雨の鎮魂歌
いつもは通りから届く子供たちの声が、今日は聞こえない。代わりに、断続的な雨垂れの音が静かな部屋の中に響く。
昨晩から降りだした雨は、特別酷くもなく、穏やかに町や周囲の畑を潤した。農家の人々にとっては恵みの雨だろう。商店の人々にとっては客足が遠退くので、少し困りものではあるが。
薄暗い部屋で少年は小さな欠伸をした。ガラスの嵌まった窓が一つしかないこの部屋は、灯りを点けないとかなり薄暗い。しかし燃料をあまり使いたくない少年は灯りを点けずにいる。……暗いと人は眠くなるものだ。
もう一つ欠伸をした少年は、水の膜を張った赤茶色の瞳を軽く擦り、視界が鮮明になったところで立ち上がった。先ほど昼を食べたばかりだが、お茶の準備をする。今日は落ち着く香りの花を入れたお茶を用意した。
あとは恐らく来るであろう客人を待つだけだが、約束などはしていないので来るかどうかは実はわからない。ただ、雨の日の午後はかなりの確率でやって来る。
小さなノッカーの音が狭い室内を渡る。
「はーい」
音を拾った少年は、部屋とは対照的な明るい声を上げてドアに向かう。開いた先に居たのは、綺麗な金糸雀色の髪を結い上げた憂鬱そうな表情の女性。
「こんにちは、ティオ」
「こんにちはステラさん、中へどうぞ」
訪れた待ち人ステラを、ティオは中へと招き入れる。濡れた傘をドアの脇に立て掛け、ステラは申し訳なさそうに奥へと進む。いつものように奥の椅子に座り、栗色の瞳が心配そうにティオを見る。ティオは笑顔を返しながら灯りを用意して、次いでお茶も用意する。
狭い室内を充分に照らした灯りと落ち着くお茶の香りに、ステラは少し安心したようだった。強ばっていた体から目に見えて力が抜けていく。
「……いつもごめんなさいティオ、迷惑でしょう?」
「いいえ、僕は大体暇なのでステラさんとお喋りできて嬉しいですよ」
たとえ口先だけでも――ティオとしては本心だが――迷惑ではないと言われてステラも安堵の息を吐いた。晴れた日であってもティオは暇なことが多く、雨の日なんて尚更で、だから話し相手は大歓迎なのだ。
「やっぱり駄目ね……雨が降ると、あの子のことを思い出してしまって」
温かなお茶を飲んで一息ついたステラは、視線を机に落としたまま呟いた。“あの子”のことはティオも知っている、会ったことも多分あったが鮮明には思い出せない。
「……あの子、物を作るのが好きでね、小さな椅子に、棚、小鳥の巣箱とかいろんな物を作ってたわ」
お茶を口に運びながら相槌を打つティオが、この話を聞くのは初めてではなかった。ステラは何度もティオの元を訪れ、何度でも同じ話をする。
「……将来は大工になるんだって言って、家の補修もいつも手伝ってたの」
ステラのカップを持つ手が震えている。いつも同じ話を、同じように話し、そして……同じように泣く。
「雨漏りがしているから、屋根を直すんだって……あんな、雨の、日に……」
両手で顔を覆って泣き出したステラを、ティオは寂しそうに見詰める。
ステラの言う“あの子”は彼女の息子のことで、彼は嵐の近付く雨の日に雨漏りを直すと言って屋根に上り、足を滑らせて転落し、打ち所が悪く亡くなった。一人息子を可愛いがっていたステラは、雨が降る度にそれを思い出して哀しみ、ティオのところに話をしにくる。
ティオは話を聞くだけで、特には何も言わない。
言うべきことは、ずっと前に全部伝えたはずだ。そう、あの雨の日に――。
「どうしてあなたは生きているのっ! どうしてパオロが死ななくちゃいけないのよっ!!」
あの日、ティオはステラに掴みかかられながら、そう叫ばれた。この部屋の、戸口のところで。
追いかけてきた旦那さんがステラを引き剥がし、謝罪しながら帰っていったが、ティオには自分が罵られる理由がわからなかった。そうして床にへたりこんだまま呆けていると、またステラが現れた。旦那さんを振り切ってきたのか、呼吸は荒く髪は乱れ、全身びしょ濡れだった。勢いのまま押し倒され、揺さぶられる。金糸雀色から落ちる滴がティオの頬を濡らす。
