人海

舵名

人海(じんかい)

 頬を触れる空気は冷たい。しかし、身体は柔らかな温かさに包まれている。

 妙な気分だ。

 瞬きをすると、目に入ってきたのは木目だった。薄い自然光に照らされている。柔らかい布団を押しのけて、目線を上げると、見知らぬ中年の女性がいた。なぜか彼女は微笑んでいる。それを見た僕は、まるで勝手に誰かの私生活に宛がわれたようで、底知れぬ恐怖を感じていた。

「お前は誰だ! ここは僕の家じゃない! 教えろ! 分からない!一体どうなってるんだよ!」

「落ち着いて! 大丈夫だから。もう、大丈夫だから」

「大丈夫だって? ここがどこかも自分が誰かも分からないのに!」

 見知らぬ人から投げかけられた「大丈夫」は、僕に向けられている気がしない。今を分かりたい、ただ単純な気持ちの中で一瞬、彼女の不安で悲哀な表情が見えた。

「私はあなたの母で、あなたが知りたいこと、なぜここに来たのか、一部始終を知ってるの。ただ、それがあなたの望むものだとは言い切れない。だから、あなたが思い出しなさい」

 真剣な表情からも嘘をついていないことは読み取れる。

 僕は、その言葉を反芻するようにして俯いた。僕の中には何かが足りない。風で捲れた小説のページが、二度と見つからなくなってしまったように。

「私は薪割りに行ってくるけど、あんたも来る? 無理はしなくていいから」

 そう言うと、母を名乗る女性は僕に背を向けて、部屋を出て行った。知らない人についていくのは気が向かないが、今はそうするしかないのかもしれない。

「分かったよ」

 薪割りに向かう間、家の様々なところを見た。壁の高いところにかかっている老人の写真や、古臭い模様のカーペット。何か思い出せることがないか試してみたが、上手くいかない。本当にこの家で僕は育ったのだろうか。でも、この母を名乗る女性が悪人でないことは、肌で感じ取れた。

 玄関を抜けて数歩、目の前はモノクロな雪景色だ。どこか無機質で不気味な、薄っぺらい雪の白色と、それを寄せ付けないほどに凛とした針葉樹林の黒色で埋め尽くされている。何も覚えていないながらも、その景色には少し心が動いた。

「綺麗な景色でしょう。地球の緑は、守っていきたいね」

「緑、というのは何のことだ?」

「ああ、この目の前の木々のことだよ」

 他愛もない話を交わす。少しでも気を抜くと、未知だらけの世界に飲み込まれそうだ。

「ほら、来たんなら手伝ってよ。なんにも覚えてないらしいけど、チェーンソーの使い方はどうなの?」

 女性は既に薪割りの準備をしていた。そんな大がかりな道具を薪割りに使うのか、と驚いたが、その光景には見覚えがあった。倒した丸太に、粗い刃が入る感触、振動や音を思い出すことができた。

「ああ、覚えてる。確かに」

「そんなことは覚えてるのかい。でも危ないから、私がやるよ。あんたはその斧使いなさい」

 結局チェーンソーを使わせてもらえなかった。答えるのに間が空いてしまったのが良くなかったのだろうか。無心で丸太の表面に手斧を打ち付ける。この薪を割ることで記憶が出てくるかもしれない。僕はただ、丸太の向こうにあってほしい何かを探していた。うるさいはずのチェーンソーの音も気にならないほどに。

 薪割りにも飽きてきた頃、手斧を持ち替える時に手を切ってしまった。ツイてない。

「気をつけなさいよ。ケガしちゃだめってのは覚えてる?」

 少し離れたところを流れている川に行き、凝固した血と皮肉を水で洗い流す。視界が冴えわたるほどに冷たかった。


「一つだけ教えてほしいのは僕が誰か、ということ。ヒントだけでもいい」

 僕は残り僅かの薪を割りながら質問した。チェーンソーの音が大きかったため、何度か聞き返された。

「何回でも答えるけど、私から言えるのはあんたが私の息子だっていうことだけ。他にお医者さんたちが言っていたことなんて、私には言えないよ」

 女性は少しだけ新しい情報を与えてくれた。その医者に話を聞きたいところだが、この人はそれを許さないだろう。

 水に触れた手がひどく冷えている。白い息を吹きかけて温めようとするが、焼石に水だった。今、僕から出て行った白い息も、何か僕の記憶に関係しているのか、など考えてみた。しかし、記憶というものはそう簡単には出てこないようだ。


 薪割りが終わってからは、こたつに入って身体を温めていた。覚えているのはそこまでで、どうやらうたた寝をしてしまったようだ。既に外は暗くなっていた。窓を開けて、暗闇に一歩踏み出せば、重力の導くままに落ちてしまうのではないだろうか。居間につながっている廊下から、急ぐ足音が聞こえてきた。寝起きの頭に、少し緊張が走る。

