第35話 枢機卿と侍女
扉の前にはメイド。
窓の前にはガルニール卿。
逃げ道は、どこにもない。
(こういうの、八方塞がりって言うんだっけ? 八方もないけど)
うまいこと考えたなぁ、なんて現実逃避にしょうもないことを考えていたピケは、ガルニールの咳払いにビクンと体を竦ませた。
「白い肌に、緑色の目。それに茶褐色の髪。それでどうして、アルチュールの者だと思わせることができるのか。私にはさっぱり、理解ができない」
苛立っているのか、ガルニールは人差し指で机を叩き続けている。
一定のリズムで発せられるコツコツという音は、見た目通りに神経質そうな彼らしい。
緊張で嫌な音を立てている胸が同調しそうだ。かすかな音でさえガルニールの不興を買いそうで、ピケは本能的に息を潜めた。
「そう思わないか? ピケ・ネッケローブ」
ガルニールが使っている客室で、ピケは椅子へ座らされている。
向かいでは、立派な机に頬づえをついたガルニールが、品定めするようにピケを見ていた。
嫌な視線だ。
義兄たちの視線とは違った意味で、悪寒が走る。
スカートを手繰るように握り締めながら、ピケは目を閉じ、俯いた状態で耐えていた。
「君に話があるのだ」
さきほどまでのさげすむような声音が、急に猫撫で声になる。
何かをたくらんでいる。そう思うのに十分な変わりように、ピケはヒュッと息を飲んだ。
「話、ですか? 一体どんなお話でしょうか」
口が勝手に笑みを浮かべる。
笑いたくないのに、どうして笑ってしまうのだろう。
怯えをごまかすため? それとも、媚びへつらって見逃してもらおうとでも思っているのだろうか。
(だとしても、こんな歪な笑みでは見逃してもらえないでしょうね)
しかし、ガルニールはピケが不敵な笑みを浮かべているように見えたらしい。
憤慨したようにふんっと粗く鼻息を吐くと、
「どういう立場なのか、まだわかっていないようだな?」
と言った。
「おい、おまえ。事情を説明していないのか?」
ガルニールの視線が、ピケを通り越して扉の前に立つメイドへ向けられる。
鼻に皺を寄せて忌々しそうに睨まれても、メイドは静かにたたずんだままだ。
「一応はしましたよ。周りの目もありましたし、事細かにはしていませんけど」
メイドはガルニールの手下だったらしい。
しかし完全に支配されている立場ではないようで、彼の言葉に疲れたと言わんばかりに重いため息を吐いた。
「はぁ、やれやれ。わがまま坊ちゃんはこれだから面倒なのよ」
「それは私のことを言っているのか⁉︎」
心底つまらなそうにしているメイドに、ガルニールが音を立てて椅子から立ち上がる。
そんな彼に引いたのか、メイドは面倒そうに顔を背けた。
「ええそうですよ、ガルニール卿。あなたのことを言っています。それと……」
メイドの視線が、ピケの後頭部に突き刺さる。
ピリピリと感じるのは、明確な殺意だ。ピケは殺されるかもしれない、と思った。
「ねぇ、ネッケローブさん。あれで理解できているのでしょう? 知らないふりなんて無駄だから、やめてもらえませんか? キーキー喚かれると私……うっかり手が滑って殺してしまいそう」
チラリと後ろを見れば、メイドの手にはナイフが握られていた。
カチンカチンと音を立てながら、折り畳み式のナイフを開閉している。
明らかに手慣れた様子だ。だって彼女は手元を見てもいない。視線はまっすぐ、ピケを捉えたままなのだ。
ピケは、このメイドは普通じゃない、と思った。
あの夜にらみ合った侵入者よりも、いや、比較になんてならないくらいの実力を持っている。もしかしたら総司令官だって敵わないかもしれない。
「か、かかか勝手に殺した分は払わないからな!」
怯えながらも言い返すガルニールは、一応枢機卿らしかった。
威厳はなかったが、まぁまぁ自尊心は持っているらしい。
「ケチくさいですねぇ。厄介者を排除してあげるんだから、有料に決まっているでしょう?」
「こいつには使い道があるのだ。勝手に殺されては困る」
「無料奉仕はしない主義なので、ここはおとなしくしておいてあげますね」
感謝してくださいと言わんばかりのメイドにガルニールは何か言いたそうにしていたが、彼女が曲芸師のようにどこからともなく取り出した複数本のナイフを回し始めると、口を歪めて押し黙った。
室内に、ナイフが回るかすかな音だけが響く。
いつナイフが飛んでくるかわかったものではなくて、ピケは全神経を集中させてメイドを警戒した。
しばらくして、立ち直ったらしいガルニールが咳払いをして席へ座り直す。
それが合図だったのか、ナイフの音が止まった。
ホッと息を吐くピケの前で、組んだ手の甲に顎を乗せたガルニールが目を細める。
「ピケ・ネッケローブ。私はおまえと取引がしたいのだ」
「……」
「おまえのことは調べがついている。父親を亡くし、義母と義兄に家を乗っ取られ、家を追い出された哀れな娘。イネス王女様はそんなおまえを同情し、侍女にしたのだろうが……粉挽き屋の娘など、侍女にふさわしくない」
「わかっています、そんなこと」
誰よりも、ピケがわかっている。
王都の人々に笑われてしまうような者は侍女にふさわしくないことくらい、わかっているのだ。
それでもここにしがみついていたのは、ノージーがピケの幸せを思って与えてくれた場所だからだ。
がんばってしがみついていれば、いつか本物になれるかもしれない。
そう思い込もうとしていたけれど、土台無理な話だったのだろう。
(さっさと逃げてしまえばよかった。そうしたら、こんなことにはならなかったのに)
情けなくて、馬鹿馬鹿しくて。
ピケは唇を噛んだ。
「わかっているのなら良い。精進せよ」
「……え?」
思ってもみない言葉をかけられて、ピケは呆けた顔でガルニールを見た。
「侍女をやめろと言われると思ったのか? イネス王女様はおまえを気に入っている。お気に入りのおもちゃを取り上げてはかわいそうだろう」
「でも」
「取引だと言っただろう? 私のいうことを聞けば、見逃してやる」
不意に、ノージーの言葉を思い出す。
『僕のいうことを聞いてください、ピケ』
似たような言葉なのに、どうしてこんなに感じ方が違うのだろう。
胸がドキドキしているのは一緒だけれど、その意味は全く違うとピケは思った。
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