第48話 おやすみの聖女様と早朝の電話
その寝顔はまるで西洋人形でも横たわっているのではないかと勘違いするほどに綺麗だった。
リズム良く上下する胸部、たまに漏れる色っぽい寝息、無防備に眠る可愛らしくあどけない顔つき。
どれをとっても庵を精神的に攻撃して、理性を奪いにかかっていた。
(こいつめ……)
庵は明澄にも自分に対しても思いつつ、理性を留まらせるため前腕の内側の肉をつねっておく。
痛みと一緒に手を出さないという誓いを立てれば、ソファをベッドに変形させる為に行動を始めた。
まず、明澄が眠っている場所の下から座面を引き出してくる。
庵が使っているタイプはスライド式なので、ぐっと引き上げるだけで簡単にベッドに変形した。
しっかりと金具が噛み合うまで力を込めないといけないので、少しだけ揺れたが明澄が起きる気配は無かった。
それほど熟睡してしまっているのだろう。
すぅすぅと穏やかな寝息だけが部屋に響いている。
苦労する庵を他所に気持ちよさそうに眠っている明澄をみやりつつ、ソファの肘掛けを倒せばベッドが完成した。
幸いにもアウターや防寒具は脱いでいるから、庵が脱がしてやる必要が無いのは助かる。
ただ、その所為でアウターの下に着ていた黒のセーター姿がそこにあるのは問題だが。
服の構造的に彼女の身体のラインがはっきりとしていて、本当に目のやり場に困る。
早く布団をかけてやらねば。
明澄が風邪をひくとかそういう問題ではなく、庵がもたないかもしれない。
彼は足早にリビングのクローゼットに向かい、使ったことすらない来客用の掛け布団と枕を取り出してくる。
(どうするかね)
布団は兎も角、枕は少し上体を持ち上げなければならない。
そうなると明澄に触れることになるので、申し訳ないというか、触れていいものかと迷う。
数秒ほど逡巡すると、ここまで来たらちゃんと寝かせてやりたいと思って、庵はソファと明澄の肩辺りの間にゆっくりと手を入れる。
本当は自発的に起きて欲しいけれど、こんなところで起きられたらあらぬ誤解を受ける可能性もある。
庵はここでは起きてくれるなよ、と祈りつつそろりと明澄の上体を持ち上げた。
明澄に触れると手には透き通るような銀色の髪がくすぐったくて、またとても柔らかかった。
庵とはまるで違うさらさらな髪質に驚かされる。
起こした頭の下に枕を差し込んでやるのだが、彼女の端整で無邪気な寝顔が近づく。
おそらくこのまま悪戯したって気付きやしないだろう。
明澄には以前、頬や髪を触られている。仕返しでもしてやろうかと考えたが、彼女が触った理由は自分とは違うはずだ、と思い止まる。
枕を敷いたので布団を掛ければ作業は終了する。
庵はソファと明澄の間から手を引き抜く前に一度、空いている右手で冷や汗を拭った。
と、その時、
(ッ!? おい、おいおい! まじか……)
明澄が寝返りをうったのだ。
しかも庵の方に向かって。
彼がまだ手を引き抜く前にこちらに向かって寝返りをうつということは、もたれ掛かるように庵の腕を巻き込むということ。
瞬間、背中の肩辺りにあったはずの庵の手はいつの間にか明澄の身体の前側に触れていた。
何やらふにっと柔らかい感触がする。
普段からスタイルがいいとは分かっていたが、いざ触れると思ったよりも重みを感じた。
そして、庵は例のお風呂配信のことを思い出してしまう。
零七が口走っていたことも含めて、あらぬ想像が彼の脳内を駆け巡っていく。
(何考えてんだよ、バカか俺は)
それでも庵の理性は死んでいなかった。ぶるぶると強く頭を振ると、ゆっくりそっと、そぉーっと慎重に手を引き抜いた。
仕方がないとはいえ、腕と手に掛かる重量に理性をボコボコにされながらも、何とか彼は持って来た布団を掛けてミッションを達成する。
同時に天井を仰ぎ見て、手のひらで目を覆った。
よくやったと疲れ切った自分を褒めるとともに、未だ起きる気配の無い明澄から目を逸らすためだ。
しかし、それにしても明澄は庵の気も知らず、まるで自分の部屋で眠るようだった。
信頼によってなせることなのだろうが、庵としては複雑だ。
信用がある、気を許してくれているのは気分が良いとはいえ、異性の自宅で眠りこけるなんて意識されてないようにも感じられた。
それはそれで思うところがあるのだから、我ながら面倒くさいな、と笑ってしまう。
(さて、俺も休むか)
庵は一つ息を吐くと、熟睡する明澄に笑いかけてから自室に戻っていった。
結局、庵は眠ることが出来なかった。
変に覚醒しきっていたというのもあるが、やはりリビングで眠っている明澄のせいだろう。
現在は朝の八時前で、完全に日が昇りきっている。
明澄が眠ったのが五時半くらいなので、約二時間半か。
外が明るくなるにつれ、何度か起きたかなと確認しに行ってみたが、いずれも起きていなかった。
そもそもこんな短時間で熟睡している人間が起きるわけないのだが、妙にそわそわして落ち着かずおそらく三回は様子を見に行ったはずだ。
明澄をその場で寝かせることにしたのだから自分から起きてくるまで待つつもりである。
彼が煩悩を振り払うように読書をしていると、不意にリビングにある固定電話が鳴り響いた。
「なんだ?」
こんな時間に誰だ? と庵は部屋から出てまだ明澄が寝ていることを確認しつつ受話器を取る。
「もしもし朱鷺坂ですけど?」
『庵、おはよう。
「親父か……朝早くに何の用だ?」
電話の相手は庵の父親だった。
無機質な声音が特徴的で、喋り方も息子と久しぶりに会話する父親のものでは無い。
『いや、もう半年以上は連絡してないなと。まぁ、息子の心配くらいするさ』
「俺は元気だ。やることもやってるし、爺さんと婆さんから言われたことも守ってる」
『そうか。ならいい』
ただ、厳しかったり冷たいことはなく、庵に対してちゃんと父親として接しようという意図は感じ取れる。
少し不器用なだけだ。
庵も似たようなところがあるから、第三者が見れば遺伝と思うだろう。
しばらく彼は東と近況を事務的に話し合う。
その間、ソファベッドの方を見てもまだ明澄は起きる気配がない。
彼女の様子を気にしつつも、ぼんやりしているとそこそこ話が長くなっていた。
いつもはどうでもいいし適当に切るはずなのに、眠気のせいか向こうの話を聞くだけになっている。
それが良くなかった。
ふとソファの方を見やると銀色の影がむくりと起き上がっていた。
(やべっ!)
そして、明澄がきょろきょろと辺りを見渡したかと思えば、真後ろにいた庵と視線が合う。
寝ぼけ眼でも明澄の瞳は綺麗だった。
乱れた髪がまた日常感があってぐっとくる。
しかしそんなことを考えている場合ではない。早く電話を切らないと、面倒くさいことになる。
無理やり切ってしまえばいいのに、庵の無駄に律儀な性格が難局を招いてしまった。
「い、庵くんっ!?」
目が合ってから数秒、明澄は庵の存在を確認するとそう声をあげた。
(終わった……)
途端、電話の向こうでは慌てる声が聞こえる。
おそらく、聞こえるはずのない声がしてびっくりしてしまったのだろう。
とんでもないことになった、と庵はがくりと首を下げるのだった。
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