第20話 聖女様の手料理と新しい経験
明澄が夕食を作り初めてから一時間半ほど経つと、恵方巻きやお吸い物などがダイニングテーブルに揃った。
「そろそろお食事にしましょうか」
「もうそんな時間か。おお、美味そうだ」
「食材が良いものばかりですからね」
エプロンを脱いだ彼女はそう言って、髪を下ろしながら席に着く。
庵もタブレット端末を片付け、手を洗ってから座り直すと二人は手を合わせた。
明澄が作った恵方巻きは海鮮とサラダ巻きの二種類だった。
海鮮には湯通ししたエビ、イクラ、マグロ、サーモンがふんだんに使われ、少し太めな恵方巻きになっている。
もう一つのサラダ巻きは、レタス、ツナ、卵、サーモンが巻かれていた。
「今年の恵方ってどこだっけ?」
「確か北北西ですね」
「一体、誰が決めてるんだろうな」
「
「へぇー」
「因みに恵方は十六方位のうち四方だけなんですよ」
「博識だなぁ」
不意に思ったことを口にしただけだが、明澄から詳しい回答が返ってきて庵は感心した。
恵方が四つしかないということも知っている辺り、中々の知識量だ。
雑学も程々に庵と明澄は恵方巻きを手に取ると、今年の恵方を向いた。
(意外とでけぇな)
ただ、恵方を向いたは良いものの食材を余らせないよう使い切ったので、大きめになっていてかぶりつくのが躊躇われた。
横を向いてみると明澄もどうやって口をつけるか悩んでいるようだった。
その小さな口では丸かじりというのは少し厳しいだろう。
「あんまり見ないでください。大きく口を開けるのは恥ずかしいので」
「そんなもんなのか?」
恵方巻きに苦戦する彼女が面白くて、じっと見ていると明澄から苦情が入る。
その頬にはほんのりと朱が差していた。
「そういうものです。だってはしたないじゃないですか」
「誰も気にしないとは思うけどな」
「私が気にするんです。もう、朱鷺坂さんは向こうでも向いていて下さい」
「恵方向かねぇと意味ないんだが?」
「あなたなんて鬼門で充分です」
「悪い悪い。もう見ないから許してくれ」
女子にとって大きく口を開けるのは躊躇われる。そんなことを気にしたことも無い庵は共感しづらかった。
少しデリカシーに欠けていたようで明澄に怒られて、恵方どころか鬼門を向かされそうになる。
庵がすぐに謝ると明澄は「仕方ないですね」と言いつつ、今度こそ恵方巻きに口をつけるのだった。
「んむっ、ん……」
二人して恵方巻きを食べ始めると、習わし通りに無言になって口を動かす。
見るな。とは言われたがやはり気になってしまうもので、隣にちらりと視線をやると明澄は苦戦しつつ恵方巻きと戦っていた。
そして、彼女の小さな口で恵方巻きにかぶりついている姿は妙な色っぽさがあって、庵はすぐに視線を逸らした。
(見るんじゃなかったわ)
初めは単純に気になっただけで、邪念など無かったのに、その姿を見るとふつふつと邪な気持ちが庵の中に湧き始める。
男として良くないし、あまりにも彼女に失礼だが一度見てしまったものは仕方がない。
そうして、後悔と申し訳なさから、庵は必死に黙々と恵方巻きを食すのだった。
「あー美味かった! ごちそうさまでした」
「お口にあったのなら良かったです」
「いやぁ、水瀬に食材を任せて正解だったわ」
明澄の手料理を全て完食すると、かなり満足した様子で庵は彼女にお礼を言う。
明澄はそれほど喜ぶ素振りを見せしなかったが、安堵はしたのだろう。
一息付いてから目を細め口元を緩めていた。
普段、庵の手料理を振る舞われていた明澄からするとそれとなくプレッシャーがあったはずだ。
恵方巻きはそれほど難しくはないが、シンプル故に巻き方や酢飯の加減、米の炊き具合などが目立つ料理といえる。
彼女が料理中に何度か味見を求めたのも、そういう背景があったのかもしれない。
