第45話 聖女様の愛用品と会議
「最近そのマグカップずっと使ってるよな?」
「ええ、せっかく頂いたものですから」
夜八時過ぎ。
この後、瑠々や零七たちが集まる打ち合わせ会議があるのだが、その前に時間を取った二人はダイニングで談笑していた。
ホワイトデーから数日経つが、毎日のように明澄はマグカップを愛用している。
水やお茶を飲むのはコップだったのに、今では全て庵がプレゼントしたマグカップで飲んでいた。
贈った側としてはこの上ないことだが、あまりにも気に入られていて少し苦笑してしまう。
またチョコとキャラメルのスティック飲料は、大事に取ってあるらしいから不思議だ。
まぁ、明澄にプレゼントしたものなので自由にしてくれて構わないし、大事にしてくれるなら嬉しい限りである。
「さて、そろそろ準備しないと」
「ですね」
「それ部屋に持って行きたそうだな」
「だ、だってやっぱり使いたいじゃないですか」
会議の時間が迫ってくると二人は腰を上げるのだが、彼女はまだマグカップを手にしていた。
庵に指摘されたのが図星で、明澄は恥ずかしそうに目を伏せる。
「あんまり持ち運ぶと落としたりしそうだぞ」
「大切なものなのでそれは困ります。それにこんなプレゼントを貰ったことなんてないですから」
「ま、割れたらまた買ってくるけどな」
「そんな悲しい話はしないでください。それにそういう問題じゃないですし」
明澄のその瞳、その表情はとても形容しきれないほどに、優しく穏やかで愛でるようにマグカップを見つめている。
割れたときの話なんてしたくない、と彼女はきゅっとマグカップをもつ手に少しだけ力を込めていた。
「ま、どうせほぼ毎日ここに来るんだし置いていこうな」
「分かってます。ちゃんと置いて行きますから、また後で寝る前に一杯お願いしますね」
「はいよ。紅茶でも淹れようか」
「良いですね。それでは失礼します」
マグカップを持ち歩いて部屋を行き来するのは怖い。
何かの拍子に割ってしまったら、今の明澄を見ているとショックで寝込みかねないレベルだ。
まるで新しいおもちゃを気に入った子供のようで、随分と可愛いらしいなと庵は微笑ましく思っていた。
「というわけで、俺のチャンネルが動き出します」
「ママ、おめでとうございます」
「おお! ついに来たねぇ」
「スパチャはいいゾ」
「カレン、冗談でもやめときな」
ボイスチャットでの会議が始まり、話を進めていく中で庵がチャンネルの始動を告げる。
今日、会議に参加しているのは零七、夜々、カレン、瑠々に庵と明澄を含めた六人だ。
それぞれ思い思いの反応を示していた。
「2Dはうちのモデラーを紹介しますね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「どうせならもういっそ3Dも作っちゃえば?」
「てかぷろぐれす入りなよ。歌もそこそこでゲームも出来る、トーク力もある。普通に欲しい人材じゃない?」
「そもそも氷菓たちと遊びすぎて、かんきつ先生がぷろぐれすのライバーって勘違いしてる人もいるしね」
庵はようやく2Dモデルを作り配信者として動き出すわけだが、それはかなり前から望まれていたことだ。
零七たちは続々とそんなことを言い出すほどで、ぷろぐれすの面々からもかなり好感触だった。
「声も良くて性格も優しいですし、料理もできます。それにかっこいいですからね。ママ、うちに来ません?」
「うかまる、どんだけかんきつのこと好きなんだよ。やっぱデキてんの?」
「この間の切り忘れの時も全然、雰囲気違ったしねぇ。やっぱりヤってるって」
「アタシ確信したわ。これ絶対、既にオフで会ってるでしょ」
明澄が庵の事を得意げに褒め称えると、零七たちが関係を疑ってきて、二人はどきっとした。
なんならカレンに関しては大正解だ。
