第79話 聖女様といってらっしゃい

「あと三十分で配信か」


 リビングのソファに座っていた庵は時計をみやりながら、どこか落ち着かなさそうに独り言を言っていた。


 彼がそわそわするのは、今日が先週告知した初の単独生放送の日だからだ。

 朝からサムネや告知ツイート、配信上で使う2Dモデルに加えて、画像、動画等を入念に明澄とチェックしたし、つまりあと必要なのは心の準備だけである。


 独り言のつもりだったが、心のどこかでは隣にいる明澄に聞いて欲しくて聞こえるように口にしたのだろう。しっかり明澄に伝わったらしく、そっと明澄は庵の腿に手を重ねて、優しい笑みで見上げてきた。


「ふふ。なんだか昔の私を見てるみたいです」

「配信なんてもう何回もしてるんだけどなぁ」

「そんなものですよ。私は二度デビュー配信をしてますけど、どっちもすごく緊張しました。今だって大きな配信とかは緊張しますから」


 今や絶大な人気を誇る明澄でさえ緊張するというのだから、庵が緊張するのは当たり前だ。


 既に名が知れているし、明澄たちと配信をしてきたこともあって、複数の配信者が宣伝まで手伝ってくれている。

 配信の枠を見に行くと、既に信じられないような数の視聴者が待機していることも緊張の要因だった。


「ぱんまる先生もやよい先生も緊張したって言ってたしな」

「誰でもそうですからね」

「やっぱここまできたし考えてもしょうがないか」

「その意気です。あ、終わった後の楽しいことを考えてみるのは如何です? 気も紛れますよ」

「例えば?」

「初配信のアーカイブのコメントとか、収益化やチャンネルの登録者数とかでしょうか」

「確かに楽しみだな」


 オフコラボも楽しみですね、と明澄は小さく笑いながら付け加える。


 そんな彼女が可愛らしかったのと、その気遣いに感謝してぽんぽんと頭に触れる。

 目を細めた明澄は顔を赤らめながら「ま、また、ぎゅー、……し、します、か?」と尋ねてくるけれど、それは断っておく。


 そうおいそれとできるものではない。ガチャを引いていた時に明澄が「しにます」なんて言っていたが、庵だってハグをするのは恥ずかしい。

 嬉しいししたいけれど、なにより今したら配信に集中出来なさそうな気がしたのだ。


「ぎゅーは兎も角、配信の後、色々労ってあげますからね」

「何をしてくれるんだ?」

「ひみつです。私が庵くんにしてあげたいことの内の一つ、とだけ言っておきましょう」

「気になる」


 恐らく明澄の言う労いとは、多分ご褒美のことだろう。

 最近、庵と明澄の間ではご褒美という単語と、それに付随するようにスキンシップがよく登場する。


 人との接し方に難がある二人には分かりやすいコミニケーションなのだ。明澄にとってのスキンシップは、甘えたり慰めたり感謝だったりと、一種の感情表現でもある。


 きっと、配信の後にはなにか素敵なことが待っている、と思えば庵のやる気もでたし、緊張も解けてきた。


「さて、そろそろ向こうに行ってくるよ」

「では、私はここで待ってますから」

「ああ」


 明澄はにこやかに笑って、立ち上がった庵に手を振る。


「何かあれば呼んでください」

「それは駄目だろ。リスナーにバレる」


 明澄がこの部屋に居続けるのは危険だ。だから初めは明澄は明澄の自宅で待機してもらうつもりだったのだが「今日はここに居たいので」と、配信の準備中に袖を掴まれてしまって、断りきれなかった。


「いずれオフコラボするんですから、実は裏では私や澪璃さんが手伝ってました、的な感じでも問題ないかなと」

「いや、問題あるだろ」

「冗談です」


 言って、明澄は茶目っ気溢れる笑みを浮かべる。


 放送事故に対して敏感だった明澄だが、こんな冗談を口に出来るようになったのは、あの事故を庵と一緒に乗り越えてたからだろう。


 庵としても、もう二度とあんなことを起こすつもりも無い。

 なにより明澄だけに負担をかけたりしないように始めたのが、このかんきつの配信者化計画だ。


 これからまた一歩、明澄に歩み寄っていけるだろう。

 そう思うと、庵は嬉しくなる。


「さてと、それじゃ炎上しないようにがんばるか……」


 もうそろそろ待機しておく時間だろう。部屋に入る前に、庵は冗談のつもりでぽつりと口にする。

 続けて仕事部屋のドアノブに手をかけるのだが、その瞬間背中とお腹に柔らかい感触がした。


 背には頭と明澄の胸元にある柔らかいものが当たり、お腹には手が回されている。後ろからぎゅっと抱きつかれる形だ。

 こうなるのは明澄が泣いた日を含めて二度目だが、今日はとても温かいものを感じた。


「あの、明澄さん?」


 明澄からの優しさに触れたのは良いものの、健全な青少年である庵には、異性との接触はやはり少し刺激的だ。

 戸惑いを隠せない庵は、頬に迫る熱を押し留めるように呻くのが精一杯だった。


「……庵くんなら大丈夫ですよ。でも、もし炎上したら慰めてあげますし、守ってあげます。そばにもいてあげますから」


 優しく甘く庵を勇気付けるように、明澄は抱きしめながら言葉を贈る。


 本当に不安からきた言葉ではなく、単なる冗談のつもりだったのだが、明澄はそれを庵の不安と捉えたのだろう。

 余計な気を使わせてしまったと、庵は「冗談のつもりだったんだ……」と、申し訳なさそうに言った。


「え、あ……冗談だったんですね……」


 心配したのに、と呟いた明澄にごつんごつんと頭をぶつけられる。

 これは庵が悪いので、平謝りをする羽目になった。


「庵くん」

「ん?」


 ばか、と拗ねていた明澄の機嫌を取ることに成功した庵は、ようやく明澄のホールドから解放される。解放はされたのだが、同時にちょいちょいと明澄に裾を引っ張られた。


「いってらっしゃい」


 振り向くと、そこには今日一番の微笑みをたたえて、可愛らしく手を振る明澄がいた。

 これには頑張らざるを得ないだろう。健気に見送ってくれる明澄を愛おしく想いながら庵は「おう」と、ぶっきらぼうに返事をした。

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