第63話 過去のこと

「庵くん、おかえりなさい」


 庵が外出先から帰ってくると夕食の支度中だったのか、エプロン姿の明澄がキッチンにいた。


 ダイニングへ現れた庵に目をやった明澄はぱっと表情を明るくし、ハーフアップにした髪を揺らしながらこちらへやってくる。


「ほれ、言われてたやつ」

「助かります。あれ、それはなんです?」

「明日、零七に会いに行くだろ? あいつ、お土産を持ってくるとかメッセを送ってきててさ、こっちも何か用意しないと悪いしな」


 今日は外出する用事があったので、そのついでに明澄に頼まれた品と零七へのお土産を買ってきていた。


 そのお土産の紙袋を明澄に手渡して、彼女が冷蔵庫にしまう間に庵は手洗いを済ませ、ダイニングテーブルにつく。


 すると、キッチンの方からいい匂いがしてきた。


「カレーか」

「ええ、もう少しだけ待っててくださいね」


 スパイスの匂いが空腹を刺激して、よりお腹が空いてくる。

 明澄の手料理ならなおさらだ。


 鍋の中をお玉でくるくるとかき混ぜるその後ろ姿は、庵からするとお嫁さんか彼女にしか見えない。

 それがまた食欲が湧く源でもあった。


 前にもそう思ったが、明澄への恋心を自覚してからはより鮮明に思い描くことが出来るようになった気がする。

 将来的にそうなってくれたらいいなぁ、と庵は小さく夢想した。


 そして、今からそうなる、そうする為の話をするつもりだ。

 零七と会う前日である今日は、明澄と話をする約束の日だった。


「明澄。ご飯前に少しいいか?」


 と、庵はリビングに視線をやりながら、明澄を呼んだ。




「ふぅ……さて、何から話そうか」

「まずは泣きますか?」

「泣くほどの話じゃないから大丈夫だ」


 夕食前に二人はソファに並んで腰掛ける。


 明澄が自身のことを話した時は一先ず涙を流してからだった。

 恐らく気遣ってくれているのだろう。明澄は両手を広げながらそう言って揶揄ってくる。


 明澄のそんな思いやりは、これからあまり思い出したくない話をする庵にとってはありがたかった。


「話は二つある。一つは、プロデビューした頃に仕事で依頼主と会ったんだけど、その時にガキかよって言われてそのまま依頼がなくなったことがあったんだよ」


 一呼吸おいた庵は粛々と話し出す。

 そんな理由で依頼が無しになったなんて馬鹿げているし、明澄も驚く様子を見せていた。


 仕事を頼む上で依頼先の人間の年齢は確かに気になるところではある。

 それにしても不誠実で失礼な物言いに、まだプロになりたての庵には堪えた事件とだった。


「それだけなら良かったんだけど。色々とネチネチ言われたし、何を思ったのかネットで誹謗中傷に近い書き込みとかもされてさ」

「酷い……!」

「まじで同じ人間か疑った」


 ほんと、ひでぇだろ? と庵は苦く笑ってはいるけれど、その口調はとても普通ではない。

 表情よりも十倍は苦々しく語っている。


「俺は何もしてないんだよ。何もしてないし、仕事を貰えることが嬉しくてさ、なのにそんなのってないだろ?」


 何を思ってのことかは知らないが、庵は何一つ悪くないのに本当に酷すぎる。


 ましてや当時はデビューしたての中学生だ。

 こんな理不尽は到底、許されることじゃない。


 当然だが、庵は今も引き摺っていた。


「子供だからとか見た目云々で仕事がどうだとか言われたりするのは嫌なんだよ。だから、あんまりネット上で知り合った人とかとリアルで会いたくなくて」

「そう……だったんですね」

「零七とか夜々さんがそんなこと言うわけないのは分かってる。でも、あの人たちと会ったら、他の人とも会うことになりそうだし、不特定多数と接触する可能性があると思うと、やっぱり嫌だから」


 庵が体験した出来事は、人との接触を避けようと思い至るのには充分だろう。

 ましてや思春期真っ只中の少年に、なんという仕打ちをするのか、明澄の心の奥底ではふつふつと怒りが湧いてきているのを感じた。


 明澄は険しい表情をしながら、必死に口が悪くなりそうになるのを我慢していた。


「まぁ、先生……俺には師匠みたいな人がいるんだけど、それを知った先生が相手のところに殴り込んだりして、大暴れしてたのは割と救われたよ」

「私だって同じ立場ならそうします。絶対に許せないです……!」

「そういや、祖父も祖母もブチ切れてたっけなぁ。とりあえず、この話はこんなところか」


 両親とは不仲ではないけれど、不在にしていることが多いから、庵は一人になりがちだった。


 ただ、彼には頼れる人がいたのは幸運だったのだろう。絵を教えてくれた師匠に祖父母という拠り所があったからこそ、明澄のように寂しい思いをせずにすんだ。


 こうして明澄が怒ってくれるのも、幸せだし本当に救われる。


「それから、あともう一つの話だけど……絵を描いてるのを小中では結構バカにされたことがあってな。俺の絵って美少女が多いし、まぁそれなりに露出があるから、からかわれる対象だった」