「起きた? 急で申し訳ないけど、川に水を汲みに行ってくれない?」

 廊下からやってきたのは、あの女性だった。名前も知らないが、まったくの他人ではないことに安堵した。

「どうしたんだ? 水を汲んでくるのはいいけど、何のために?」

「お父さんの息が荒くなってて、水を飲みたいらしいの。あんたが行かなかったら私が行くけど」

 急な頼み事をされて返事に困るが、女性の目には涙が溜まっていることから、ただの用事ではないことがうかがえた。

「何かその人が汲みにいけない理由があるのか? 」

 この質問をすると、女性は初めて苦い表情を見せた。僕はこの家にまだ他の人がいることも知らなかった。そして少しの間をおいて、ゆっくりと言葉を吐いた。

「お父さんはね、三か月前から体調が悪くなっちゃってね。ベッドから動けないの」

 妙に歯切れの悪い返答に未知の不安を感じてしまった僕は、川に水を汲みに行くことにした。廊下の床は昼よりもひどく冷え込んでいる。

 廊下を通った時、一瞬だが開きかけのドアから、件の男性らしき姿が見えた。老人は床に伏せ、荒い息を吐いていた。唯一見えた老人の顔はミイラのように乾いており、頬の骨が皮膚を突き破りそうなほど薄くなっていた。

 女性から懐中電灯とタンクを渡され、昼間に手を洗いに行った川に向かった。夜の闇は底がない。手を出せば夜に触れられそうな近さを持っている。空に放たれた羽毛のように舞い散る白雪は、いつもよりスローモウションに見えた。しかし、急げば急ぐほど、どこか違う場所に進んでいるのではないか、という錯覚が積もるばかりであった。白と黒しか見えない視界の中で、昼間の記憶を探りながら、懐中電灯の先に川を求めた。脳裏にはさっきの老人の姿が残っている。弱った男性は老人のような、働き者の女性はどこか元気な子供のような印象の差があった。急がなければいけない。元々の僕も、弱っている老人の願いを却下するほど薄情ではないと信じたいからだ。

「危ない!」

 どこかから声がした。驚いて足を止める。とっさに足元を懐中電灯で照らした。見てみると、大木の根が隆起しており、足にかかっていた。そのまま進んでいたら転んでいたのだろう。誰かがいる。それにしてもおかしい。今まで聞いたことがない声だ。それも、複数人が一斉に忠告していたように聞こえた。

「誰かいるのか? もう暗いし寒いから、気をつけた方がいい」

 今は未知の声に対する恐怖よりも、寒さや焦りなどが勝っている。僕の呼びかけに返事も返さなかったのだから、空耳だったのだろう。

 そこから数歩ほど進んだ先に、ようやく川を見つけた。川は夜を含み、真っ黒に染まっている。岸には、その黒と一線を画すような白い雪が積もっている。どこに行っても雪の白さが変わらないことを感じて、少し冷静さを取り戻すことができた。タンクの蓋を開き、水を汲んだ。

 水を汲み終えて蓋を閉じ、立ち上がろうとすると、川の向こう岸に、三人の人がいた。僕は驚いて腰を抜かし、尻餅をついてしまった。

「おい、あんたらそこで何してるんだ? もうこんなに暗くなってるぞ。家に帰らないのか?」

 一人の少し若い女性が、二人の幼い子供と手を繋いでいる。地面に座り込んだまま問いかける僕の声には応じない。かといってその三人の表情は硬くなく、柔らかさと温かさまで感じられるものだった。自分が寒空の下にいることを忘れてしまうほどに。

「もしかして僕の知り合いかな? だったら申し訳ないんだけど、僕は何も覚えてないんだ」

 民家にいた母のような中年の女性も、最初に似たような表情を浮かべていた。それを思い出した僕は、未だ会話が成立していない中で呼びかけた。

「いいよ。そのままで」

 一体どういうことなのかわからず、またも意思疎通が図れないことに落胆した。

「ここは寒いし暗くて危ないから、ずっといたら死んでしまうぞ。それに僕は昔のことを何も覚えてない。一体、この状況の何がそのままでいいんだ」

「ただ、一つだけ。見えてないものは、まだある」

 なぜだかわからないが、この言葉が頭の中に鳴り響き、熱いものになって僕の胸に刻まれた。

 そこからの記憶は曖昧だった。意味も分からないあの言葉が不思議と腑に落ちた僕は、気づいたときにはあの老人のために走っていた。

 民家に着いて玄関の扉を開けると、あの中年の女性が床に座り込んでいるのが目に入った。玄関は外と同じくらい冷たい。僕は息を切らしながら話しかけた。

「ほら、水は汲んできた。早く飲ませてあげよう」

「ありがとうね。お父さんはだいぶ落ち着いてきたから、私があとで飲ませておくよ」

 水で重くなったタンクを女性に渡す時になって、まるでダムが放流するかのように、さっきあったことを思い出した。何か知っているかもしれない、と思い立ち、タンクを持って奥に歩いていく女性に伝えてみる。