そして、事情を知る瑠々は余計なことを言わないように、冷や汗を垂らしながら黙って見守っていた。
「そんな、俺は会いに行ったりなんてしてませんよ」
「会ってたらとっくにオフコラボしてますから」
嘘は付いていない。
明澄がやってきて、毎日顔を合わせているだけだ。
先日の配信を切り忘れた日は、実質オフコラボのようなところはあるけれど、ギリギリセーフだろう。
「どうかにゃあー。というかわたしが会ってオフコラしてもいい?」
「アタシも会ってみたい」
「お前はダメ。汚いから」
「なんだとぉ!」
「ま、クサイやつ以外はオフコラは兎も角、メシ食べに行くくらいはいいじゃんね。ね、瑠々ちー、やってもええかい?」
途端に三人が庵と会いたいと言い始める。
面白半分とは分かっているが、そんなに自分に会いたいものなのか? と庵は不思議に思う。
会いたくない訳では無いが、問題が起きないように配慮してきたから明澄以外とは今のところ考えてはいない。
とりあえず瑠々の返答を待つ。
「このメンツならいいですけど、女性ばかりとオフコラをしたら不快に思われるかもなので気をつけて下さい」
「お? んじゃあ、かんきつ次第って訳か」
「先生どうする?」
「いやぁ、会ってどうするって話ですけどね」
「ママは忙しいですし」
「あ、そうだ。来月男ライバーが春のローション祭りするでしょー? そこに呼んだら?」
「いや、ぜろちゃん、あれ3Dだし」
「別にスタッフが使う黒子とか全身ストッキングの3D渡せばいいと思うけどねぇ」
零七が滅茶苦茶なことを言い出す。
庵には3Dコラボなど頭にすらなくてびっくりした。
何よりぷろぐれすは部外者へ勝手に自社の3Dのモデルを渡していいのか、と不安になる。
一応、アイドルとは謳っているはずだが芸人集団と言われるだけはあると彼は思い出した。
「ローションは行かねぇよ。怪我したら仕事やべぇし」
「そうです! 先生のお手は世界遺産ですよ? 絶対にダメです!」
「ほんとこいつかんきつ大好きじゃん。ガチ勢怖っ!」
庵は手などを怪我をすると仕事ができなくなってしまう。普段の体育ですら抑えているというのに、ローションを使って遊ぶとなると危険が増す。
彼が断ると明澄が追従して猛反論していた。
「まぁ、ローション祭りは兎に角、少し考えさせて下さい」
「はいはい、前向きに検討よろしくね。もう、今日は切るか。また来月のコラボよろしく頼むよ」
「では、お開きにしましょう。かんきつ先生は何かあればご連絡お願いしますね」
とりあえず、コラボや今後の予定については既に話し合っているので、庵の件はまた今度ということになった。
庵があまり会いたがっていないというのを夜々は察したらしい。
解散の流れになる。
「にしても今日の瑠々ちゃん綺麗だったねー。残念ドMマネとは思えなかった」
「確かにそうね。いつもは残念なのに」
「おめーらが言うな。汚物と遅刻魔」
「「は? 貧乳は黙ってな」」
「てめぇら、今から家こいよ!」
「はい、切りますよ」
と、自由すぎる三人がボイスチャットで言い合いをしつつ、会議は終了した。
「それで庵くんはどうするんですか?」
「ま、これを機会にってのは思わなくもないけど」
会議が終わると約束通り二人はティーブレイクをしていた。
話題は庵があのメンバーとオフで会うかどうか。
庵が人と会いたがらないことを明澄は知っているため、気になっていたらしい。
「皆さん優しい人たちですから安心は出来ると思います」
「ま、オフコラするならまずは明澄からかなぁ。でもお前は嫌だもんな?」
「いえそういう訳ではなくてですね、オフコラボ自体はいいんです」
「ほう」
「でもどこかで隣に住んでいるというのはバレるかもしれません。そうなると先生とのことを噂されることになりますし」
