷たいはずの頬が次第に赤くなってきていることに気づいた。
どちらも失言だった、やり過ぎた、と心の内で分かっていて引っ込みがつかなくなっているのだ。
「……で、では、冷える前に帰りましょうか」
「あー、うん。……そう、だな」
少し無理に笑う明澄はおっかなびっくりこちらの様子を窺う。
庵が悪いとはいえ、こんなことになるとは想像だにしなかったし、今でも疑ってしまうくらいだ。
歯切れを悪くしつつ、本当に明澄に風呂を入らせてしまっていいのか、と悩むものの、羞恥で僅かに潤んだ瞳を向けられると弱い。
覚悟を決めた庵は、自身の不甲斐なさと失言を戒めつつ足を動かし始めた。
「庵くんちのお風呂楽しみです」
仕方ないとはいえ密着して相合傘をしているだけで、もういっぱいいっぱいだ。
なのに、そんなことを言われたら文句の一つくらい口にしたくなるのはおかしくはないはず。
特に庵の心臓にはその権利があるだろう。
「お前の部屋と一緒だと思うけど?」
「そんなことはないんですよ」
わかっていませんね、と付け加えた明澄は、ふふっと隣で楽しそうな笑みを浮かべていた。
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