「そういえば、川に三人の人がいたんだ。知らない人だったし、こんな時間に外に出るのは危ないだろう」

 女性はその言葉に足を止め、ゆっくりと振り返り、こちらに顔を向けた。

「三人はどんな人だった?」

 女性の声色は異常なほどに落ち着いており、さっき会った三人とは別の奇妙さまで感じた。

「あんまりよく見えたわけじゃない。確か、若い女性の左右に一人ずつ小さい子供がいた」

 女性は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに何かを悟ったのか、こう言った。

「それはね、あんたの家族だよ」

「だとしたらこの家に連れてきたほうがいいだろう! 今からでも遅くない」

 あの三人に会って話を聞きたい。もしかしたら、わかるかもしれない。そんな気持ちで玄関に向かった。

「——もうあんたの家族は死んでる」

 女性の目には涙が浮かんでいた。


 もう時間も遅くなっていたことから、今日は川に行かないことにした。僕は布団の中で川にいた三人の顔を思い出していた。それでもやはり記憶は出てこない。

 落ち着かない心のままに顔を洗いに行く。何時間横になっていたかわからない。頭が痛い。視界も不安定で、見えるものすべてがどこかモノクロに感じた。廊下が冷たいことも、今では気にならなかった。

 冷たい水が顔にかかると、さっきまでぼんやりしていた意識が切り替わった。伸びをしたとき、自分の腹部に模様のようなものが見えたため、反射的に服をめくった。腹部には大きな傷跡と、それを塞ぐような縫い目が斜めに這っていた。その縫い目を見た時、頭の中に映像が流れてきた。

 思い浮かんだ記憶は白黒で、川で会った三人との、昔の思い出だった。この家にいる、母や父の映像も、少しだが確かに浮かんだ。

「ああ、でもまだ残ってる。まだ何かある」

 朝と夜の狭間に、僕の独り言だけが響く。

 床に座り込んで、戻ってきた記憶をかみしめていた。窓から見える空は、夜の濃ゆさを持っていない。もうすぐ、朝が来る。あの三人が死んでしまったなら、僕の心は渇いている。月のように優しい三人は僕の全てだった。

 目が覚めたのは、空に太陽が上がろうという時だった。床の上で眠ってしまったようだ。僕は何をすべきなのか、それを考えることもなく、僕は玄関に走った。

 一度開けた引き戸を閉じることも忘れ、ただひたすらに外へ向かう。

「こんな朝早くに、どこ行くの?」

 廊下には中年の女性がいた。僕は説明する余裕がない、と言わんばかりの勢いでこう言った。

「三人のことを、思い出した。確かにあれは僕の家族だ。でも、まだ思い出せないことを教えてくれ。なんで三人は死んだ?」

 寝間着を着たまま、女性はしばらく俯いた後、こう答えた。

「交通事故に巻き込まれたの。あなたも一緒にいた。でも、あなただけが無事だった。」

「そんなことか。なら会いに行けばいいじゃないか」

 どこに会いに行くのかはわからない。とにかく僕は、その言葉を残して玄関に向かった。扉を強引に開け、吹いてくる風に押されながらも走る。靴のかかとを踏んだまま、雪を踏みしめていく。あの三人に会うために。もしかしたら、死んでいないかもしれない。混乱したまま、靴が脱げても止まらなかった。そこから少し走ったら、足がもつれて転んでしまった。もし僕の家族が死んでいるなら、いっそのこと僕も消えてしまいたい。雪が付いたまま顔をあげる。眩しい朝日と目が合った。

 明るさに目が慣れてから、僕は息を飲んで、わけもわからず、震えてしまうほどに動揺した。

「どういうことだ?」

 近くにある雪をつかみ、それを見つめる。雪の色は、平坦な白色ではない。雪の色は、空の色に似ている。空を含んでいる。視界の奥にある木の色は、深い。優しさの中に、厳しさを持っている。肌は、雲は、太陽は——

 僕には記憶以外に、ただ一つ、見えていないものがあった。それを見つけた僕の目から、透明の涙が溢れた。その涙は積もった雪を溶かし、世界の色を始めた。




 車から降りて、コンクリートで舗装された道に踏み出す僕の足には、露骨に緊張が現れていた。全て同じようで、まったく異なる墓石は、良い意味でも悪い意味でも遺族の思いが詰まっているようだ。

 時折メモを見ながら、一歩ずつその場所へ歩みを進める。高鳴る心臓を抑えつけるように、花束を握っていた。

 そうして僕が足を止めたのは、明るい灰色の、少し背が高い墓石の前だった。ここだ。墓石に手を置く。正午近くの日光に照らされていたからか、柔らかい温かさがあった。

 周りには誰もいない。遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。吹いてくる風も、後ろにある山と空も、全部が心地よくて、誘われるように僕は笑みをこぼしていた。

「よし。そろそろ行こうかな」

 僕は天まで上ろうとする香煙を眺めていた。いつまでもここにいたいけど、僕は進んでいかなければならない。

 僕は声にならないほどの声の大きさで家族に別れを告げて、また歩き始めた。墓を見た後でも、どこかでみんなが僕を見守ってくれているような気がする。そう感じた帰り道の景色は、僕の目にはっきりと、色濃く映っていた。

                                  完

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人海 舵名 @2021bungei5

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