第39話 総司令官の誘惑

 個室へ案内されたあと、ピケに渡されたのは値段が書かれていないメニュー表だった。


「コーヒーとルッセカットを」


 焦るピケの前で、アドリアンは飄々ひょうひょうと注文を済ませる。

 メニュー表を開くことなく注文する彼は、ここの常連客に違いない。


(さすが、総司令官様。大人って感じだなぁ)


 手持ち無沙汰に様子を眺めてくるアドリアンに、ピケは冷や汗をかきながらメニュー表を見る。

 待たせるのは気が引けるが、値段がわからないせいか、どれもこれもお高そうに見えてならない。

 うんうんうなりながらメニュー表の端から端まで確認して、なんとかジャムと紅茶だけを頼んだ。


 安堵あんどの息を吐きながらメニュー表を閉じた時、ふと表紙のイラストが目に入った。

 ケーキにパイ、ビスケット。美味しそうなイラストに、つい目が釘付けになる。


(うぅ……食べてみたいけど、お値段が……!)


 魅惑のイラストを目に入れないように視線を逸らしながら、ピケはメニュー表を返す。

 だがそれを、アドリアンが押し止めた。


「ケーキは」


「え?」


 アドリアンの口からケーキという単語が出てきたことに驚いて、ピケは呆けた顔で目をぱちくりさせる。

 小さく開かれた唇は幼子のようで愛らしく、アドリアンはその口へ甘いものを詰めたらどんな風に笑うのだろうとワクワクしていた。表情の読めない、鉄仮面の下で。


「ケーキはいらないのか?」


 女子と言えばケーキだろう。

 そう言わんばかりの態度に、ピケはたじろぐ。

 グイグイと押し戻されたメニュー表を受け取り、肩を丸めてぎこちなく笑った。

 それから、困ったように頰を掻きながら、小さなため息を吐く。


「えっと……お恥ずかしながら、ケーキ代を支払えるかわからなくて。実はこれから、洋服を買いにいくところだったんです。それに、こんな高級なお店、敷居が高くて入ったことがなくて。だから、どれくらいお金が必要なのか、検討もつかないんです」


 頰を赤らめて気まずそうに答えるピケに、アドリアンの眉間に皺が寄る。

 まさか鉄仮面の下で「かわいい〜!」とキャッキャしているとも知らず、ピケは怒らせてしまっただろうかと身構えた。


「高くない……俺が払うから、気にせず食べろ」


「でも」


「ケーキは、褒美だ」


 アドリアンの申し出に、ピケは眉間をキュッと縮めた。

 訝しむようにアドリアンを見つめる彼女の唇が、突き出る。


「ご褒美をもらえるようなことを、していません」


 不機嫌な子どものように、ピケは唇を尖らせる。

 その様子が心の琴線に触れたのか──実際にはピケの愛らしさに我慢ならなくなっただけだが──アドリアンの頰が少しだけ緩んだ。


「ここの菓子はおいしい。おまえにもぜひ、食べてもらいたいのだ」


 あるかなしかのかすかな笑みだが、ピケが怯むには十分な効果があった。

 身じろぐピケにチャンスだと思ったのか、アドリアンがフッと笑みを深める。

 そんなわけは絶対にないのに、ピケはその目に女性的なやわらかさを感じた。


 胸を押さえて首をかしげるピケが黙っているのを良いことに、アドリアンは適当にケーキを数個注文してしまう。

 注文を受けた支配人は、孫でも見るようなあたたかな目で二人を見て、会釈をして部屋を出ていく。


 静かな個室が落ち着かない。


「そっ、総司令官様も甘いものとか食べるんですねっ」


 胸の鼓動をごまかすように、ピケはことさら明るく言った。


「ああ、好きだ」


 想像だにしないくらいのやわらかな笑みを向けられて、ピケは息を飲んだ。

 なんだか口説かれているような気がして、反応に戸惑う。


「うぐ」


 口をへの字にして息を詰めているピケは、小動物を彷彿ほうふつとさせる。

 アドリアンは小さいものが好きだ。自分には手に入らないものだから、なおさらなのかもしれない。


「おまえはかわいいな」


 テーブルの上に肩肘をついて頰を乗せ、コテンと首をかしげながら見つめてくるアドリアンは、慈愛に満ちている。

 彼は男の人なのに、なぜか亡き母のあたたかさのようなものを感じた。

 本心からかわいいと思って言ってくれたことがわかって、嬉しいという気持ちがじわりと胸ににじむ。


(変なの。総司令官様は男の人なのに、なんだか年上の女の人みたい)