 幼い頃から絵を描いていた庵は、学校でもずっと描いていた。


 当初はプロになるつもりはあっても隠すことはなかったし、隠す必要もなかった。

 好きなものを好きだと言える性格だったので、堂々としていた。


 でも、それが火種となってしまったのだ。

 まだ子供である小学生や中学生は、美少女のイラストやアニメ系のオタクっぽいものに理解がないこともある。


 それが、異性のイラストでしかも露出があったりすると、なおさらからかいの標的になりやすい。

 庵は本気で絵を描いていたから、友達と遊ぶことがほとんどなかったことも災いした。


「からかわれるのはよくある事だし、どうでもいいんだよ。でも登校したら、イラストを描いた紙を黒板に張り出されてたり、落書きされたのは腹が立った」

「庵くんのイラストをそんな風にするなんて、ありえませんね」

「それからはもう絵を描いてるのは隠してる。プロにもなったしな」


他人も一部を除いて信用していない、と庵は付け加えていた。


 自分の好きなこと、努力していることを馬鹿にされるのは耐え難いだろう。

 庵の場合は偏見や差別にだって近い。


 彼がクラスメイトと学校でそれほど交流を持とうとしない理由がそこにあった。


 からかいや馬鹿にする程度だと認識している庵だけれど、明澄からしたらいじめにしか思えなかった。


 ネット上では誹謗中傷やアンチに活動を妨害をされたことなんかはある明澄だが、直接そんな悪意に晒されたことは無い。

 だから、庵のことを思うと耐えられなくなりそうだった。


 明澄は庵のイラストが大好きで、大々的にファンと公言し、彼のグッズなどはひとつ残らず買い続けているほど。


 それほど好きなイラストレーターである庵の絵が馬鹿にされ、屈辱を受けていたことを知ってショックだったのだろう。

 その心はじりじりと鈍く長く、痛めつけられるように感じていた。


(なんで、こんな酷いことができるのでしょう!)


 口が悪い時もあるけれど、気遣いが上手で思いやりがある庵は穏やかで優しい人だ。


 そんな彼が、人と会いたくないと思うようになるほどの仕打ちには、今すぐにでも文句を言いたくなるくらいの怒りを覚える。


 きっと、その場にいたら自分は手をあげていたかもしれない。そんな想像をするほどに明澄は悔しさと腹立たしさを覚えた。


 いつしか彼女の目からは涙が溢れ出していた。


「なんで、明澄が泣くんだよ……」

「だって、だって! 庵くんが、こんな酷いことをされていたって知ったら腹が立ちますし、私の大好きなイラストレーターさんが馬鹿にされたら悲しくなります……!」


 庵が泣いたっておかしくないくらいの体験だ。でも同じくらい明澄も悲しくて、悔しくてしょうがなかった。


 それだけ、明澄が庵のイラストを愛しているということだろう。

 なにせ彼の絵は明澄のことを救っている。

 氷菓のキャラデザは生まれ変わったようだと表現するほどだ。


 だから、素敵なイラストを描いてくれたかんきつのことが好きだからこそ、明澄は泣いているのだった。


「俺のために泣いてくれてありがとう、明澄。でも、あんまり泣かないでくれ。例え俺のことを思ってもさ」

「庵くんは優しすぎます。もっと怒っていいと思います。もっと感情に素直でいいんです。こんな時くらい、他人のことなんて気にしないでください」

「これでも怒ってるし、わりと素直な方なんだけどな」

「だったらもっとです。こういう時はもっと、庵くんは甘えていいのに……」


 明澄はまだぐすぐすと鼻を鳴らしつつ、庵に向かってそう言う。

 また両手を広げ、今度は揶揄いでなく、甘えさせてくれようとしてくれていた。


 庵にとって師匠や祖父母もそうだが、こうして明澄が泣いてくれてそんな風に言ってくれるだけで、もう既に救われている。


 泣くどころか、笑顔になれるくらいだ。

 なにより、好きな女の子の前では強がっていたい。


 それに明澄は寂しかったり辛かったりすることの多い子だから自分がしっかりしていたいし、負担にはなりたくない。


 今でさえそう思ってしまうのだ。

 自分の想いに気付いていなくても、こちらのことはお見通しで心配しているのだろう。


 そう思えば、少しは明澄に甘えてもいいのかな、と庵は明澄に身を委ねた。


「そうです。それでいいんですよ。庵くんが他の人に対して、過剰に不信にならなくていいようになるまでは私がそばにいます」

「まるで、この間の逆だな」

「私は初めからそのつもりだったんですよ?」


 抱きしめられる庵は、そうデジャヴを感じた。

 いや、デジャヴではなく、ただ真反対の立場に立っただけ。


 明澄を一人にしないという約束は、庵の他人への不信感を和らげるという約束と対になって、お互いに理由は違うけれど、確かにそこには寄り添う二人がいた。


 柔らかい手や肌、軽く抱きしめられているだけでも分かるその膨らみは厄介だけど庵を癒す。

 抱きしめた時とはまた違う温かさだ。


 気持ちが楽になっていくのが分かった。


「ありがとう。明日、零七と会う時もそんなに大したことはなさそうだ」

「なら良かったです」

「それと、明澄がだめになるっていってた理由が分かるわ」

「でしょう?」

「ああ。まじで、ことあるごとに求めそう」

「いいんですよ? 庵くんになら、触られたって撫でられたっていいんですから」

「お前、女子なんだから際どいことを言うなよ」


 庵以外が聞いたら勘違いしそうなことを、明澄は堂々と口にする。


 というか、恋慕する相手にこんなことを言われたら、間違いを起こしてしまいそうだ。

 彼女は無自覚なのだろうが、やっぱり少し自重して欲しいところ。


「サービス、ということにしておいて下さい」


 明澄は悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、そう庵の耳元で呟いた。


 そんな明澄に、そういえばこいつは無防備な聖女様だったな、と苦笑しつつ、庵は伸ばしかけた手を引っ込める。


 そうして、明澄の温もりを感じながら、庵はほんのりとだけ、目元を擦るのだった。

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