第41話 猫の極秘任務
アドリアンが出ていってしばらく。
紅茶が注がれたカップから湯気が立ち上らなくなるくらいの時間がたってもなお動く様子のないノージーに、ピケは痺れを切らした。
「ノージー、説明」
まるで犬に「まて」と言うような口調で、ピケは言った。
ささやかな胸の間から、不機嫌そうな視線が向けられる。
(くっ! かわいいじゃないっ)
お気に入りのおもちゃを取り上げられた時の猫のノージーの姿が重なって、ピケは怯んだ。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
(いつかは、聞かなくちゃいけないことなんだから)
聞く気があるうちに、聞いてしまいたい。
そうでなくとも、今すぐ逃げたいくらいなのだから。
「いつまで私の生存確認をしているつもり? 私は生きているでしょう」
「それ、本気で……?」
訝しみと心配を足して割ったような顔をして、ノージーはピケを見た。
ピケとアドリアンがキスをしていると錯覚して心中しかけたのは本当である。
だから、彼女が生きていると実感するためにこうしているのもうそではない。
ただし、それだけではないという注意書きがつくが。
獣人は、恋が実らないと消滅する。
その多くは一人ひっそりと来たるべき時を待つものだが、ごく稀に、嫉妬深い
これまでピケの幸せだけを願って生きてきたと思っていたノージーだが、意外にも彼女が幸せなだけでは満足できなかったらしいと気がついて、誰よりも彼自身が驚いていた。
ノージーがピケの胸にひっついているのは、彼女の心音を聞いていると気分が落ち着くのと、自分への気持ちを確認したいせいもある。
総司令官ではなく自分に気持ちがあるのだと、うそをつけない心音から確かめようとしていたのだ。
胸から聞こえてくる心音は、アドリアンがいなくなっても変わらない。
ピケの心臓は、ノージーだけに反応している。
一緒にくっついて寝ていた時より少しだけ早くなった鼓動は、彼女が緊張しているせいだろう。
嬉しいという気持ちが大半、だけど少しだけ、寂しいと思う気持ちもある。
恋愛対象として意識して緊張してくれているのは嬉しい。
だけど、もう以前のように無防備に体を預けてくる彼女はしばらくお預けだと思うと、ちょっとだけ寂しい。
ただただ胸が高鳴ってどうしようもなかった時が過ぎ去って、ドキドキするだけではない、深い安らぎを得るような関係。
ノージーは、いつかそれになりたいと思った。
「え、違うの?」
きょとんとするピケに、ノージーが苦笑いを浮かべる。
言いづらそうな理由があるのだと思った瞬間、ピケはアドリアンの「むっつり」というセリフを思い出す。
ピケは慌てて、ノージーを引き剥がした。
「ノージー、説明してちょうだい」
ステイ、と言うようにピケが空いている椅子を指差すと、ノージーは耳をへにゃりと伏せてとぼとぼと指定された場所へ歩いていく。
シナシナと力なく垂れ下がっている尻尾にピケは罪悪感を覚えたが、今はそれよりも確認することが先だと言い聞かせた。
「大丈夫ですか、ピケ」
椅子に腰掛けたノージーが、心配そうにピケを見る。
安心させようと無理に笑おうとしたが、ピケの唇は拒絶するように震えるだけだ。
ノージーはそんな彼女を勇気づけるように、あるいは逃げるのを阻止するように、椅子ごと移動してきて手を握った。
(私の言うことを守ろうとしているあたり、ノージーらしい)
彼らしい行動に、思わずフッと力が抜ける。
(大丈夫、聞けるわ。ノージーが言うことなら、大丈夫)
ピケの深い緑色の目が、しっかりとノージーを見据える。
彼女の目に、もう迷いはない。
ノージーはコクリと頷きを返し、口を開いた。
「きっかけは……僕がピケの独り言を聞いたことでした」
「私の独り言……?」
真っ先に思い出したのは、ノージーへの気持ちを自覚した時のことだ。
まさか聞かれていたとは思ってもみなくて、ピケの頰が燃えるように赤くなる。
ワナワナと震えるピケに、ノージーは「ごめん」と謝った。
「言い訳になってしまうけれど、僕の耳は人よりも広い範囲の音を拾ってしまうから……」
聞くつもりはなかったのだと言いつつも、ノージーの顔には喜色が浮かんでいる。
彼への気持ちが知られてしまったのは明白で、ピケの目は隠れ場所を探すように周囲を見回した。
「ううん、いいの。聞こえてしまったのなら、仕方がないわ。それに……本当の、ことだし」
動揺しながらも、ピケは震える声で答えた。
仏頂面になってしまうのも、声が震えてしまうのも見逃してほしい。
今はとにかく冷静になりたくて、ピケはノージーから目を逸らした。
金のスプーンに、ノージーの獣耳が映り込んでいるのが見える。
その瞬間、ふと疑問が湧いた。
(どうしてノージーは獣人のままなのかしら?)
