思い出に吹く風

 やわらかな陽射しの下、頬をくすぐる風が爽やかな草の香りと甘い花の香りを運んでくる。

 見上げれば綿をちぎったような小さな雲が二つ三つ浮かんでいるが、あとは一面澄んだ青色だ。

 足元には緑の絨毯が広がっていて、形の様々な緑達は風が通るたび涼やかな音を奏でている。


 そんな緑の中にあり、南側が海と隣接しているここはこの島で一番大きな町だ。

 町の北側には畑が広がっていて、種蒔きの時期と収穫の時期は人通りが増えとても賑やかになる。北にある鉱山の町と行き来する人も畑の中の道を通るため、道は普段では考えられないほど混雑するのだ。

 今は種蒔きの季節だから、例年のように道は賑わい畑はどこも忙しくしていることだろう。

 中央の商店街も種や苗を売りに商人が来ているし、農具の修理のために鍛冶屋が朝から晩まで働き詰めだ。

 対照的に町の東西は比較的住宅地が多いので、普段とそれほど変わらないように見える。

 東側は町から一歩出ると草原が広がっているだけで、何かが起こるということは滅多にない。……極稀に群れからはぐれた獣が草原からやって来るが、そんな事は一年に一度あるかないかという話だ。

 反対の西側には共同の墓地が作られていて、いつでも静寂が満ちている。

 その墓地の最奥――つまり一番西側ということなのだが――墓地から少し離れた所に他の墓石より少し大きな石碑が立っており、そこには一人の男の名前が刻まれている。



「こんにちは、シュガー」

「!」

 声に呼応するように石碑の上でゆらりと空気が動き、幾重にも重ねられた薄布を剥ぐように、少しずつ姿が現れてくる。

「……こんにちは、ティオ」

 ひどく呆れた顔の美少女が石碑に腰掛けていた。

 その艶やかな漆黒の髪は腰に届くほどで、綺麗に切り揃えられた前髪から覗くはずの瞳は、長い睫に縁取られた瞼が閉ざされているため見ることは叶わない。

「もぅ、姿を見せてない私を見つけられるのなんて、あなたぐらいだわ」

 一瞬の内に現れた宝石のようなローズレッドの瞳に困惑を滲ませてはいるが、口調は明らかに呆れを含んでいる。

 一方でティオは少女の言葉に目を丸くした。

「え、でもシュガーはいつでもここにいますよね?」

 不思議そうに小首を傾げたティオの背中で、瞳と同じ色の赤茶の髪が揺れる。

「そうだけど……でも、視線を合わせてくるのはあなただけよ」

「そうですか?」

 ティオの疑問を肯定しつつも、意味が違うと言い返したシュガーだったが、どこまでも天然な彼に少しだけため息をつきたくなった。

「そうよ。契約していたリントでも気配がわかるくらいだったのに……」

 呆れて物も言えない、といった風情の少女にティオは無邪気に笑い掛ける。それが気に入らなかったのか、少女は怒ったような口調で目の前にいない相手に文句を言う。

「もう、ドルチェってば、どういう教育してるのよ!」

「別に教育なんてしてないわよ」

 名前を出されたからか、ティオの隣に滲み出るようにして現れたドルチェが反論するが、シュガーも本当に怒っている訳ではないので薔薇色の唇を尖らせて黙ってしまう。

「ほら、可愛い顔が台なしだわ」

 そう言ってドルチェは鮮やかな青緑を細めて微笑む。ティオも相変わらずにこにこしているので、すっかり毒気を抜かれたシュガーは釣られて子供のように笑った。



 ティオの目の前にある石碑は、先代の“精霊の檻”、町の人々の言うところの“柱”であったリントの墓である。彼の偉業を讃えて周りの墓よりも二回りほど大きい石碑が建てられたのだ。その上に座る美少女は、リントと契約をしていた大地の精霊シュガー。

 彼女はリントが亡くなり契約が切れた今も、彼が愛したこの町に留まり続けてくれている。それは彼の遺言とも言える願いを叶えるためで、彼女は全て承知の上で留まることを決めたのだった。


