第49話 聖女様と朝
明澄と散歩に行き、帰ってくると彼女が寝落ちして介抱する羽目になったかと思えば、ほとんど連絡を取らない父親のからの電話。
最終的にはこんな朝早くから自分の部屋に女性がいることを知られている。
怒涛も怒涛の勢いで、深夜から朝にかけて目まぐるしく色々な出来事が起きていた。
まるであらしにでも見舞われたかのようで、庵は久々に頭を抱えることになった。
『い、今の声は?』
「猫だ」
『せめてオウムくらいにしたらどうだ。猫が庵の名前を呼ぶわけがないだろう』
「冗談だよ」
『こんな朝早くから女性、いや女の子か。その声がする理由を聞かせなさい』
「色々あるんだよ」
『お付き合いでもしているのか?』
「してない」
『爛れたことはしてないだろうな?』
「してない」
庵は眠気から投げやりになりつつ、どうにか煙に巻こうとして冗談を言ってみるが、
電話越しでも明澄の声質を大人か子供か判断してくるあたり大したものだ。
おそらく逃れられない。
曖昧に濁して答えることにしつつ、ちらりと視界の端に目をやれば、明澄は状況を理解したのかしていないのか分からないが、部屋の隅に移動してこちらを見つめていた。
『電話を代わって貰うことは?』
「無理だと思う」
『分かった。お前はほとんど社会人みたいなものだし、責任くらいはどうにかするだろう。好きにしなさい』
「親父たちには迷惑をかけねぇから、心配しなくていいよ」
『そうか、口煩くて悪かったな。まぁでも、そこにいる子にお世話になっているなら、どこかで挨拶もしないとな。春休みも別に帰省しなくてもいいが、その気があるなら連絡するといい』
「ん。母さんによろしく。じゃあ切るわ」
『ああ』
根掘り葉掘り聞くつもりはなかったらしく、知りたいこと、聞きたいことだけ質問をすると、東はそれ以上は特に何も言わなかった。
ただ、直接口にはしなかったが、いずれは声の正体について説明をしろということだろう。
今は明澄とのことは説明もしにくいし、どこまで明かしていいものかも分からないから、これで済んだことに庵はほっとする。
とりあえず、父親との問題は解決した。
残るは、部屋の隅で掛け布団を羽織るようにして、こちらを見ている明澄との問題だ。
「あの、庵くん……おはようございます」
「おはよう。とりあえず、あっちへ行こうか」
庵が電話を終えたことが分かると、明澄は掛け布団を羽織ったままこちらにやってきて、おずおずと朝の挨拶をする。
同時に寝顔や寝起きの自分を見られたことの恥ずかしさから、明澄は隠れるように布団をきゅっと握って少しだけ顔を伏せていた。
何を言っていいのか分からずという雰囲気が滲み出ている。
落ち着いて話すために、庵は明澄をリビングへ促した。
「あの、これは、その……私、寝落ちしてしまったんです、よね?」
「そうだ。で、今さっき起きてきた時に運悪く親父から電話がきてた」
「やはり庵くんのお父様からの電話だったんですね。聞くつもりはなかったんですけど……」
「いいよ。大した内容じゃないし」
「でもなんだか、問い詰められていたような。多分、私が声を出してしまったからですよね?」
まず初めに話題に上がったのは東との電話の事だった。
広い部屋といえど、少しくらいは電話の内容も聞こえたのだろう。
明澄も聞かないように気を使ったらしいが、ほとんど気づいているようだった。
「親父も変なことしてないなら良いって言ってたし。世話になってるなら挨拶がどうとかも言ってたけど、気にしなくていいぞ」
「いやそれは気にしますけど。もしかしてご挨拶に来られるのですか?」
「気が向けば顔を出したらいいってだけだよ。明澄とのことは話すつもりもないし、今のところは考えなくていいかな」
「あ、そうなんですね」
「基本的に親から丸投げされてるしな。今更、心配とか挨拶とか、気にする方がおかしい」
