第46話 聖女様と朝のお散歩
家から出ないクリエイターの大敵は運動不足だ。
いや、現代社会においてデスクワークや在宅で仕事をしている者も同じだろうか。
なんにせよ引きこもりがちになると、運動不足からくる身体への影響は色々ある。
例えば、贅肉が付くとか……
「肉付いたかもなぁ。よし歩くか」
仕事部屋でイラストの制作をしていた庵は唐突に二の腕をつまみながらそう言い出した。
学生で徒歩通学とはいえ帰宅部だし、体育でもほとんど動かない。
栄養バランスを偏らせないようにはしている。というかバランスよくとっているからこそ、運動不足で肉がつくのかもしれない。
傍から見ても全く太ってはいないが、一度気になると心配はしてしまうし、運動不足は事実だ。
時刻は午前四時半。
休日ということもあり徹夜で作業をしていたが、区切りも着いたし謎の深夜テンションからか、彼は少し運動を行うことにした。
なんとなしにSNSで「太ったかも。今から歩く!」と呟いてから彼は準備を始めた。
「さぁて、歩こうかね。えい、えい、むんっ!」
庵はアウターやインナー、手袋、マフラーと防寒対策すると、自宅から出て背伸びする。
部屋に鍵をかければ意気揚々と出かけようとするのだが、
「おはようございます。庵くん」
「え、なんでいるの?」
隣からそう声を掛けられ、振り向くと柔らかく笑って佇む明澄がそこにいた。
「呟きを見かけましたので。どうせならお供しようかと」
「起きてたのか……」
「二時半まで配信をしてましたし、まだ目が覚めていたので」
「そーいや配信してたな」
庵は意外とどうでもいいことを呟いたりするタイプで、たまたま呟いたそれを明澄に見られたらしい。
そして起きていた彼女が待ち構えていたということか。
こんな時間まで起きて仕事をしている、なんとも二人らしい出来事だった。
「私も運動はしたいなぁと思ってましたし、ちょうどいいかなって」
「じゃあ、いくか」
「はい」
別に明澄がいても問題がある訳では無い。寧ろ一人で歩くのは手持ち無沙汰になるから、話し相手がいる方がいいだろう。
庵は明澄と一緒に朝の散歩へ出掛けることにした。
「ちょっと冷えますね」
「もうすぐ春休みだけど、まだ朝方だしな」
マンションを出ると住宅街沿いの道を一緒に歩いて行く。
春先とはいえまだ冷える。
たまに腕をさすりつつ、二人は他愛もない話をする。
「庵くんは春休みはどうなさるんですか?」
「ま、特に予定は無いし、四月のチャンネル開設に向けて頑張るくらいかね。明澄は?」
「私も配信するくらいなので特には」
「お互いそんなもんだよな」
庵、明澄ともに一人暮らしだが、帰省する予定はない。
親からは何も言われていないし、恐らくそれは明澄も同じように見える。
冬休みはずっと配信をしていて帰省している素振りがなかった。
年末年始ですら帰省しなかったということは、そういうことなのだろう。
「なんだか平和ですよね」
「平和じゃなきゃ困る。しかしこうしてお前と朝方に歩くようになるなんてなぁ」
「確かに年明けまでは考えられませんでした」
穏やかな朝の住宅街をのんびりと歩いていれば、明澄が隣でまったりとした口調でそう呟いていた。
庵と明澄の関係は新学期早々に大きく変わった訳だが、それからも少しずつ変化している。
まさか、素っ気なかったお隣さんとこんなにも平和に出歩くようになるなど思いもしなかった。
庵からは小さな微笑みが漏れていた。
「あ、少し自動販売機に寄っても?」
「そうだな。あたたかい飲み物でも買おうか」
程なく歩いていると、公園に差し掛かる。
自動販売機を見つけた明澄はそちらに視線を移しつつ尋ねてきた。
防寒対策はしているとはいえ寒さはある。
庵は頷くと彼女と公園に寄って、ホットコーヒーを購入する。
ただ明澄はなぜか、炭酸飲料を買っているようだった。
「冷たいヤツでいいのか?」
「なんだか飲みたくなってしまって」
「冷えても知らんぞ」
「大丈夫です」
たまには買おうと思っていたものとは違うものを買いたくなることもある。
そんな彼女に庵が苦笑しつつ言うと、明澄はそうほんのり笑みを浮かべていた。