そのおかげか高級食材を使用したとはいえ、手放しで褒めちぎってしまうくらいに美味しかった。
「こんなに美味いメシを作ってくれるんだったら、もう少し早く身バレしても良かったかもな」
「ふふっ、そうですね。確かにこうして喜んで貰えるという感覚は全然知りませんでしたから。そういう意味では同感です」
最初は最悪の事態が起きてしまったと絶望したものだが、こうして忙しい時に手料理を食べられるなら考え方も変わるというもの。
一方の明澄もまた人に食べて貰ったりその相手が満足して喜んでくれる、という体験は初めてだったようで悪くないと思ってくれたらしい。
「親御さんに振舞ったりはしなかったのか?」
「ないです。あの両親にはとてもじゃないですけど、私の手料理なんて食べさせられません」
「そうか……」
これだけ上手なら家族と料理を練習したりしていたのかと思ったがどうやら違ったようだ。
明澄は自分を卑下するように冷たくそう口にしていた。
なんだかその寂しそうな物言いは庵を戸惑わせるが、彼女はすぐに誤魔化すように笑って見せる。
「気分を悪くさせてすみません」
「いや、大丈夫だ。家族の事を聞いた俺が悪い」
明澄が謝ることはない、と言うのが庵の見解だ。
人によってデリケートな部分である、家族の話題はあまりするものでは無いなと少しだけ後悔する。
「あの、でも朱鷺坂さんに喜んでもらえたのが嬉しかったですから。また作らせて下さいね」
「もちろん。これからも頼む」
「はい。先生の絵のためですから」
「水瀬には感謝しかないな」
彼女は張り付けたような作った笑みを消したと思えば、ぎこちなくはあっても柔らかく笑ってそう言った。
庵も当然、約束したようにお互いが困っている時は料理を振る舞い合うつもりだ。
料理にしろ掃除にしろ明澄の手伝いがなければ、また多忙過ぎる一人暮らしに戻ってしまう。
彼女からそんな風に言ってくれるのはとても嬉しかった。
「それにしても人と食卓を囲むと言うのは良いですね」
「そうだなぁ。去年までずっと一人だったからな。自分の作った料理を美味しそうに食べて貰えるってのはめちゃくちゃ嬉しいもんだし」
しみじみと明澄は温かいお茶を啜りながらそう漏らす。
それには庵も完全に同意して、うんうんと頷いた。
「ですよね。今日知ったこの感情はずっと忘れないと思います」
「んな、大袈裟な」
「そんなことないですよ。というか忘れたくないです」
湯のみを見つめる明澄は噛み締めるように言葉を紡ぐ。
庵は苦笑したが、彼女は本気でそう思っているらしく、ふるふると頭を振って言い直した。
余程、彼女にとって大事な経験だったらしい。
明澄の過去や家族のことは分からないが、なんにせよそう思えるのは大事なことだろう。
「ごめんなさい。今日は少ししんみりしてしまいましたね」
「たまにはいいんじゃねぇの。というか普段が騒がしいだけかもな」
眉をさげた明澄は苦く笑ってそう口にするが、庵はあまり気にはしなかった。
こうして、食後にゆっくりしながら話すことは少なかったし、まったりするのも悪くは無いだろう。
いつもは早めに片付けて明澄も帰ってしまうし、庵も仕事に戻るだけ。
雰囲気は兎も角、行動は各々が事務的で淡々としている部分はあった。
「それに今日は配信もないし、ゆっくりすればいいと思う」
「そうですかね。では、もう少ししたら片付けましょうか」
「ああ」
庵が気遣うように言うと、明澄は目を瞑りくたりと椅子の背もたれに身体を預けた。
それからしばらく他愛もないことを話したり、お茶をすするだけだったりと、珍しく二人の間にはゆっくりとした時間が流れるのだった。
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