 通常、精霊は空気中を漂っている“霊素”というものを糧に生きており、霊素は“精霊の木”と呼ばれる植物が生み出している。精霊の木は多くが“精霊の島”に生えていて、他の土地に有ることは極めて稀なことだ。

 つまり精霊が生きるのに必要な霊素は、精霊の木が生えている精霊の島に近ければ近いほど濃度が高い。そして残念なことにこの島は、精霊の島から最も遠い所に位置している。


 リントの願いは、この地に生きる全ての命を見守ること――。


 果てしない、途方もない願いだった。それでも彼が亡くなってからずっと、シュガーは願いを叶え続けている。

 ……それが彼女の、望みだったから。



「あ、そうでした、これ」

 思い出したようにティオが抱え上げた物を見て、シュガーは困った顔をした。

「花、ね」

 墓参りに花を持って来るのは毎年のことだし、片付けもするのでシュガーが困ることは何もないはずである。

「はい、リントさん植物がお好きでしたから」

「好きだったわね。でも切り花は可哀相だって、いつも言うのよ」

 変わった人だったわ、そう言ってシュガーは困ったように笑った。

 彼女の困った顔はただの条件反射で、リントのことを思い出して無意識になっているらしい。

 精霊にも無意識なんてあるのかとティオは常々疑問に思っているが、本人が言うのだからきっと間違いないのだろう。ティオは精霊と契約している身ではあるが、彼らについて詳しい訳ではないのだ。


 ティオは毎年墓参りにやって来ては、シュガーと共にリントの思い出話をする。

 同じ話ばっかりでよく飽きないわね、とドルチェは言うが、二人共リントが大好きなので飽きることはないだろうとティオは思う。

 だからその言葉はただの確認だったのだ。

「シュガーは本当にリントさんが好きですね」

 笑い掛けたティオに対し、シュガーは予想外に真剣な表情で頷く。

「そうね、私はリントが好きよ。

 ……今も、ね」

 思っていたよりもずっと静かな声が返ってきて、ティオはもちろんだがドルチェも驚いていた。

 普段のシュガーはどちらかと言えば騒がしい性格で、こんな表情をするのは非常に珍しい。

 彼女の真剣さが伝わって全員黙り込んでしまい、少しだけ空気が重たくなる。

「私は……ティオのこと好きよ」

 場を和ませようと思ったのか、突然ドルチェが告白してきた。目が合うと、肩にかかるくらいに揃えられた琥珀色のゆるいウェーブの髪を揺らして彼女は微笑む。

 ドルチェはティオと契約をしている大地の精霊だ。どちらかと言えば物静かな性格で、ティオにとっては姉のような存在である。

 彼女は時々こうやって好きだと言ってくることがあるので、ティオとしては慣れているはずなのだが、やはり面と向かって好きだと言われるのは少し恥ずかしい。

「……ありがとう、ドルチェ」

 ティオは知っている。ドルチェがリントを好きだったことも、彼女がシュガーとは違う形でリントの願いを叶えようと思ったから、ティオと契約をしたことも。

 だけどドルチェのリントに向ける好きと、自分に向ける好きが違う意味だということも知っているから、ティオは素直にお礼を言う。

 それを見て“ラブラブねー”などとシュガーが暢気に茶化してくるので二人は笑った。さっきの真剣な表情はなんだったのかと言いたくなるくらい、シュガーも楽しそうにしている。それが可笑しくて二人もさらに笑う。



 墓地は町の外壁よりも僅かに低い壁に囲まれていて少し外側に飛び出しているため、現在の柱として町の結界の中でのみ過ごしているティオが行ける中で一番外らしい場所だ。

 リントもシュガーもここにいるし、……あまり覚えてはいないけど、最愛の母もここにいる。

 年に数回訪れては様々なことを思い考えるが、ここでは吹く風さえも愛おしい。



 今、頬を撫でていった風は、きっと思い出と同じ色をしているのだろう。

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