家族のことなんて話したところで面白くもないし、それほど庵には興味も関心もない。
それに明澄は家族の話で、たまに敏感なところがある。
あまり話を続けることではないだろう。
それよりも肝心な話をしておきたいと思って、庵はそう言いながら話を切った。
「それでだな。とりあえず、一つだけ話がある」
「はい……?」
庵が彼女に向き直って真剣な表情で言い出せば、その改まった様子に明澄は小首を傾げる。
「寝落ちしたお前のことだけどさ、家まで運んだりするのは良くないと思ってな。そこのソファに寝かせたけど、言っておくが不埒なことはしていない」
「なんだそんなことですか。それは心配していませんよ。庵くんはそんなことをしませんから」
「断定かよ」
ハプニングはあったものの本当に庵は何もしていない。
これだけは話しておこうと庵は真面目に身の潔白を告げたのだが、明澄は苦笑しながら信頼の言葉を返してきた。
嬉しくはあるけれどやはり複雑だ。
何もしないと思われているのは男としてどうなのだろう。
こっちは理性を保たなければ、とずっと苦労していたのに明澄は全く気付いていないようだった。
もうこの際だから全部言ってやろうかと思うものの、虚しいだけなので庵は自重した。
「とは言いますけど、何もされなかったというのは、ちょっとだけ自信を失ってしまうかもしれませんね」
「お前、前にも同じようなこと言ってたな。というか、何かして良かったのか?」
「そ、そういうことじゃ、なくてですねっ。あの、なんと言いますか……前に私が触ってしまったので、その罰みたいなものなら、甘んじて受け入れると言いますか……」
明澄は林間学校の時に庵の頬や髪を触れていた。
あの時のことを明澄はまだ悪く思っていたのかもしれない。
彼女はしどろもどろになりながら顔を真っ赤にして、精いっぱいにか細い声音で紡いでいた。
言い終えると庵の反応を伺うように、伏し目がちだった視線は、上向きに彼を見やる。
怯えているのか、恥ずかしいのか、ちょっとだけ震えているようだった。
そんな明澄の様子に庵の庇護欲的なものが掻き立てられ、つい撫でてあげたくなってしまう。
どうやら明澄の仕草、言動は庵の理性を削るのが好きらしい。
本当に困ったものである。
「今度同じことがあったらその時な。次は俺の理性があるかは知らんけど。にしてもちょっと俺を信用しすぎだぞ?」
「だ、だって庵くんが、悪いことをするなんて考えられないんですもん」
「そうだとしても、警戒はしようぜ」
庵だって明澄が何かするとは思えない。あっても頬や髪を触る程度。
それだって好奇心のはずだ。
でも庵の場合は欲望で、明澄とは訳が違う。
そもそも二人は性別が違うから、考え方や知識が違っていることを実感しにくいのかもしれない。
こういう部分はいずれ、なんとなく伝えていくしかないだろう。
「肝に銘じておきます」
「それでいい。ま、明澄がまた俺の部屋で寝るようなことがあるかもしれんし、銅鑼でも買っておこうかね」
「ほ、ほら! そういうところですっ。そうやって茶化して、最後は私を安心させるようなことを言うんですから!」
あまり脅すような言い方をしても、と思っての冗談だったが、明澄はばっと布団から顔を出して、やや強めの口調で指摘してくる。
今にも近くにある枕を投げられそうだ。
揶揄うつもりなんて庵にはなかったけれど、明澄には赤くした顔を、ぷいっとそむけられてしまった。
「無自覚、天然たらしさんには困ります」
「無自覚、無防備聖女様には困ります」
明澄が反対を向きながらそう言うので、庵も同じようなセリフを投げつける。
すると、朱色が混じった表情の明澄に睨まれるのだった。
ついでに「ばか……」とも聞こえてきた。
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