第40話 推しに対する愛と囁き
先日起きた切り忘れ事件から数日。
明澄と庵に配信関連でちょっとした変化が訪れることになった。
「かんきつ先生、チャンネルを始動させてみてはいかがですか?」
あんなことがあったので久しぶりに千本木瑠々と連絡を取ると、彼女からそう提案された。
瑠々曰く、先生も配信に関してもう少し詳しくなってもいいんじゃないですか、とのこと。
先日の事故は庵のチェックがあれば防げたし、いざ配信者として活動すればもっと役立つし助け合えるだろうという助言だった。
「というわけで、始動させてみようと思う」
「そうですか……いいのではないですか」
明澄に色々話を聞こうと庵は早速瑠々からの提案を伝える。
以前から明澄は庵のチャンネルの始動を望んでいたので、快く引き受けてくれると思っていた。
しかし返ってきた反応は鈍く、どこか少し彼女の機嫌は良くなさそうだった。
「なんか良くなかったか?」
「いえ、別に。ただ、私が前からずっと言っていた時は渋っていたのに、瑠々さんからだと即答するんだなと」
と、明澄はほんのりふくれていた。
デビューしてコラボをするようになった頃から、明澄は彼のチャンネル始動を待ち望んでおり、何度も提案やお願いをしてきた。
それを庵は事故や炎上が怖くて自分のチャンネルは特に動かすつもりがなく断っている。
なのに、こうして瑠々からの提案には直ぐに応えたことに不満があるらしかった。
「い、いや。いい機会だと思っただけでさ。人によって態度を変えてるわけじゃないから」
「分かってます。でも庵くんは私のことを推しって言ってくれる割に全然、応えてくれる素振りがなかったですもん」
二人はお互いに推しと公言している仲で、明澄がデビューした頃からの付き合いだ。
『かんきつ』とはリアルの知り合いでぷろぐれすの同期である零七を除けば、一番のパートナーと言っても過言ではない。
だから、もう少し自分の意見やお願いを聞いてくれて良かったんじゃないかと、珍しく面倒くさい一面を見せていた。
こういうところはオタク気質だなぁと庵は微笑ましく思う。
もっと言えば撫で回したくなるような、幼さと愛らしさと推しと言ってくれる嬉しさがあった。
「お前、ほんとかんきつに対してこだわりというか執着があるよなぁ」
「だって推しなんですもん。庵くんはトークスキルもありますし、歌もお上手でお仕事関係のエピソードもいっぱいあるのに配信しないのは勿体ないなぁと」
「ガチだなぁ」
「ガチです。もちろんお仕事があるのは分かってますし、わがままだとは自覚してるんですけど、気持ちの問題と言いますか」
「分かる、俺も同じだ。無理とは分かってても雑談配信とか朝までやってて欲しいからな」
明澄も自分の願望がワガママだと理解していても、本音はもっと推しに活動して欲しいと難解な気持ちを抱えていた。
ただそれは庵も同じで、お互いの推しに対する気持ちは本気だった。
推しである氷菓のためならなんでもするし、協力は惜しまない。
配信も歌もライブも全力で見届けるし応援する。
だからこそ、もう配信事故を起こさなくていいように、知識や意識を身につけようと考えていた。
何より明澄にあんな思いをさせたくない。
配信者として真面目で真剣に取り組んでいるからこそ覚えた恐怖を、もう一度味わわせてはいけない、そう強く思っているのだった。
「ふふっ。厄介ですね私たち」
「そんなもんだって。まぁ、だからさ。ご指導ご鞭撻お願いできませんかね?」
「分かりました。拗ねても仕方ないですし、かんきつ先生のチャンネルが動き出すのは凄く嬉しいですから」
彼女も言うだけ言うとスッキリしたのか、クスリとしてさっきまでの拗ねていた聖女様はいなくなっていた。
だからいいタイミングだろう、と庵が手を合わせて明澄にお願いすれば、彼女も今度は機嫌を直して承諾してくれる。
「じゃあ、よろしく頼む」
「でも一つだけ対価を頂きましょうか」
「お、イラストでも着たいコスプレ衣装でもなんでも用意するぞ!」
ありがたい、と庵が頭を下げれば、彼女は人差し指を立てそんなお願いをしてきた。
