シュガーポット
荒い呼吸に上気した頬、うっすら汗ばんだ額とやや覚束ない足取り。どうやら熱があるらしいのに、少女はその足を止めようとはしない。ゆっくりだが確実に歩みを進めていく。
時計塔の前でようやく立ち止まったが、息がずいぶん上がっていた。ドキドキしているのは熱のせいか、それとも今からの行動を思ってだろうか。
ちょうどよく、時計塔の隣に建つ博物館から出てきた夕日色の髪の少年に、少女は慌てて話し掛けた。
「ティオ、あの……わたしと付き合って下さい!」
――白いワンピースの裾が、風で揺れていた。
「……付き合う?」
突然のこと過ぎて、どうにも少年の反応は鈍かった。言われた言葉の意味を脳が理解するより早く、言葉が口から滑り出てしまう。
「だめ、ですか?」
震える声に少女を見れば、不安に彩られた瞳とぶつかる。つられるように、戸惑うティオの瞳も不安に染まっていく。
「いえ、そうじゃなくて。えっと……僕でいいんですか?」
「はい。ティオがいいんです!」
不安の色を霧散させ、はにかんで即答する少女に、不安で揺れていたティオの瞳は見開かれた。
……一瞬驚いたものの、また不安の波が押し寄せてくる。それは自分から縁遠いものへ対する恐怖かもしれなかった。
「……僕は恋愛ってよくわからないけど、それでもいいんですか?」
「それでもいいんです」
またしても即答、しかも強い肯定を示した少女にティオは呆気に取られた。
「あの、僕、外見はこんなですけど中身はおじさん……いや、お爺さんなんですよ、それでもいいんですか?」
「構いません、わたしはティオがいいんです」
こんなに自分自身を求められることなど今までなかったので、なんだか新鮮だとティオは思った。
これまで求められてきたのは“精霊を宿す者”であり“柱という存在”だったから。
「そう、ですか……」
「はい」
ぼんやりとした返事、いや返事とも呼べないものだったというのに、少女は笑顔を返してくれた。
ティオの心にじわりと温かいものが滲む。それは今まで感じたことのない種類の熱、だけど嫌なものではない。
一瞬のことだった。
何の前触れもなく、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた少女の身体を、ティオはどうにか地面にぶつかる前に抱き留めた。肘を打っただなんて、もちろん表情には出さない。
「だ……大丈夫ですか? ミルファさん」
どう見ても大丈夫ではないのに、他にかける言葉が見つからないことにティオは歯痒さを感じた。
汗で額に張り付いた飴色の髪を払ってやりながら顔を覗き込むと、苦しそうな表情のままミルファは笑う。
「わたしの名前、覚えていて下さったんですね」
「……熱があります、帰りましょう」
抱きしめる身体の熱さに焦ったティオは、ミルファの返事も待たず半ば引きずるようにして家へ送り届けた。……家を尋ねた八百屋の親父さんが、代わりに連れていってやろうかと申し出るくらいには不恰好で、一緒に倒れて行ってしまいそうなほどふらついてはいたけれど。
帰り際に“また明日”と言われ、ティオは笑顔を返した。
翌日、ティオは約束通りミルファの家を訪ねた。部屋に行くと、微熱があるから外に出ては駄目だと言われてむくれているミルファがいた。
予想以上に元気だったことに安心したティオは“ここにいるよ”とでも言うかのように手を繋ぎ、長い年月の中で自身が見たり聞いたりしたことを話して聞かせた。
ミルファは始終楽しそうで、ティオは来てよかったと胸を撫で下ろした。
実は昨日きちんと返事をしなかったことと、ひどく具合が悪そうだったのを気にして訪問を一日延ばそうかと思っていたのだが、返事は早い方がいいだろうと思い直し、お見舞いも兼ねて訪ねて来たのだった。
その次の日は外に出る許可をもらい、家から近い東の公園へ行った。手を繋いだままベンチに座り他愛もない話をする、ただそれだけなのだが。
不意にミルファが言った。
「ティオと手を繋いでると、身体が楽なの」
“そんな気がするの”と続けた彼女は答えを求めてはいないのかもしれなかったが、ティオには思い当たることがあった。
「それは、僕の中にいる大地の精霊の力が流れ込んでいるからじゃないでしょうか」
不思議そうな顔をするミルファに、ティオは精霊の持つ力の説明をすることにした。
「大地の精霊には土地を豊かにする、つまり生命を活性化させる力があります」
それが手の触れている所から、少しだけミルファの方に流れ込んでいるのだと。
「精霊様の、力……」
驚いた顔をしていたミルファだったが、片手を胸に当てるとゆっくり目を閉じた。まるで自らの鼓動を確認するかのように。
その翌日は少し具合が悪いというのに、ミルファは無理矢理外に出る許可をもらった。なんでも、家でできない話があるのだとか。
「昨日の話をパパとママにしたの」
「昨日の話?」
深刻な表情で切り出された話が、ティオにはいまいちピンと来なかった。
「ティオと手を繋いでいると、って言ったやつ」
「ああ、はい」
補足をされてようやく思い至るが、話の全貌が見えないのでティオはまだ疑問符を浮かべたままだ。