 アドリアンの手が伸びてきても、ピケはおとなしくしていた。

 見た目は誰よりも恐ろしいのに、どうして平気なのだろう。

 不可思議な感覚に困惑した表情を浮かべるピケの眉を、アドリアンが撫でる。

 くすぐったさに身を竦めていたら、ふいに距離を詰められた。


 息遣いさえ聞こえそうなくらい近づいた距離に、ピケは慌てふためく。

 そんな彼女の視線を独占するように蠱惑的な笑みを浮かべたアドリアンは、内緒話をするように小さな声で「おまえは女性が好きなのだろう?」と言った。


「実はな、俺は女なのだ」


「はい?」


 ピケは、アドリアンが疲れているのだと思った。

 彼は総司令官だ。疲れているに決まっている。そうでなければ、どうしたって男にしか見えない姿で「自身は女である」なんて言うわけがない。


 聞かなかったことにして流そうとするピケ。そんな彼女の目の前で、アドリアンがパチンと指を鳴らす。

 音につられて指へ視線を向けたその一瞬。アドリアンの姿が陽炎かげろうのように揺れたように見えて、ピケは目を擦った。


「そして、おまえのことを気に入っている」


 目だけでなく耳まで疲れているらしい。


(ということは、相当疲れているのね、私。無理もないわ。ガルニール卿のこと、ノージーのこと、そしてイネス様のこと……いろいろあるから)


 目を閉じたまま訳知り顔で頷いているピケにアドリアンは、


「目を閉じているということはキスをご所望かな? 私としては、やぶさかではないのだけれど」


 はっきりとハスキーな女性の声が聞こえてきて、ピケはパチリと目を開ける。

 視界いっぱいに青い目をした美女の顔があって、ピケは「おぎゃあ!」と叫んだ。


「そんなに驚かなくても」


 クツクツと笑う美女は、どことなくアドリアンに似ている気がする。


(もしかして、お姉さんか妹さん? この一瞬で入れ替わるなんて、総司令官様は手品が特技なのかしら)


 声に出ていたのか、美女が腹を抱えて笑い出す。

 ひとしきり笑ったあと、彼女は涙を拭いながら姿勢を正した。


「残念ながら手品ではない。これは魔術だ。はじめまして、ピケ嬢。私の名前はアドリアーナ・ゼヴィン。普段はアドリアンとして総司令官を務めているが、本来の私はこちらなのだ」


「まじゅつ……?」


「ああ」


「総司令官様は本当は女の人で、アドリアーナ様だって言うのですか?」


「そうだ」


 ピケの脳裏に『国家機密』『証拠隠滅』『死』という単語が浮かぶ。

 ガクガクと震え出す彼女に、アドリアンことアドリアーナは「大丈夫」と優しく声をかけた。


「私が秘密を打ち明けたのは、おまえを気に入っているからさ」


「気に入っている……」


「おまえは女性の方が好きなのだろう? だから、私はどうかなと思って。自分で言うのもなんだけど、総司令官だから財力も権力もあるし、見た目も悪くない。けっこう好物件だと思うのだけれど、その気になったり……しない?」


 再びアドリアーナの顔が眼前に迫ってくる。

 混乱の最中にあったピケは反応が遅れ、目を見開いて硬直した。


「まずは試しに一回……キス……してみようか?」


 女性らしい細い指が、ピケの顎を捉える。

 青く澄んだ目は綺麗だ。ぷっくりとした唇も、やわらかそう。

 だけどピケは違う、と思った。同時にノージーの悲しげな顔が思い浮かんで、ピケはハッとなる。


(ああ、私は……)


 ノージーだけが、恋愛対象なのだと理解する。

 男の人は確かに苦手だけれど、だからといって女の人が好きなわけじゃなかった。

 性別も、種族も関係ない。


(私は、私だけのたった一人が……ノージーがほしかったのね)


 きっとノージーも、同じはずだ。

 ピケに恋をして、ピケと生きるために獣人になったのだから。


 改めてノージーへの気持ちに気がついたピケは、これから実行しようとしていたたくらみが、悪夢のように胸を苦しく責めてくるような気がした。


(私は自分の気持ちも、ノージーの気持ちも大事にしなくちゃいけなかったのに)


 キスを拒むように自身の唇を手で覆うピケ。

 彼女の反応を満足げに見やりながら、アドリアーナは聞こえてくる足音にニンマリと人の悪い笑みを浮かべる。


「ふふ。王子様の到着だ」


 アドリアーナの楽しげなつぶやきが聞こえる。

 聞き返す間もなく個室の扉が勢い良く開け放たれて、赤と茶が混じった不思議な色をした短髪の青年が飛び込んで来るのが見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る