「それに寒くなったら庵くんのおうちで紅茶を淹れて貰いますから」
「マグカップ目当てじゃん」
「いいじゃないですかっ。あっ……」
「おいおい。こぼしてるじゃないか」
「庵くんのせいですっ」
「なんで俺なんだよ。ほら、タオルあるから」
「すみません」
明澄が紅茶を淹れて貰おうとしたのは、あの気に入っているマグカップで飲みたかったからのようだ。
少し呆れるように庵が口にすれば、明澄はマグカップにこだわっていた事が恥ずかしかったのか、ぷいっと顔を背けた瞬間ジュースをこぼしていた。
「そろそろ帰ろう。手袋も濡れたしさすがに冷えるだろ」
「はい。少しはしゃぎすぎました」
「行こうか。ほら手出せ」
「……?」
「濡れた手が冷えたら辛いぞ」
「あ、そうですね」
ジュースでベタついたから水道で洗ったが、そうして冷えきった手のまま歩かせる訳には行かない。
三十分は歩いただろうし、庵は自宅に戻ることにする。
その際、庵は手袋を外し明澄にそう言って手を差し出せば、彼女も手を出してきた。
庵はその少し赤らんだ寒そうな手を握って、アウターのポケットに突っ込む。
これで暖かいだろう。
手袋を外したのは必要以上に熱気がこもりそうだったからだが、少し失敗したかなと思ってしまう。
明澄の手は柔らかく、とてもひんやりとしていて冷たい。
なのにどこか温かさを感じるし、前回とは違って直接手を握るという行為に気恥しさがあった。
自然と行動に出ていたが、先日彼女の頭を撫でた時にあまり触れるのも、と考えたばかりなのにこうして手を握っている。
困らせてなければいいと思うが、隣にいた明澄を見て不安はすぐに消えた。
「庵くんはナチュラルにこういうことできますよね」
「そうか?」
ふっと見上げてきた明澄は感心するように言って、その表情を緩ませていた。
まるで小さな子供が笑うかのようで、邪気がないというか無垢というか。
そんな風に可愛く笑みを見せる明澄に思わず、胸の辺りで何かが弾むようだった。
「はい。とても紳士的でいいと思います」
「もしかしたら手を握りたいだけの変態かもしれんぞ?」
「あなたはそんなことしないじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけどな」
「ちゃんと暖かい気持ちが伝わってきます。優しいなぁって」
言って、彼女はまたふにゃっと笑えば視線を外して、マフラーに少し顔を埋めていた。
その横顔からは赤くなった頬と耳がちらりと見えた。
きっと庵だってそうなっているはずだ。
互いに口元から頬までマフラーで隠すようにして、公園を出ると帰路についた。
「ほんとに来るのか?」
「だめ……ですか?」
「い、いやダメじゃないけどさぁ」
マンションの自宅がある階まで戻ってくると、明澄は自室に戻らず、家のドアを開けた庵の隣にいた。
どうやら本当に一杯、頂きに来たらしい。
仕事もないし、どうせ目が覚めている。学校もないし特に予定も作っていない。
都合、時間共に問題はないが、この時間に女子を連れ込むというのはどうなのだろう。
いつも家の中に招き入れているし、女子を連れ込むのに時間も何も無い訳だが、少し悪いことをしているような気がした。
「一杯飲んだら戻れよ? お前も女子なんだしさ、こういうのは気をつけないと」
「分かっています。庵くんだから安心しているのです。他の人とはこんなことしないですよ」
「そういうことを言うと勘違いするって話なんだけどなぁ」
明澄はちゃんと線引きしているし、人との距離を保つのは慣れているから間違うことも無いだろう。
それでも心配はしてしまう。
だから一応、庵は自分は何もする気は無いということも含めて伝えるのだが、
「それ、いつもの庵くんじゃないですか……」
「どういうこと?」
「いいです……ばか」
明澄は呆れたかと思えば、可愛らしくむすっとしてから赤らんだ表情のまま部屋の中に入って行ってしまった。
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