第62話 聖女様と一歩ずつ
「庵くん、こんばんは。改めてお疲れ様です」
「お疲れ様」
澪璃が余計な一言を残して消えたあと、少し時間が掛かってから、部屋に明澄がやってきて、庵が紅茶を出す。
もう毎日、おなじみになっているけれど、澪璃はこの光景を知らないだろう。
それを今度、話すことになるのだが、どんな反応をするのか気になる。
面白がられるのか、それとも訝しまれたり警戒されるのか。
もしかしたら「へえー」くらいのリアクションかもしれない。
庵はそんなことを考えながらいると、
「庵くん、難しい顔をしてますよ?」
「そうか?」
「彼女と会うのは心配ですか?」
「いや、なんて思われるのかとか、どんな感じの人なんだろうなぁって」
「庵くんと会って零七がびっくりすると言いましたけど、多分庵くんも驚くと思いますよ。色々な意味で」
「なるほどわからん……で、なんでまた俺を撫でにくるんだよ」
色々と考えていることは、明澄にはお見通しだったようだ。悩んでいる訳じゃないが、気にすることは沢山ある。
特に不安でも怖いわけでもないし、気遣ってくれた明澄には心配させたくないので、庵は穏やかに表情を緩めた。
なのに、何故か明澄はわざわざテーブルの対面の庵を撫でにやってくる。
なんで、とは言いつつも、なんだかんだ慣れるのは早くて抵抗もしない。椅子に座ったままの庵を明澄は後ろから撫でる。
顔が見えないのは落ち着かないが、振り返ると恐らく顔に明澄の柔らかいものに当たりそうだから、振り向くに振り向けない。
でも、心地いいのは確かで、結局また庵はされるがままだった。
「庵くんはなんか溜め込みそうですしね。こうしてあげないとって気がするんです」
「溜め込むのは明澄の方だろ」
「かもしれません。だから、こうして庵くんを撫でてあげますから、私が困った時はお願いしますね」
お互いに不安だったり悩んでいる時は、話を聞いたり慰め合うと宣言している。だから、こうして明澄が頻繁に撫でてくるのは、自分のためでもあるらしい。
自身が困ったり不安な時に庵に撫でてもらえるように、と思うとなんだか可愛らしく思える。
「明澄、ありがとな」
「はい。でも別に今、撫でて欲しいとはいってないんですけど」
愛おしく感じた庵は立ち上がると、明澄の頭へ手をやる。身長差から強制的に明澄の手は届かなくなるから、彼女は不満そうだった。
「じゃ、やめるわ」
「やめろとも言ってません」
「めんどくさいやつだなぁ」
「めんどくさいんですもん、私」
でも、止めて欲しいとは思ってないことを知っていて庵が手を退けようとすれば、明澄はその手を掴んで、また自分の頭に乗せる。
ついでに庵の胸元へぐりぐりと頭を押し付けて抗議していた。
(何この生き物、可愛い……!)
痛くもなんともない頭突きににやつきつつ、その流麗な髪を触る。
すぅーっと手ぐしが通り、何度も頭部から毛先まで行き来する度、明澄はふにゃりと相好を崩してから目を伏せる。
明澄は庵を撫でて、その頬や髪の感触を堪能していたようだが、今はその手で撫でられたり髪を梳かれるのを楽しんでいるようだった。
幸せそうな表情は眩しさと愛らしいさがあって、なんとも気恥ずかしくて視線が泳ぐ。
「庵くんはほんとうに誰も撫でたこととかなかったんですか?」
「急になに?」
「だって、こんなに上手なんですもん。ほんとうは彼女がいなかったなんて信じられません」
「ないよ。彼女なんていなかったし、友達も数える程だ」
それなりの時間そうしていると、明澄が顔を上げて小首を傾げ訝しげに見やってくる。
どうやら、庵の過去の言葉を疑っているらしい。
庵としては、普通に撫でているだけだし本当に経験がないので、ぎこちないと思うのだが、そんなに良かったのだろうか?
ともあれ、明澄が満足してくれるのなら言うことは無かった。
「そう……ですか。じゃあ、庵くんには撫でる才能があるのかもしれませんね」
「社会に出ても役に立たなそう」
「だったら、今は私に役立ててくださると嬉しいです」
「ん、そうしよう。というか、明澄も上手だと思うよ」
「そうですか?」
「ああ。こう、なんて言うか、好きだなぁって感じるんだよ」
「……へ?」
「い、いや!撫でられるのがな!べ、別に他の意味があるわけではっ!」
つい、庵の本音というか、心の声が全て漏れそうになる。
明澄は一瞬、そういう意味に捉えてしまったのか、狼狽えていた。
引かれたりされることはなかったが、戸惑うように耳まで赤くして恥ずかしがって、ぽすんと頭で頭突きを放つ。
まだ。まだ伝えるわけにはいかない。
春休みに自分の問題を解決とはいかないまでも、一歩でも前進して成長しないと、彼女の横に立てない気がするのだ。
何より、明澄はまだ完全に孤独や愛情の薄い世界から抜け切ってない。だから、澪璃と会って全部確かめる。
これは庵のエゴであり、勝手だ。怖いというなもある。
でも、何より明澄が好きだからこそ、大切にしたい。
この関係を最後まで進めて、それから一生続けるためにまだ立ち止まる必要があった。
臆病といわれてもいいから、一歩ずつ明澄に寄り添えたら――そう思うのだ。
「大丈夫です……私も同じです。私も庵くんに撫でられるのは好きです。触れられて一人じゃない、ってちゃんと実感できます。たまに寂しくなりますけどね」
あの言い訳は、自分では苦しいと思うものの、明澄は都合よく解釈してくれたらしい。
今は自分の気持ちを隠して、それに甘えることにした。
「変に思わせたり、恥ずかしがらせて悪かったな」
「ふふっ。慌てる庵くんは可愛かったので許します。でも、こんなこと他の女の子言ったらダメですからね」
「言わないって。言えるわけない」
当然、言うわけなんてない。明澄にとっては、庵は人と接触しないし気恥ずかしくて言えない、と思っているのかもしれないが、本当はそうでは無い。
言いたくなんてないし、これっぽっちも言うつもりなんてないのが本音だ。
自分が想いを向ける明澄以外の誰かに言うことは庵には考えられなかった。
「あの、それで庵くんのこと、あの子に会う前に聞かせてくれるんですよね?」
「うん。零七と会う前日にでも話すよ」
「その日が楽しみです」
「なんで?」
「はい。庵くんのことを知れるのはなんだか嬉しいんです。私も役に立ててるのかなぁ、って。これも一人じゃないんだって、感じられるんです」
「そうか……」
明澄は微笑んで、また庵の頬を両手で包む。
自分の孤独や庵から向けられる、今はまだ友情と称された感情を確かめるように、明澄は目を細めながら頷いていた。
「だから、その日くらいは私に甘えてください」
「俺がママのはずなのになぁ」
「娘に甘えるママだっていますよ」
明澄からストレートに伝えられた厚意に、本当にありがたいなぁと思う。そして、同時に庵はその眩しい笑みが直視出来なくて、そんな言い方でしか答えられなかった。
(恵まれているというか、幸せというか。ほんと……俺は好きなんだろうな)
「どうしました?」
「なんでも……」
素直でいじらしくて、こんなにも優しく寄り添ってくれる明澄があまりにも愛おしい。
今にでも抱きしめてしまいそうだ。
でも、まだそうできないことにどかしく思いつつ、明澄からも好意は持ってくれているのだろう、と自覚する。
庵は心のうちでそう実感したあと、逸らした視線を戻して、明澄にまた触れるのだった。
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