明澄のことだから無理なことは言わないはずだし、彼はどんとこいとばかりにそう構える。
「では庵くんにはボイスをお願いしましょうか」
「ボイス?」
「そうです。これからいつかボイスを出すかもしれません。それに、私を、氷菓を推しと言って下さるのなら、証明がほしいですね」
「まぁ、良いけど。それでなんて言えばいいんだ?」
明澄からお願いされたのは、イラストでも衣装でもなくボイス。しかも氷菓に宛てた専用の音声作品だった。
それにまだ少し瑠々の件について根に持っているらしかった。
予想外の要求に戸惑ったものの、なんでもいいと言った手前撤回するつもりは無い。
庵は読み上げるテキストを明澄に求めた。
「そうですね」
『氷菓、愛してるぞ。好き、大好きだ。氷菓は俺の最推しです。これからもずっとよろしくな』
「で、どうでしょう?」
「いや、この前とほぼ同じじゃね?」
明澄は即興で考えたのか、そう諳んじて庵に伝える。
どこかで聞いたことのあるセリフだ。
そう、例の配信中に言わされた自作自演クソマロの内容をアップグレードしたものだった。
その後、明澄はそれをスマホで入力して送ってきた。
「いいんです。それにちょっとした実験も兼ねてるので」
「実験?」
「はい。というわけでお願い出来ますか?」
「良いよ」
明澄はまた曖昧に意味深なことを口にする。
先日も思ってたのと違う、などと言ったり庵には詳しく教えてくれない。
ただ、きっと意味があるのだろうと庵は受け入れる。
そして、
「んんっ。……氷菓、愛してるぞ。好き、大好きだ。氷菓は俺の最推しです。これからもずっとよろしくな――――これでいいか?」
咳払いをした庵は満を持して、スマホの画面に表示されたセリフを読み上げた。
読んでいる最中は前に似たようなことを口にしたこともあってなんとも思わなかったが、いざ言い終えるとまた羞恥心が込み上げてくる。
一方の明澄はというと目を閉じて、聞き入っているようだった。
しばらく、何か考えているようでリアクションがなく、彼は明澄からの反応を待つ。
それがまた恥ずかしさをより呼び寄せて、いたたまれなくなってくる。
「……はい」
「どうだった? 合格か?」
「合格です。とても満足しました。素敵です。けど、やっぱりなんか違いますね。文句を言いたいわけじゃないんです。でも考えていたことと違ったので」
「そうかい」
庵が読み上げてからしばらくすると明澄は目を開ける。
感想を求めれば彼女は頷きながら褒めてくれた。
ただ、実験と言っていたように、なにか思惑があったらしいが、それは上手くいかなかったようだ。
明澄は微妙そうな顔をしていた。
庵にはなんの事だ? としか思えないので、とりあえずボイスそのものに満足ならそれでいいと割り切る。
「庵くん、少しいいですか?」
「今度はなんだ?」
と、彼が色々考えたりしていれば、不意に明澄がそう切り出した。
「かんきつ先生の素敵なイラストが好きです。私の一番の推しです。さっきのボイスも良かったです。それと、ママ。これからもよろしくお願いしますね」
彼が反応した時には既にそれは始まっていた。
明澄がそっと耳元で、そんなセリフを読み上げたのだ。
今までにボイスをいくつも販売してきただけあって、とてつもないクオリティだった。
息遣い、セリフの行間、抑揚と耳障りのいい声音。
どれをとっても、庵とは比べ物にならない出来だ。
まるで、いつもは画面の向こうにいる氷菓がそこいるようだった。
庵は背筋や耳元をぞくりと震わせていた。
「え、何? どうした急に!?」
「これもちょっとした実験です……」
あまりにも急な出来事に庵が遅れて驚く中、彼女は頬を染め上げまた実験だと告げてくる。
だから、庵が「上手くいったのか?」と尋ねれば明澄は「まだ分かりません」と、苦笑しながら口にしてそそくさと部屋から出ていってしまった。
そんな一連の展開に庵はなんだったんだ? とぽかんとしながら、明澄をただ見送るしかできなかった。
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