第84話 遅刻と眠気と
「澪璃さん、遅いですね」
「また遅刻かな。電話するか」
ゴールデンウィーク最終日。
庵の自宅、そのリビングのソファでは掛け時計へ目をやりながら僅かほど心配する明澄と、ため息混じりにスマホを手に取る庵の姿があった。
大型連休中、庵はすでに二度ほどの生放送を経て慣れてきたところ、ついに最終日オフコラボが開催されることになっていた。
収益化の申請も無事に通ったので、近い内に収益化を記念した配信も行う予定である。
このオフコラボは、学力テストの最後に明澄と澪璃が画策した企みだが、当の本人は遅刻をするという失態を犯しており、今現在連絡すらつかない状態だ。
準備を含めた集合時間なので、放送まではまだ時間はあるが、もしこのままだとうかんきつのオフコラボになってしまうことだろう。
「連絡は着きましたか?」
「電波の届かないところか電源が切れてるって」
「何をやってるんでしょうね」
電話やその他の連絡手段を用いて澪璃と連絡を取ろうとしたのだが、返ってきたのはおなじみの事務的な音声のみだった。
遅れているのも恐らくいつもの寝坊なんかが原因だろう。困ったことになっていなければそれでいい、と庵と明澄の気分は余裕だった。
「昔はこんなに遅刻したりする子じゃなかったんですけどね」
「ま、変なことに巻き込まれてなきゃそれでいい」
「同感です。でも、もし二人のままだったらどうしましょうか?」
「最悪そうなったら始めるしかないだろ」
ゴールデンウィーク最終日のお昼だし、楽しみにしてくれている人たちも多いだろう。待たせるくらいなら二人で始めてしまった方がいいだろうし、いいネタになる。
焦っても仕方ないので、庵はTwitterで『零七が遅刻中につき、急遽うかんきつのみで始める恐れあり(怒)』と呟いておいた。
「そうなるとなんだか緊張しちゃいますね」
困りましたね、と眉を八の字にして言う明澄は、くいと庵の袖を掴む。その明澄の頭に、庵が手を置くと明澄はにへらっと相好を崩した。
炎上などの恐れはないはずだが、思うところがあるのだろう。
二人きりでいるせいで、今みたいについ普段の距離感が出てしまうことも考えられなくもない。
無論、そうならないように気をつけるつもりだが。
「とりあえずゲームの調子を見ておくか」
考えても仕方がないし、気を逸らすように庵が口を開いた。
危機の調整は、澪璃が来るまでのいい時間つぶしになるだろう。
配信前にゲームを起動して挙動を確認しておかないと、事故になる可能性もあるし、いざ始める時にグダるのも良くない。
「準備できることはしておきたいですしね。面倒は私が見ます。庵くん、そちら失礼しても?」
「邪魔なら退くけど?」
今日はパソコン一台といくつかの機材のみの配信環境だ。機材は庵の私物なので、操作する彼の目の前にある。
明澄が触るには庵に場所を移ってもらうか、庵の膝の上に座ることになるのだが、明澄は後者を選んだ。
「邪魔なんてことはありませんよ。寧ろ……」
明澄が首を振って言うので、庵は小さく笑ってソファにもたれた。そうして、ソファの座面に足を上げている庵の足の間に明澄は、身体を収めて挟まるように座った。
わざわざ窮屈な体勢をとることもないだろうに。だが、明澄はこれがいいと言わんばかりに、ニコニコとパソコンを触り始めた。
先日のガチャの時の体勢に近い形で、明澄から甘い匂いが香ってくる。密着とまでいかなくても庵としては役得だし嬉しくもあるけれど、無防備なのは勘弁してくれ、と明澄に忠告を入れたくもあった。
ただ、口にするのも恥ずかしいので、代わりに人差し指の腹で明澄の頬をうにぃとつつけば、明澄が微笑みを向けてくる。
本当にゆるゆるな聖女様だった。
「ふあぁ」
「眠たいのですか?」
目をしぱしぱさせる庵からふいにあくびが出た。
「ここのところ徹夜もしてたからなぁ」
「では、彼女が来るまで寝られては?」
「いや明澄が準備してるし、それは悪いよ」
ゴールデンウィークは仕事を詰めていて睡眠時間を削っていたから、思わずこの緩い雰囲気が支配する空間に気が緩んであくびが出た。
気兼ねなく身体を寄せてくる明澄と、それを見守るだけの時間なのだから眠くなるのは仕方ないだろう。
「だいぶ前に言いましたけど、私は庵くんのためになりたいんです。だから、これくらいは頼ってください」
「明澄がそういうなら……」
くるりと振り返った明澄に柔和な表情と優しげな口調で言われてしまっては、断るのは気が引けた。
あの春休みから互いに頼ったり甘えている状態だから今更でもある。
流石に二人して眠ってしまうことは無いだろうし、今回は理性云々の心配もない。
言うことを聞くことにした庵は座面から足を下ろす。先よりも体が触れる面積が増えるのだが、気にする様子もなくにこやかに笑った明澄に軽く撫でられた。
やや子供扱いな気がするけれど、眠気には勝てない。
抗議は捨て置き、もうひとつ欠伸をしてから庵は目を閉じた。
目が覚めると、なにやら暖かくて柔らかい感触に頬が触れていた。おまけに腕や腹や胸にも同じような感触がある。
視界と意識が朧気な中、とても甘く香るそれと一緒に包まれているような感覚を感じながら庵は目を開けた。
すると、明澄の顔がすぐ近くにあるような気がした。
「お目覚めですか?」
「ん……ああ。今起きた……」
声は聞こえたがまだ目覚めの直後とあって、視界からの情報ほとんどは得られない。
代わりに首からずきりと痛みを感じた。
「ぐっすりでしたよ」
「そんなにか……」
「ええ。もたれかかってくるくらいには、です」
「は? ……あ、」
くすりと笑ったかと思えば、明澄が庵の手の甲にさわさわと触れてきて、庵から急激に眠気が遠のいていく。
顔が近くにあったのは気のせいではなかったのだ。
ぱちぱちと何度か瞬きしてから首を起こすと、流麗で見慣れて触り慣れた銀髪がそこにあり、寝ている間に何があったのか、否、何をしたのか理解する。
「ふふっ。びっくりしましたけど可愛らしかったですよ」
寝返りかなにかの拍子に、いつの間にか後ろから抱きつく形になってしまったのだろう。
庵の手は明澄のお腹に手を回すように腿にあって、体は背中にもたれかかってしまっているという、とんでもない状態だ。
状況を把握したら、飛び跳ねるように離れて庵は背面のソファに背を張り付かせる。
くるっと顔を向けてきた明澄は、恥ずかしげに頬を赤らめて眦を下げていた。
これ程密着したら邪魔だっただろう。許可を得てもいなければ、求められてもないので、あまり気分は良くなかったはずだ。
「わ、悪いっ! これは怒られても仕方ないな……」
「ふふっ。別にこんなことで怒りませんよ」
「けど……」
「そんな心配をするよりも、他に憂うことがありますよ?」
「え?」
不可抗力とはいえ不用意に抱き着いてしまっていたが、明澄は怒ることなく、僅かに目を伏せた明澄はちらりと正面に顔を向ける。
「おはやー、いおりん。おねむの君は可愛かったよぉ」
その先、正面のソファに庵が視線をやると、にやついた笑みで小さく手を振る澪璃が座っていた。
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