第51話 合い鍵は聖女様の手に
「あ、庵くん。お疲れ様です」
春休みが近づくある日の放課後。
ちょうど庵が自宅前まで戻ってきたタイミングで、隣の部屋から明澄が出てきた。
どうやら庵が帰ってくるのを待っていたらしい。
既に制服から着替え終わっているようで、明澄はカーキ色のハイウエストのプルオーバーワンピース姿だった。
清楚さと可愛らしさを両立した彼女らしいコーデだろう。
今からお出かけです、と言われても違和感がないくらいオシャレだった。
「待ってたのか?」
「はい。夕食のお魚の下処理は早く済ませてしまいたいので」
と、彼女は後ろ手に持っていたスーパーの袋を取り出して庵に見せてくる。
庵は提出物等で時間を食っていたから、その間に学校の帰りにスーパーに寄ってきたのだろう。
明澄が自宅で済ませる手もあるが、洗い物が増えるし効率を考えても庵が帰ってくるのを待っていと思われる。
魚は早めに処理した方がいい。内臓は取り除かれているはずだが、庵も料理をするので鮮度が落ちる前に調理したいという気持ちはよくわかった。
「待たせて悪いな」
「いえいえ、早く入ってしまいましょうか」
「おう」
こうして一緒に部屋へ入るのも、男の庵としてはご飯を作りに来てくれた彼女感があっていいのだが、一方で待たせてしまうのは申し訳ないとも感じた。
(そろそろいい機会かな……)
内心でそう呟いた彼は、ポケットに仕舞ったキーケースを触りながらリビングへと向かった。
「着替えてくるわ」
「ええ。もう始めてますので、ごゆっくりどうぞ」
「そういや、そんな良い服で料理するのか?」
「そのために、エプロンがありますし。それにこの服、半年近く着てまして、そろそろキツくもなってきたので、実は汚れてもいいものだったりするんですよ」
どこがキツくとは言わなかったが、スタイルの良い明澄の事だ。色々と大変なのだろう。
それは庵がよく理解している。
(俺、また変なこと考えてるな)
明澄が寝落ちした先日の一件から、最近庵は妙に彼女を意識してしまっていた。
恐らくあれほど物理的に距離が近づいたせいだ。
これは煩悩というより、男としての悲しい性のようなもの。
庵はそんな
「庵くんっ、ここで脱がないでくださいっ!」
すると、庵は気遣いまで振り払ってしまい、キッチンの方で顔を赤くした明澄に怒られながら寝室に戻るのだった。
「今日はみぞれ煮か」
「はい、綺麗な鯖が売ってましたので、丸々一尾買ってきてしまいました」
「いいねぇ。にしても捌くの上手いな」
「庵くんの良い包丁のおかげです」
「それ、ぷろぐれすの葛西社長に勧めてもらったんだよ」
「あ、社長にですか?」
「おう。和倉のおっさんも同じやつ使ってるぞ」
「へぇ、そうなんですね」
料理中の明澄の後ろから覗き込むと、丁寧に捌かれた鯖の切り身が二つと、既に味付けされた大根おろしがそこにあった。
綺麗に三枚に下ろされている鯖を見ると、明澄の手際良さと技術力がはっきりと分かる。
庵は速さを求めるので割と豪快な包丁捌きだったりするから、たまに雑になる時がある。
しかし、道具は使うべき人が使えばこうやって料理に慣れている庵ですら感心させられるもの。
もしかしたら自分が使うよりも、道具も喜んでいるかもしれない。
それに手入れも明澄の方が上手で、この部屋に来るようになってからは彼女がよくやっていた。
そう思うと、明澄に色々と任せる方がいいはずだし、今日みたいに待たせると時間も無駄だろう。
庵はとある決意を固める。
「明澄、ちょっといいかな」
「はい。どうしました?」
鯖の水分を抜くため、塩を振って冷蔵庫で寝かせた明澄は休憩をしにダイニングの方へやってくる。
庵はそのタイミングを見計らって、ちょいちょいと手招きをした。
「えっと、これ預かってもらおうかなって」
「それはなんです?」
「この部屋の合い鍵」
「え、それはちょっと」
「いやさ、今日みたいに待たせることもあるし、先に部屋に入って色々やれる方が楽だろ?」
「そ、それはそうかもしれませんけど……」
いくら頻繁に出入りする場所とはいえ、他人の家の鍵を預かるというのは気が引けるのだろう。
庵がキーケースから取り出して鈍く光るソレを明澄の前にすっと差し出せば、彼女は露骨に遠慮していた。
「そもそも、明澄がこっちに来るからいつも部屋の鍵を開けてるけどさ、いくらマンションがオートロックとはいえ不用心だろ?」
「それはそうですね」
「というわけで、明澄が鍵を預かってくれると効率的だし、防犯も出来るんだよな」
庵は面倒くさがりなところがあるし、効率的な方が好きで部屋にいる時は鍵を開けたままにして明澄を迎え入れていた。
お高目の物件に住んでいるので防犯対策は割と厳重だが、甘えていては痛い目を見る可能性もある。
庵としては明澄に預かって貰う方が安心だし、安全だと考えていた。
「そこまで仰られるなら、預からせて頂きますね」
「そうしてくれると助かるよ。あと、特典としてある程度の悪戯も許容する」
「なんですか悪戯って……」
「俺が寝てる時に、頬とか髪を触りにきたりだとか」
「そ、そんなことしませんっ!」
二人の間で鉄板のネタになりつつある、あの一件のことを庵は引き合いに出す。
絶対に冗談と分かるものであっても、寝込みに悪戯をするという、センシティブさ加減に明澄はいい反応を見せていた。
因みに庵が明澄に揶揄われる時は、ビビりとか天然がどうたらとよく言われている。
「まぁ、冗談だって」
「知ってます。知ってますけど、ちょっと意地悪です……」
「すまんすまん。お前を見てると揶揄いたくなるんだよ」
むぅ、とほんのりと頬を膨らませた明澄は睨むようにこちらを見上げてくる。
そういうところが揶揄い甲斐があるのだが、これは黙っておこう。
いじりが過ぎたらなんとやらというわけだし、加減は大切だ。
ただ、庵と明澄の関係だからこそ、こうやって何度もネタにして遊べる訳ではある。
「最近、庵くんはよく私で遊びますよね?」
「明澄が隙を見せるからだ。初めて会ったときくらい隙がなけりゃこうはなってないだろうな」
「うっ、言い返せません……」
「それくらい気を許してるってことだろ。俺もお前も。俺だってよくお前に揶揄われるしさ。何より鍵を預けたのも信頼からだよ」
「何か良い感じに誤魔化してません?」
「さてね」
庵の明澄に対する信頼は絶対的なものだ。
それこそロクに会わない家族よりも上かもしれない。
とは思うものの、揶揄う理由を適当に誤魔化しているというのもある。
そこは、とりあえず信頼という言葉で濁しておいた。
「ま、別にいいですけどね」
「んじゃよろしく」
そうして、二人はその鍵をいつ返すかの約束もしないまま、明澄が合い鍵を受け取って自分のキーケースに加えるのだった。
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