「そしたらパパとママなんだか恐い顔をして……もしかしたら、わたしに精霊様を宿らせるつもりかもしれない」
繋いだ手が小刻みに震えている。肩の上で綺麗に切り揃えられた緩いウェーブの髪が、少し俯いたミルファの表情を隠してしまう。
「え……」
耳から入ってくる言葉がティオは信じられなかった。呆けるティオをよそにミルファは興奮して立ち上がる。
「だって、そんな感じの話をしてて!」
周りも気にせず顔を真っ赤にして声を荒らげるミルファにティオは驚いた。
「ミルファさん落ち着いて。また、具合が悪くなってしまいます」
慌てて手を引いて抱き寄せると、なだめるように優しく背をなでる。促されてベンチに座り直したミルファは俯いたまま呟いた。
「……わたし恐いの、死ぬことよりもみんなに置いて行かれることが。……おかしいよね、死ぬことよりも生きることの方が恐いだなんて」
胡桃色の大きな瞳に水の膜が張っている。眉根を寄せた泣きそうな顔で、それでも笑うミルファにティオは穏やかに語りかけた。
「こんな形で生きるのは、恐いと思って当たり前だと思いますよ」
ティオの言葉にミルファは目を瞠った。彼はそうやって町のために長い時を生きているのだ。
「! ごめんなさっ……」
「僕は、自ら選んでこの形で生きています。選択肢もなく、死を突き付けられたミルファさんの方が、ずっと辛いでしょう」
慌てて謝ろうとする声を遮ってティオは言った。
……少し寂しそうな顔で。
「そんな、こと……」
言葉が続かなかった。誰よりも辛い思いをしているはずのティオに言われると反論するのもおかしい気がした。
「それにね、精霊を宿らせるには相性が良くないと駄目なんですよ」
「……相性?」
内緒話のように密やかな声で続けられた言葉に、ミルファは疑問符を浮かべた。それに対してティオはにこりと笑ってみせる。
「そう、相性。僕は精霊を見ることが出来て……過去に類を見ないほど相性がいいと言われました」
「そう、なんだぁ……」
「ええ、精霊を人に宿らせる技術も失われていますし」
穏やかな声で“大丈夫ですよ”と言われてミルファは大きく息を吐く。死の恐怖からは逃れられないが、歪んだ生に飲み込まれることは避けられそうだ。ティオのことを思うと“よかった”とは言えないが。
医師の話では、ミルファはあと数日しか生きられないのだそうだ。
確かに具合が悪い日もあるが、毎日会っていても、もうすぐ死んでしまうなんて信じられない。
……けれど別れの日は確実にやって来る。
明け方に突然、目が覚めた。
……酷く心がざわついている。何かに急かされるように身支度を整えると家を飛び出した。
夜が明けきらない薄暗い中、ここ一ヶ月ほどの間に通い慣れてしまった道をたどる。急いだつもりはないが、すぐに彼女の家に着いた。
早鐘を打つ心臓を落ち着けようと深呼吸をしてみたが、あまり効果はないようだ。恐る恐るといった感じで、玄関の呼び鈴の紐に手を伸ばす。
乾いた音が静寂を渡る。一瞬の後、扉が開いた。
「……やあ、ティオ」
開けてくれたのはミルファの父親で、少し疲れた様子の彼は訪問の理由を聞くこともなくティオをミルファの部屋へと誘った。
部屋には、荒い呼吸のまま横たわるミルファの手を、祈るように握りしめている母親の姿があった。ティオは反対側に回り、投げ出されている手を握った。
「ミルファさん……まだ、さよならも言ってないのに、お別れですか?」
声に反応したのか閉ざされていた瞼が震え、胡桃色を僅かに覗かせる。視線は一度ティオを捉え、名を呼ぶ両親の元に向けられた。
それまで苦しそうに呼吸をしていたが突然、花が咲いたように微笑んだ。
「パパ、ママ……ティオ、わたし幸せだった、よ」
吐息のようにか細い声で発せられた言葉に、母親は泣き出してしまった。
その瞳にティオを映し、荒くなる呼吸の合間にミルファは言葉を紡ぐ。
「あ、りが……と……わが、まま……きいて、くれ、て」
返事をしたいのに、胸が詰まって上手く言葉が出てこない。だけど、ティオは精一杯の感謝を返したいと思った。
「……ありがとう、こんな僕を好きになってくれて」
――いつものように白いワンピースを着て、少女は旅立って行った。
もう涙なんか涸れてしまったんだと思っていたのに。次から次へと溢れてくる涙に、誰よりもティオ自身が一番驚いていた。
自分で思っていた以上にティオはミルファのことが好きだったのだろう。
恋愛なんて、きっと一生しないんだろうと考えていたティオに、ミルファは温かな柔らかな感情をたくさんたくさん注いでくれた。初めての感覚に戸惑いながらも“恋愛が分からないそのままのティオ”でいいと言ってくれたミルファに出来る限りを返したいと思い、ティオは彼女と向き合って来たつもりだ。
ティオの“好き”とミルファの“好き”が同じだったかどうかなんて誰にもわからない。でも、それでもいいと思えたのは彼女のおかげなのだ。
ようやく自分の気持ちに気付けたというのに、運命はあまりにも残酷だった。
甘いあまいお砂糖みたいな恋は、瞬きの間に溶けて消えてしまったんだ。
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