第47話 おやすみの聖女様

 マンションに戻ってきた二人は、散歩で冷えた身体を温めるため庵の自宅でひと息付いていた。


 そのリビングのソファには、つい先程までむくれていた明澄が行儀よく座っているが、今はもういつもの彼女に戻っている。


 というか寧ろ機嫌が良さそうに瞳を閉じて、何かを心待ちにしているようだった。


「ごめん、紅茶無かったわ。ハーブティーで許してくれ」

「あ、大丈夫ですよ」

「じゃあどれがいいかな。ローズ、ラベンダー、カモミール、レモングラスとかあるけど?」

「ではカモミールでお願いします」

「あいよ」


 庵は湯を沸かして紅茶を淹れようとしたのだが、茶葉が入っているはずの缶はからっぽだった。


 仕方がないのでハーブティーを淹れることにして、明澄の元にカモミールティーが入ったマグカップを持っていく。


「ありがとうございます」

「……ふぅ。落ち着くなぁ」

「早朝に一杯頂くのも趣がありますね」


 二人はL字のソファに互いに斜めに向くように座って、まだほんのりと赤らみ始めた窓の外を眺めながらハーブティーを口にする。


 庵、明澄ともにカモミールティーを選んでいて、香りや味などを共有出来るのがまた心地良い。


 そのリンゴのような甘い香りと味わいは、心身ともに落ち着かせてくれる。


 明澄の方を見やるととても優雅にハーブティーを楽しんでいて、今にも眠ってしまいそうなほど静かにしていた。


「明澄? 起きてるか?」

「起きていますよ」

「そうか」


 庵も明澄もソファにもたれかかって、特に会話をすることも無くゆっくりとした時間をただ過ごしていた。


 時折、本当に寝てしまったんじゃないかと思うほど静かになるので確認をすると、目を伏せたままの明澄から短く返答がくる。


 そんなやり取りを数回繰り返し、朝焼けをぼんやり眺めていれば、庵のマグカップは空になった。


「俺はまだ飲むけど、明澄ももう一杯いるか?」

「いえ、大丈夫です。これが飲み終わったら帰りますので」


 庵はもう少しだけゆっくりしたくて、追加でハーブティーを淹れに行く。

 彼女にもどうだろうか、と尋ねれば明澄はそう言うとにこりとしてまた朝焼けの方に視線を戻した。


「あ、庵くん」

「ん?」

「いつもありがとうございます」

「なんだそれ」

「いえ、ふと感傷的になったといいますか」


 もう一杯準備している最中、明澄が振り返り柔らかく笑ったかと思えば急に感謝の言葉を伝えられる。


 朝焼けに照らされたその銀髪はキラキラと輝いていて、凄く眩しかった。

 何を思ったのか分からないが、確かにこのエモーショナルにも感じる空間だったら、色々と想うこともあるのだろう。


 普段のティーブレイクとは違う、よりまったりとした空気が庵と明澄を包んでいく。


 そんなことを二人しておかしく思ったのか、リビングとキッチンから苦笑する声が漏れる。

 そうしてしばらく、庵はカモミールティーが出来上がるまで、快い朝の時間を楽しんでいた。




「明澄、起きてるか?」

「……あ、はい……」

「明澄?」

「ん……」


 庵はハーブティーを淹れるとリビングに戻るのだが、明澄からの反応がとても鈍かった。


 何とか彼女の口からは庵の言葉への反応が漏れているが、殆ど眠っていると言って差し支えない。


(失敗したな……)


 庵は少しだけ後悔していた。

 明澄をこの時間に部屋にあげたことよりも、ハーブティーを出してしまったことに深く後悔していた。


 コーヒーやジュースよりも気分が落ち着くだろうと思ってハーブティーを選んだ訳だが、その作用について思い出す。


 ハーブティーの中でもローズやカモミールは、リラックス効果に加えて、高い安眠効果がある。

 これほどすぐに効き始めるものでは無いだろうし、睡眠を催す効果というよりも安眠効果を高めるもの。


 しかし、暖かくてリラックスできる環境が整っていて、安眠効果が高まると眠りにつきやすくなるはずだ。


 詳しいことは分からないがとあえず、まずったぞ、と庵は明澄を起こしにかかることにした。


「明澄……明澄? おーい明澄さんや、起きとくれ」


 起きているうちはいくらでも居てもらって構わないが、流石に眠られるのは困る。


 そんな無防備な姿は見ていては、色々とおかしくさせられそうな魅力が明澄にはある。

 庵としても彼女を傷付けるつもりは無いが、どこかで理性が吹き飛んでもおかしくもない。


 焦り、狼狽、困惑。そんな単語を連想させるような表情が庵の顔に現れては消えてを繰り返していた。


「起きろって……」


 しばらく狼狽えていたのが、良くなかったのだろう。

 明澄はものの数十秒で眠りについてしまっている。


 肩を揺らしてもただ髪が揺れるだけ。

 それにたまに漏れ聞こえる寝息が艶めかしくて、庵はロクに寝顔を見ることが出来なかった。


 少し強く揺らしたり大きめの声で起こしてあげるものだろうが、あまりにも幸せそうに眠る明澄を見ているとそれははばかられた。


(はぁ、修行するか……)


 庵は覚悟を決めて、明澄をそのまま寝かせることにした。

 自分の理性を信じて、いや真っ当な人間として男として断じてあってはいけない、と強く心に決める。


 幸い、リビングのソファはベッドにもなる。

 本来は部屋に運んであげたり、ちゃんとしたベッドか布団に寝かせてやるべきだろうが、それは難しい。


 明澄を部屋に戻す選択肢を取るということは、その部屋にお邪魔するということ。


 おそらくそちらの方がまずい。

 見られたくないものもあるだろうし、何より彼女の部屋の鍵を探すために明澄の服のポケットなどを漁らなければならない。


 そうなると無駄に触ったりするつもりはなくとも、必然的に身体をまさぐるような形になる。

 これが、一番良くない。起きたあと明澄も不快に思うかもしれないし、庵の理性を吹き飛ばす可能性があった。


 布団や自分のベッドに運んで寝かせてやるのも、精神的に辛い。


 だから、庵は極力触れないでいるために明澄の寝ているソファをベッド仕様に変形させることにして、まずは彼女をゆっくりと横に倒してやる。


 その際、


「庵くん……」


 と、聞こえてきて、「起きたか!」と安堵するものの、それが寝言に近い反応だったと分かってからは、


(このやろう……!)


 そんな風に庵はこっちは苦労してるんだぞ、と悪態をつくのだった。

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