第81話 聖女様の労いとルームウェア
配信後、部屋のドアを開けると、暖かそうなピンク色のパジャマ――ルームウェアを着た明澄が待っていた。
訝しんでいる庵に、両手を広げてもこもこのルームウェアを披露する明澄は、少しばかり悪戯っぽい微笑みを見せる。
何がどうなっているのかと、ぐるりと首を捻るが、明澄の考えている事は分からなかった。
配信前に言っていた『労い』に関するものなのだろうけど、一向にぴんとこない。
庵がしばらく脳内にはてなマークを浮かべていると、明澄がぺちぺちと二の腕を叩いてきて思考は現実へと戻った。
「なんでそんな服を?」
「今に分かります。とりあえずあちらへどうぞ」
「はぁ」
リビングへ手を向けた明澄に連れられてソファまでやってくると、明澄は端に座りとんとんと自分の隣を指し示した。
座れ、という事なのだろう。庵は素直に明澄の隣へ腰を下ろす。その際、気を使って少し間を空けたせいで、明澄に服を掴まれて優しく引き寄せられてしまった。
近くに腰を下ろした庵を見て満足そうにしていた明澄は、とても可愛いらしく見えた。庵は喉を鳴らしながら、ふっと視線を外した。
配信中、一度部屋に戻っていたのかどうやらお風呂に入っていたらしい。
視線を外したのはいいけれど、拳一つ分もない隣にいる明澄からはいい香りがして、否が応でも意識させられるのが辛かった。
「そろそろルームウェアを着てる理由を教えてくれ」
「それはですね……はい」
「膝……?」
「ええ。膝枕をしてあげようかと。柔らかい布地の方が落ち着くでしょう? あたたかいですし」
労いとは膝枕のことだったのだ。
明澄がちょんちょんと自分の膝を指差しているのを見て、庵はようやく納得した。
配信の時、明澄は真っ先にコメントをするだろうと予想していたが、明澄がコメントをしたのは少ししてからだったことを思い出す。
多分、ルームウェアに着替えていたのだろう。
どうぞ、とすでに受け入れる体勢になっている明澄だが、庵は若干の抵抗を覚える。
明澄に膝枕をされるのが嫌な訳ではない。それは断じてないのだが、庵が何に抵抗を覚えるのかといえば、精神的に死にかけるから。
長袖とロングパンツのルームウェアだが、肌には触れなくてもきっと明澄の感触や体温を感じることになるだろうし、また髪や頬を遊ばれるに決まっている。
その状態で精神を無事に保っていられる自信がなかった。
心臓にも精神にも理性にも負担をかけることになるだろう。庵は存分に躊躇う様子を見せていた。
「遠慮してますね?」
「当たり前だ」
「ご不快でしたら辞めますけど?」
「そうじゃないけど……」
嫌ですか? と不安そうに見つめられたら、庵は覚悟を決めるしかなかった。
おっかなびっくり、ゆっくりと体を傾けると、明澄が寝転びやすいように肩と頭に手を添えてくれる。
いざ膝上に頭を到着させたら、まずはふわりとしたルームウェアの生地に迎え入れられ、それからとても柔らかい感触がした。
生地は薄くはないけれど、しっかりと温もりが伝わってくるせいで、庵はどう反応していいか分からず表情を固くさせた。
感想を言えばいいのか、普段と同じように談笑するべきなのか、今の庵には判断がつかない。
「庵くん。何かして欲しいことありますか?」
「……わ、分からん。好きにしてくれ」
「では、そうさせてもらいますねぇ」
背後、いや頭上か。明澄の悪そうな笑みが僅かに漏れている気がしたけれど、それどころではない。
石鹸の香り、好きな女の子の感触。それも膝枕をされているという事実に庵の心臓は唸りをあげる。
ほんのりと掛かる明澄の吐息と、頭部に触れる細くて僅かに冷たい手がさらに唸りを加速させた。
とりあえず、目の前にあるテーブルでも見ておけば、この心臓に悪い時間もやり過ごせるに違いない。
「少しだけお顔を見せてくれますか?」
「あ、ああ、うん」
まるで自分の意志を読まれているかのように、顔に手を添えられ明澄に上を向かされた。
視線の先には、明澄の綺麗なご尊顔とルームウェアの隆起した部分があった。
緩い衣服だがボタンを一つ外しているし、強調されるのは致し方ない。
俗に言う生殺しとはこの事だろうか。
上は明澄の顔と体、下は腿の感触。前門の虎後門のなんちゃら、という訳では無いけれど、確実に庵の何かが追い詰められているような気がした。
「今日はどうでした?」
「一言で言うと大変だった」
「あら」
「でも、明澄たちが手伝ってくれたおかげで楽しかったな」
「でしょう? あの感覚はたまらないと思います」
堪らないのは今の方だ。と冗談の一つでも言えたら良かったのだが、口に出来る度胸もないし引かれるだろうから、大人しく噤んでおく。
それにしても、こんな近距離で明澄と顔を合わせるのはいつぶりだろうか。恋い慕う少女の表情を見るだけで胸が高鳴るというのに、これは恥ずかし過ぎる。
配信は楽しかった、と呟くと、微笑を浮かべ頬に触れてくる聖女様に庵は程よく溶かされていた。
