第1話 聖女様に身バレしました
「もうこんな時間か。やば、ゴミも出さないと!」
時計をちらりと見た庵はイラストの制作作業を止め、急いで登校の支度を始めた。
学生である彼は登校前に絵を描いていることが多く、帰宅後や就寝前などにも手を動かしていた。
その勤勉さと作業量が彼を高校生ながらにして、プロイラストレーターへと押し上げた要因だ。
こうして少しの憂鬱や眠気と共に庵の一日は始まる。
「さむっ!」
部屋から外へ出ると凍てつくような冷気に晒され、思わず声が出た。
一月初旬。冬休み明けの初日なのにもう外へ出るのが嫌になってくる。
しかし何とか気を奮い立たせ、庵はゴミ袋を持って一歩踏み出していく。
「朱鷺坂さん、おはようございます」
けれども背後から透き通るような声に引き止められた。
振り返ってみると、肩まで伸びた銀色の髪を揺らす少女がそこにいた。
彼女は
聖女様なんてあだ名が付くだけあって、明澄はとても綺麗な顔立ちをしている。冷た気ながら澄んだ瞳、綺麗に通った鼻筋、薄い唇は艶があって、同じ人間とは思えないほどの端正さだ。
加えてすらりとした手足は白磁器を思わせる白さがあり、肌の透明感が庵とはまるで違う。
彼女は紛れもなく美少女と言うに相応しく、聖女様と呼ばれるのも不思議ではなかった。
そんな彼女と庵はご近所さん、というかお隣さん同士だ。
ただ何故か庵は彼女から少し距離を置かれており、いつもは目が合うかすれ違った時に申し訳程度の会釈をするぐらい。
わざわざ背後から声を掛けてくるのは随分と珍しいことだった。
「あの、今日から指定のゴミ袋の筈ですが?」
「あ……」
「あなたもここが厳しいことを知っていますよね? すぐ学校に苦情が来ますし、私にも迷惑なのでちゃんとして下さい」
声を掛けたのはどうやらそれを指摘するためだったらしい。
怒っている訳では無いようだが、どこか冷たい物言いだった。
「そうだった! けど、指定のやつ持ってないや。一枚ほど貰えたりしない?」
「はぁ……仕方ないですね。少しお待ち下さい」
すっかりゴミの出し方が変わったことを忘れていた庵は指定のゴミ袋なんて買ってはいない。
庵が助けを求めると、彼女は呆れながら部屋へと戻っていった。
どうやらゴミ袋を分けてもらえるらしい。
「これきりですよ。今日の帰りにでもコンビニで買って来てください」
「ありがとう。悪いな」
「では」
部屋から戻ってきた明澄はゴミ袋を渡すと、すぐにスタスタと去っていく。
本当に自分は何をしたんだろうか。学校ではこれほど冷たい様子を見かけないのに何故だろう。
心当たりのない庵は首を傾げながらも、有難くゴミ袋を使わせてもらうのだった。
「おーい、聞いてくれよ! すう様が彼氏バレしたってよー」
教室へ辿り着くや否やそんな声が聞こえてきて庵はぎょっとする。
一瞬自分に話しかけてきたのかと思ったが、何やら一部のクラスメイトの間で大きな話題があるらしい。
そして、ちらりと教室の端を見やれば明澄の姿がある。ただ、彼女はそんな話題に見向きもしていなかった。
まるで世俗との関係を断ち切っているようで、確かに聖女様と言われても違和感がない。住む世界が違う、とはこのことだろうか。
「まじじゃん。すう様、身バレして家凸までされてるし」
「ショックだわー彼氏かよー」
(身バレかぁ。大変だな。てか、寄りにもよってすう様かよ)
庵は席に着きつつ密かに耳を寄せる。
どうやら人気配信者が彼氏バレと身バレをしたらしい。
話題に上がっているすう様とは人気実況者Vで、その彼女のキャラデザを担当した絵師と庵は繋がりがあった。
身近な話題過ぎて庵は怖くなる。
身バレ。
身元がバレることの略称であり、主にネット上などで隠していた素性が明らかになってしまうことを指す用語だ。
庵のようにSNS等において有名人の場合は特に恐れていることの一つだろう。
ストーカーやアンチ、変なファンなどに悪用されたり事件に発展する可能性まであり、最優先で回避すべき事案だ。
(まぁ、すう様で良かったか。大手のVだと阿鼻叫喚だろうな。ウチの氷菓もそうか……)
配信者やガチ恋営業、アイドル売りをしている者たちにとって、恋愛沙汰は大スキャンダルだ。
もしそうなったら地獄絵図が展開されるに違いないが、ちょっぴり配信するくらいの庵にはあまり関係はなさそうな話ではある。
(ま、俺は身がバレたところでなんにも影響ないし彼女もいないけど、氷菓絡みは怖いな)
ただ氷菓との関係も親娘というより、男女の仲として二人を見ているようなファンがいることも知っている。
今後、庵に彼女が出来てそれが発覚すれば、所謂、カプ厨的な者たちはそれなりに騒ぐかもしれない。
そうなると氷菓にも迷惑をかけることになる。
庵も今一度、気をつけようと思うと同時に身バレするような事は呟いたりしないし、配信でも気を配っているから大丈夫だろうと高を括ってもいた。
(ちょっと遅くなったな……って、なんでアイツがいるんだ?)
始業式を終えた後、何となく作業に気が向いた庵は図書室で数時間過ごし、夕方の六時過ぎになってから自宅があるマンションへと帰ってきていた。
そろそろ部屋の前というところで庵の足が止まる。朝でも教室でも見かけた同級生の姿がそこにあったからだ。
明澄はどうしてか庵の部屋の前で佇んでいた。
そんな彼女をよく観察してみると、今朝とは違って少し落ち着きがないような、どこかそわそわしているようだった。
「俺に用でもあるのか?」
目が合ったのでそう声を掛けてみる。
どうせ今朝のように何か注意されたりするだけだろう、と彼は思っていた。
けれどその直後、明澄から返ってきた予想外の言葉に庵は頭を抱えることとなった。
「朱鷺坂さんて私の『ママ』ですよね?」
唐突にそんなことを言われ、庵は「は?」としか返せなかった。
帰宅したらいきなり普段、距離のある同級生に『ママですよね?』と言われてもまともな返答が出来るはずもない。
「すみません、少し雑過ぎました。それでは改めまして、朱鷺坂さんって『かんきつ先生』ですよね?」
困惑しているとそれを察した彼女が言い直す。そうしてようやく状況を理解することが出来た。
身バレしてんじゃん……俺、と。
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