ノージーはピケの気持ちを知っているのに、獣人のままだ。
告白して気持ちが通じ合ったら、物語のようなファンタスティックなことが起こって人になるのだと思っていたのに。
(どうしてノージーは変わっていないの?)
不安がるピケに気付いていないのか、ノージーは語り続ける。
口を挟む雰囲気でもなくて、ピケは質問の言葉を飲み込んだ。
「それで……ピケはどうやらガルニール卿に脅されているらしいと思い至って。たまたま居合わせた警備兵たちが僕を総司令官のところへ連れていってくれたのです。報告した結果、ガルニール卿を捕らえるのに十分な証拠が揃いました」
ガルニールの捕縛は、情報が漏れる前にすばやく済ませる必要があった。
アドリアンのもとには、「ガルニール卿には優秀な密偵がいる」という情報が上がってきていたからだ。
「なるほど。この急展開はそのためだったのね」
しかし、この短時間で成し遂げられてしまうのは、魔王と恐れられる総司令官だからだろう。
その正体が実は魔女王だったと知った今は、更なる恐ろしさを覚える。
とてもじゃないがエステに同行なんて無理だな、とピケは思った。
「ガルニール卿と協力者を捕縛すると決まった時、イネス様は無傷で捕まえて欲しいと訴えました。彼が手を失った時のことを思い出して、これ以上痛いことをしないであげてと」
ピケは、イネスから聞いたガルニールの境遇を思い出し、彼女がお願いするのも無理はないと思った。
ピケは敗戦のつらさを知っている。
ガルニールの本当の気持ちを正しく理解できなくても、想像することはできた。
一族のほとんどが戦死し、使い物にならないからと国へ戻されたガルニールは、心苦しい思いをしたのだろう。
そんな時、戦争で怪我を負い、目を覆いたくなるような手術の時にも手を握って励ましてくれた
(救いは大事。私にはノージーが、ガルニール卿にはテト神教が必要だった)
それだけだったら、良かったのだ。
イネスのことを女神テトと同一視し、同じ運命を辿らせようとしなければ、こんなことにはならなかった。
そのきっかけを、ピケが知る術はない。
すでに彼は捕らえられ、侍女であるピケはもちろん、関係者であるイネスでさえ顔を合わせることは叶わないだろう。
だけど、もしかしたら、誰か一人でも彼の心の闇に気付いていたら。家族や友人でなくてもいい、テト神教の信者でもいいから、気付いて話を聞いてあげていれば……とピケは思わずにいられない。
(あるいはイネス様は自分が、と思っているかもしれないけれど……たぶんそれは、いくらなんでも許してもらえない)
だって彼を裁くのは
優しくもあり厳しくもあるこの国は、どんな沙汰を下すのか。
ことがことだけに楽観視はできないだろうな、とピケは嘆息した。
「そんなイネス様を見て、暗殺者を差し向けられていたキリル様まで同じことを言い出したものですから、では僕がやりましょうと申し出ました」
イネスだけでなくキリルも同調したとあっては多少の減刑は期待できそうだ。
良かったと思ったのも束の間、耳を疑うようなことを聞いてピケはギョッとした。
「え。ノージーが?」
ノージーはまるで迷い込んだ猫を捕まえてくるみたいなノリで言っているが、そんな話ではない。
立場的には上位である他国の王族の暗殺を手配し、妄想の末に恩人であるイネスをも殺そうとしている、いわば窮鼠のような男なのである。
時間はない。相手は狂っている。そんな中、どうしてそんなことを請け負うのか。
(ノージーは私が心配しないように淡々と語っているだけよ。本当はとても怖かったに違いないわ。好きな人の前ではかっこつけたい、男心よね⁈)
そうだと言ってちょうだいとピケは希望を持ってノージーを見る。
彼女の懇願するような視線に何を思ったのか、ノージーはフンス! と胸を張って言った。
「僕が使う魔術は、人を眠らせて夢を見せることなのです。だから、対象の人物だけを集めて他は人払いしてもらえれば、上手くいくと思いました」
総司令官の指示のもと、総司令部が一丸となって極秘で人払いし、ノージーの魔術でガルニール及び関係者を眠らせて捕縛する。
イネスやキリルが願った通りの、平和的解決方法。ただし、捕縛後の展開は平和的とは言えないだろうが。
とはいえ、ピケに何かあった場合はノージーが使い物にならなくなるのは必至。
この作戦はノージーありきのものだから、彼の弱みであるピケには、総司令官という規格外な護衛がつけられた──ということらしい。
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