「どうしてっ、パオロはたったの14歳だったのよ! どうして死ななくちゃいけないのっ! どうして14歳なのにあなたじゃないのよ! あの子には将来があったのに!!」
「……」
そんな理由で、とティオは驚いた。初めての、意外過ぎる理由で罵られていることに衝撃を受ける。
再びやって来た旦那さんがステラを引き剥がそうとするのを止めて、ティオは床に寝転がったまま静かに言葉を紡ぐ。
「……ステラさん、パオロくんが14歳で亡くなったことはとても悲しいことです。将来は町のためにとても尽くしてくれたかもしれない。だけど、……僕も14歳の時に決めたんです。この町を維持するために、夢見ていた全てを捨てて、精霊の手を取ったんです」
「そんなの……」
反論しようとするステラに、ティオは恐ろしいほど静かな声で告げた。睨まれているわけではないのに、その視線の強さにステラは逃げ出したくなる。
「生きているだけ良いって思うでしょうね……でも、精霊の檻になって僕は成長を失った。これ以上育つことはない、初めて会う人は皆僕を子供だと思うでしょう外見のままに。誰かと共に歩むことも諦めたました、別れが……辛すぎるから」
「……生きて、る、なら」
絞り出すようなステラの声にティオは苦笑する。
「そうですね、死ぬより辛いことはないかもしれない。だけど僕は生きなきゃいけないんです、少なくとも先代と同じ150歳くらいまでは。……この町を豊かにしておくために」
「ひゃ……ひゃく、ごじゅう」
ステラも旦那さんも驚愕の表情だった。ティオが精霊の檻で、町を豊かにしてくれる存在であるのは町の住民なら皆知っているが、外見が変わらないこと以外にティオの身に何がおきているのかを知っている人は少ない。
驚きで固まってしまった二人に、ティオは困った顔で笑いかける。
「だから……パオロくんが亡くなったのは悲しいことですけど、僕は代わってあげることは出来ないんです」
途端にステラは顔を覆って泣き出した。何に泣いているのかは、ティオにはわからない。人の感情に疎いのも、精霊の檻になった弊害か……これはティオの元々の性質だっただろうか?
ひとしきり泣いて落ち着いたステラは、ティオの上からようやく退き、深く深く頭を下げて謝罪した。旦那さんにも同じように謝罪されたが、風邪を引くから早く帰るように言う。
雨の中でもまた頭を下げる二人に、ティオは一言だけ放った。
「僕は14歳の外見だけど、お二人よりも年上ですよ」
驚きに目を見開く二人に手を振った。
ぐすぐすと鼻をすする音にティオは意識を目の前に向ける。ハンカチで目元を押さえたステラが、赤い目でティオを見ていた。
「ごめんなさいティオ、疲れていたのね」
「いいえ、雨音とステラさんの声が心地好くて眠くなってしまっただけですよ」
話をあまり聞いていなかったのを、疲れているからだと思ったらしくステラはまた目元を潤ませて謝罪する。眠くなったというのも失礼な話だとは思ったが、他に言える言葉がなく仕方なくティオは正直に言った。
「眠いなんて、やっぱり疲れているんだわ……私そろそろお暇するわ。お茶のお礼はまた改めて」
さっきまで泣いていたとは思えないほど俊敏に立ち上がったステラは、ティオが制止の言葉をかけるより早く玄関に向かう。狭い部屋だからティオが追い付いた時には、もうステラは傘を手にしていた。
「いつもありがとう、ティオ。あなたにパオロの話をすると少しだけ心が晴れていくの。……あなたは同じ話で退屈かもしれないけれど」
「そんなこと……また、いつでも来て下さい」
来た時の憂鬱そうな表情とは正反対の、晴れやかな顔でステラは帰っていった。まだ降る雨は止まないけれど、彼女の心が晴れたのならそれでいいだろう。
少年の魂にもこの鎮魂歌が届けばと、止まない音に小さな祈りを捧げる。
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