第36話 侍女のたくらみ

 部屋に戻る頃にはすっかり日が落ちて、室内は真っ暗になっていた。まるでピケの今の気持ちを表しているようで、気がめいる。

 窓の外で降る雪はもう見慣れたもので、むしろ今は目障りなくらいだった。ピケは月明かりで白銀にきらめくそれを見ないように、カーテンを引いた。

 それから頼りない足取りでベッドへ歩いていって、ポスリと身を投げる。


「ああ、どうしよう……」


 熱くなるまぶたを手で覆い、ピケは吐き出すように言った。

 泣いたってどうにもならないことなのに、勝手に涙が出てくる。

 ひっきりなしに出る嗚咽は無性に腹が立って、「もう聞きたくない」とピケは手近にあった枕で顔を覆った。

 降り積もる雪が外の音を消しているのか、室内は静かだ。しんとした室内に、ピケのすすり泣く声がこだまする。


「どこで間違えちゃったんだろう……」


 家から逃げ出したことは後悔していない。

 あのまま家にいたら、取り返しのつかない結末しかなかったと思う。

 考えたくもない、おぞましい未来だ。断固として、お断りである。


 侍女になったことは多少後悔もあるけれど、それを補って余りあるくらいに、ピケは幸せだった。

 イネスとキリル。ちょっとクセはあるけれど優しいロスティの人々。そして、誰よりもそばにいてくれる、ノージー。

 侍女になってからの時間は、人生で一番満たされた時間だったと断言できる。


 じゃあ、何がいけなかったのか。

 そう問われれば、ピケは「何も悪くない」と答えるだろう。

 だが「きっかけは?」と問われれば、「あのうわさ」と答えるに違いない。


『総司令官様はアルチュール国の王女様が連れてきた侍女に恋をしている。侍女の名前はピケ。彼女はアルチュールの女性だが、ロスティらしい強い人だ』


 ガルニールから持ちかけられた取引は、決して無理難題ではなかった。

 むしろ、拍子抜けするくらい簡単なことだ。

 もっと大変なことを言い渡されると思っていたピケは、聞き返してしまったほどである。


 総司令官、アドリアン・ゼヴィンを足止めしておく。ただ、それだけ。

 時間にして、およそ三十分。

 訓練好きのアドリアンならば、ピケが「訓練してほしい」と願い出れば容易に叶えてくれるだろう。

 ただし、その間に何が起こるかは明白である。


「私が総司令官様を足止めしている間に、ガルニール卿はイネス様を手にかける……」


 そんなことは絶対にさせないとピケは思っている。

 だが同時に「でも」と言い淀む自分もいた。


 キリルの暗殺がことごとく失敗したのは、総司令官が有能なせいである。

 つまり、総司令官さえ関わらないようにすれば、万事うまくいくはず。

 総司令官のお気に入りであるピケがなんらかの手段を講じて──ガルニールは色仕掛けを示唆していたが、ノージー相手ならまだしも、ピケにハニートラップは無理がある──足止めさえできれば、ガルニールは悲願を達成できる。


 協力したピケに与えられる対価は、口をつぐんでいること。

 ピケもノージーも、イネスがアルチュールから連れてきた侍女として、ここにいることができる。


 だが、協力しなかった場合。

 この場合は、ピケとノージー、そしてイネスは王族を騙した罪に問われる。

 特にピケとノージーを国王へ紹介したイネスは重罪だ。おそらく死刑だろうとガルニールは言っていた。


 ピケが協力しようがしまいが、イネスに未来はない。

 協力しなかった場合、ピケやノージーだって未来はないのだ。


「ノージーだけは、助けなくちゃ」


 これだけは譲れないと、ピケは盲信するようにつぶやく。

 残念なことに、ピケはイネスをノージー以上に大切だと思えなかった。

 あれほど良くしてもらったのに一番に思えない自分は、なんて恩知らずなのだろう。

 悲劇のヒロインみたいに自分を責めたけど、それでも気持ちは変わらない。


 答えなんてとうに出ているも同然なのだ。

 なのに優柔不断なピケの頭は、キリルと見つめ合うイネスの幸せそうな顔や、ピケを着飾って子どもみたいに無邪気な顔で笑うイネスの姿を突きつけてくる。

 そして決断を迫るように、ピケのそばでくったりとリラックスするノージーの顔や、不意に見せる男っぽい一面も突きつけるのだ。


「ノージー……」


 助けを求めて、ピケは名前を呼ぶ。

 タイミング良く来るわけがないのに。


 小さくため息を吐き、ピケは枕を胸に抱いた。

 涙がにじむ枕は、ひんやりとしている。

 無性に、ノージーの尻尾が恋しくなった。

 モフモフであったかい、香ばしいポップコーンみたいな匂いのする尻尾。


「今抱きしめることができたなら、迷わず決断できるのに」


 最低最悪の選択だ。

 おそらく……いや、きっと。ノージーはピケを見放すだろう。


「失恋した獣人は消滅してしまう……じゃあ私は、ノージーも失ってしまうの?」


 そんなのは嫌だ、とピケは思った。


 出会った時、今にも死にそうだったノージー。寝る間も惜しんで世話をして、完治した時は嬉しかった。

 父の再婚でひどい扱いを受けても、ノージーがいてくれたから耐えることができた。ごはんをもらえなくておなかを鳴らしていたピケに分けてくれた小魚エサの味は、忘れられない。


(やわらかく笑う顔が好き。恥ずかしいけれど、甘やかすみたいに名前を呼んでくれる声が好き。私さえ忘れていたような約束を大切に覚えてくれているところが好き。時々見せてくる雄っぽいところも……)


 走馬灯のように過っていく、ノージーとの思い出たち。

 胸にしまっていた大事な気持ちが、弾ける。

 消えてしまったらどうしようと思っていた気持ちは、消えるどころか増していくばかりで、とうとうピケの口から溢れ出た。


「好き」


 口にするのは勇気がいった。

 だけど、思っていたよりも自然に出てくるものらしい。


「私、ノージーのことが好きなのね」


 しみじみと噛み締めるように思いを口にしたピケは、その時思いついてしまった。

 甘くて優しい気持ちが、一瞬にして苦くなる。

 自覚したばかりのやわらかな気持ちを踏みにじるような、ひどいこと。

 イネスもピケも幸せになれない、悪いたくらみ。


「もしかして……今、想いを告げればノージーは人になれる?」


 恋が成就すれば、獣人は人になることができる。

 人になった獣人は、失恋したって消滅しないはずだ。


「ガルニール卿に協力して総司令官様を足止めしても、ノージーだけは助かる方法……」


 イネスもノージーもピケも、みんなうまくいく方法なんて思いつかない。

 なにもかもうまくいく方法なんて、あるわけがないのだ。

 世の中は、そういう風にできている。


 幸い、ピケは諦めることが上手だ。

 義母や義兄にしてきたように、すればいい。


 与えられた猶予は一週間。

 それまでに、ピケはなんとかしなくてはならない。


 決めてもなお揺らぎ続ける弱い自分に失笑するピケは、部屋に近づいてきていた足音が静かに遠ざかっていったことに気付くことはなかった。

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