「話は変わりますけど、かんきつというペンネームの由来ってなんですか?」
「ほんと唐突だな」
「今まで聞いたことがなかったので、初配信でお話しになるのかなぁと思って見てたんですけど、その素振りが無かったので気になってしまって」
庵は話が切り替わったタイミングで、もういいかなと、テーブルへと顔を背ける。
相変わらず、ずっと撫でられたり髪を遊ばれていて擽ったい。たまに肩や背中に触れられてぞくりとするものの、漏れそうになった声は押し殺して、意識を無理矢理話の方へ引っ張った。
「前に祖父母の話をしたよな」
「はい。庵くんにお料理をお教えになられたと」
「その祖父母は母方で、母親の旧姓が『橘』。店の名前が橘亭なのと、俺が柑橘類が好きってのもある。それだけ」
庵のペンネームに特に深い意味は無い。何となくつけたくらいで、聞いたところで驚きも発見もないだろう。
だというのに、明澄は「そうだったんですね」と、ふふっと嬉しそうに小さく零していた。
「随分と楽しそうだな。面白くない話だろ?」
「そんなことはありません」
「なんで?」
「なんで、でしょう?」
「さぁ? さっぱり」
はぐらかされたのか、単純に問われているのか。庵は答えると同時に目を瞑った。
「では、教えて差し上げます」
油断していた。明澄と普段のように会話をしていたから、気が緩んでいた。側頭部に明澄の髪が掛かったかと思えば、耳元でボソッとそう囁かれる。
瞬間、庵はぞわりと体を震わせて、眉を引き攣らせ、甘い香りと耳元へ降りかかる息にむず痒さを覚えた。
それだけなら良かった。
ただ、明澄が庵へ体を寄せるということは、つまりはそういうことだ。
先程、上向いた時に目にした明澄の鎖骨と鳩尾にある傾斜が、側頭部と後頭部へ着地した。
(はぁ!? おい待て……!)
ここで声を漏らさなかったのは、ファインプレーと言っていいだろう。
おくびにも出さない庵の精神力と忍耐力のおかげで、明澄は自分が何をしているのか、理解した様子になかった。
今までにも、背中や腹で味わったことはあるけれど、直接肌に触れる形では体験したことがない。どくどくと庵の脈拍が速くなり、心臓は爆音を奏でていた。
そのせいで、明澄が何を言ったのか聞き取れなかったのは、仕方あるまい。
気になるところではあるが、なんで聞いていなかったのかと尋ねられたら、答えに詰まることだろう。
適度に頷くだけに留まった。
「庵くん。どうしましたか? なんだか、赤くなってますよ?」
「……うるさい」
「庵くんは可愛いですね」
きっと、先程聞き取れなかった言葉に対して庵が恥ずかしがっているのだろうと、明澄は勝手に察しているに違いない。
だが誤解している。庵が参らされているのは体験した明澄の質量のある感触のせいだ。
庵の胸の内になど、欠片も気付くことなく明澄はくすくすと笑っていた。
(ああ、もうほんと! こいつは……!)
庵が何と戦っているかも理解せず揶揄う明澄に、内心で緩すぎるだろ、と庵はぼやく。
本当だったら、明澄はあそこで襲われたっておかしくはなかった。好意を寄せる女性の身体、それも象徴的な柔らかさに触れて、理性がまともでいられるほうが不自然だ。
てっきり、こういう状況になったら、理性なんてぷつりと切れて、どこかへ飛んでいってしまうものだと考えていた。
なのに、不思議なことに庵の手も足も体も、心以外何一つとして動かなかったのは、やはり恋愛経験の無さから来るものだろうか。
へたれというかなんというか。彼女との関係はゆっくり進めるつもりである庵としてはそれでいいのだが、男としてどうなんだ、と情けなくもなる。
良かったのか、悪かったのか。悶々としながら、明澄に好きにされることを今は受け入れつつ息を吐いた。
「気持ち良いですか?」
「……星五つだ」
「ご満足いただけて何よりです」
この状態はとても甘くて擽ったい。けれど、どこか安堵できる温かさと心地良さがある。
明澄は楽しそうに手櫛で庵の髪を梳いては、体を寄せてたまに話しかけてくる。
そんな快い空間に庵はふと目を閉じそうになり、うつらうつらと瞼を上下させていた。
寝るのは不味いだろう、とぱっと体を震わせて反射的に上を向く。
「い、庵くん……!?」
「あ、いや……」
視線を上げれば、顔を真っ赤にした明澄が視界に飛び込んできた。
瞬間、庵は気付く。
おそらく、先程明澄が耳元で囁いた言葉はとても恥ずかしいことだったか、庵が明澄の山の感触に触れていた事に気付いたか。そのどちらかだろう。
もしくは両方。
いたたまれない気持ちになり、二人はさっと顔を背ける。
「お前も赤くなってるじゃないか……」
ぽつりと漏らしたのは迂闊だったかもしれない。
明澄にぺちっと肩をはたかれ、ぽすぽすと背中を叩かれる。
「なんで、勝手に見るんですか。……ばか」
明澄はか細く、そしてとても弱々しく零して、そばにあったクッションを押し付けてきた。
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