「今更だろ。俺らは同人誌まで出来てるしな」
明澄は以前、怖い思いをしている。
だから彼女とのオフコラボは難しいかもしれない。
隣に住んでいることを明かす訳では無いが、伏し目がちに話しているところを見るに、やはり明澄には色んな不安があるのだろう。
「でも過激な人はいるので、もしあなたが傷つけられることになったらと思うと怖いんです。あの時まではなんとも思っていなかったのに、バレそうになったら色んな考えがよぎってしまって怖くて……」
明澄の体験した恐怖の理由はそういうことだったらしい。
自分のことよりも、庵のことを気にかけていた。
優しい性格の明澄らしい理由で、確かに庵としても同じ立場ならこんな風に思っていたかもしれない。
と言うよりも、庵だって彼女が大変な目にあっては欲しくないと思っている。
明澄はまた前のように落ち込むような、怖がるように口にしている。余程色々なことを考えているのだろう。
少しだけ泣きそうな声音とマグカップを握っている様子を見ると、本当に人に対して誠実なんだなと庵は優しい気持ちになる。
「もし炎上したりして今まで続けてきた関係が壊れてしまうのは嫌なので。それは零七も夜々さんも同じですけど、私がライバーでいる限りは庵くんと関わることになりますし。怖いのはそういうことです」
「そうか。ありがとな」
「あの……」
彼女にはまだまだ色々な問題があるのだろうし、多少抱え込むような責任感の強さを感じる。
どうにかしてやりたい。ここまで関わってきた庵はそう思っていた。
そして、明澄が思っていることを全部言い終えると、その時には庵の手がまた彼女の頭に触れていた。
触れられた明澄は驚くようでもなく、ただこちらを見て眦を下げる。
「そうやってあんまり考え込まなくていいよ」
「でも……」
「燃えるならとっくに燃えてる」
「そうでしょうか」
「ああ」
「分かりました。もう少しだけ楽に考えてみます……」
撫でられて落ち着いたのか、明澄はゆっくりとした口調で答えていく。
次第に表情がとろんとし始めて、彼女は撫でられつつマグカップに口をつけたりと、可愛らしい小動物のようになっていた。
あまりにも自然に触れてしまったが、嫌がってないのなら良かったと庵は今更思う。
ここまで気を許してくれているのは信頼があるからだろう。関係が壊れてしまうとは明澄が心配していたが、庵もそれは同じだ。
前と同じく放っておけなくて慰めようと気遣ってのことだったが、こうして触れるのももう少し考えなくてはいけないかもしれない。
「落ち着いたか?」
「はい。ありがとうございます」
「そうか」
「あ……」
庵は彼女が普段のように戻ったことを確認すると、その手を引っ込める。
すると、明澄はちょっと名残惜しそうな顔を見せた。
明澄は時折、孤独そうに見えるし寂しそうな時もある。
それにそんな表情を見せられたら、また手が伸びてしまいそうだ。
心臓が跳ね、鼓動が速くなる。
さらに思考はぐるぐると回り出すような、はたまた止まってしまうような感覚に陥った。
多分、今鏡は見ない方がいい。
「もう少し撫でてやろうか?」
「庵くん顔赤いですよ? 揶揄うならそれからにしましょう」
「うるせー」
自分のどきっとした感覚、感情を誤魔化すように明澄に告げると、彼女に逆に揶揄われてしまった。
明澄だって朱色を帯びた表情で恥ずかしそうにしているくせにだ。
なんだか癪だ、と庵は明澄の頭を多少雑に撫でる。
それで髪はぐしゃっとなった。
明澄はちょっとだけふくれて髪を直したそうにするけれど、すぐに受け入れてふにゃっとした愛らしい表情に変わっていた。
そうして夜のティータイムはもうしばらく続くのだった。
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