第34話 呼び出し

 ノージーの背中が見えなくなると、ピケは熱くなった耳を押さえてその場にへたり込んだ。

 冬の空気で冷えた廊下が気持ち良く感じられる。

 そこでようやく、耳だけでなく顔まで火照っていることに気がついて、ピケは恥ずかしそうに三つ編みを引き寄せて顔を隠した。


「ああ、もう」


 誰も見ていないし、三つ編みで顔が隠れないことはわかっている。だけどそうしないと、今すぐにでも胸が破裂しそうだった。


「本当、こまる……」


 目を閉じると、暖炉に残っていた種火が燃え上がるように、ノージーのささやき声が聞こえてくるようだ。

 またあとで。

 甘くて苦い吐息混じりの声は、いまだに飲み慣れないカフェオレの味を思い起こさせる。

 それっていつのことなのだろうと、ピケの胸が期待に膨らんだ。


「期待、なんて……」


 なんてことを考えるのだろう。

 とんでもないことを考えそうになる自分がただひたすらに恥ずかしくて、泣きたくなってくる。


(あの時の私……ノージーに抱きしめられたいって思っていたわ)


 考えないようにしようと思えば思うほど、思い出すきっかけが溢れ出てくる。

 逃げたいと思う気持ちと同じくらい、逃げられないように強引にでも抱きしめてほしいと思ったことを思い出し、とうとうピケの思考が停止した。防衛本能だったのかもしれない。

 焼き立てのスフレが萎んでいくように、ピケの頭がふしゅうと音を立てながら考えていた事の一切合切を圧縮していく。小さくなったそれは、心のどこかにしまいこまれた。


(ああ、困ったわ。いっぱいになっちゃう)


 ピケの心の中は空っぽだったはずなのに、いつの間にか小さな宝物がいっぱいになっていた。どれもこれもノージーが絡んだものばかりで、無意識のうちに苦笑いが浮かんでくる。


「これがいっぱいになって、しまえなくなったら……何か変わるのかしら」


 弾けて消えてしまうのか。それとも──。


「ネッケローブさん」


「うえぇ⁈ あ、はいっ!」


 思考を遮るように名前を呼ばれ、ピケはビョンと勢いよく立ち上がった。

 すぐそばに一人のメイドが立っていて、それにも驚く。

 いつの間にやって来ていたのだろう。ちっとも気がつかなかったと、ピケは驚きに目をぱちくりさせた。


「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」


 メイドはピケの大声にも動じることなく、淡く微笑んだまま言った。

 自分より年下に見えるメイドが落ち着き払った態度でいることにバツの悪さを感じて、ピケはしょんもりと肩を落とす。


「あ、いえ。考え事をしていたから気づかなくって。こちらこそ、すみません」


「考え事をしているのに声をかけてしまった私が悪いのです。でも……お仕事中に考え事に没頭するのは良くありません。気をつけたほうが良いですよ?」


「そうですね。気をつけます」


 殊勝な態度で答えるピケに、メイドは目を細める。

 その目が悪賢い鴉の目と重なって見えて、ピケは引っ掛かりを覚えた。

 かわいらしい顔で微笑みを浮かべている彼女は、ちっとも鴉と似ていない。

 似ている点を挙げるとすれば茶色の虹彩だが、別段珍しい色でもない。

 どうしてそんなことを考えたのだろうと、ピケは不思議に思った。


「ええ、ぜひそうしてください。気を抜いているところに刺客が現れてグッサリ、なんてことにならないように」


 まだあどけなさが残るメイドの口から出たとは思えない物騒な言葉に、ピケの頰が引き攣る。気のせいではないのだろうかと、違和感を抱いた。


「ぐっさり……」


「はい、グッサリです」


 呆然ぼうぜんとつぶやくピケに、メイドはケロリと言ってみせる。

 容易く言えるのは、彼女がロスティの人間だからなのだろうか。

 強さこそ正義と言えるこの国ならではの感性なのかもしれない、とピケは思った。


「ところで、考え事をしていたということは、今はお手隙ということでしょうか?」


 メイドは至って丁寧な態度でピケと接している。

 だというのに、ピケは逃げたくてたまらなかった。

 得体の知れない脅威に睨まれているような、そんな気がしてならない。


「一応、仕事は終わっていますけど」


 手ごわい獲物を前にした時のような気分だ。

 物音ひとつで勝敗が決まってしまうような、危うさがある。

 探り探り答えたピケに、メイドは艶やかに笑った。

 歳不相応な笑みは、ピケの不安を煽る。


「それは良かった。あなたにお願いしたいことがあるので」


「お願いしたいこと?」


「ええ。ガルニール卿が、あなたをお呼びなのです。ここへ来てひと月。アルチュールが恋しくなってきたので、同郷であるあなたと話がしたいのだそうです」


「私と……?」


 一体どういうことだろう。

 ピケはオレーシャ地方出身であって、アルチュール出身のガルニールと同郷のはずがない。

 動揺し視線を泳がせるピケに、メイドは「あら?」と首をかしげた。


「ネッケローブさんはイネス王女様が国から連れてきた侍女なのでしょう? でしたら……お話、できますよね」


 そこでようやく、ピケは気がついた。

 ピケは、イネスがアルチュールから連れてきた侍女だと思われている。

 国王も言っていたではないか。「慣れ親しんでいる者がそばにいた方が、ここに慣れるのも早かろう」と。

 イネスはうそを言っていないが、わざと濁した言い方をしていた。捉え方によっては、騙していたと言われても仕方がない。


(騙されたと思われたらどうなるの? また、イネス様の幸せが遠退くのでは……?)


 それだけじゃない。黙っていたピケやノージーだって、同罪なのだから。


 微笑んでいると思っていたメイドの顔が、歪んで見えてくる。

 ピケが疑心暗鬼になっているから、そう見えるのだろうか。


(ガルニール卿が私を呼び出した理由を、彼女は知っているの?)


 ピケの背中を冷や汗が伝っていく。

 逃げたいと思ったら、いや、思うよりも前に反射で逃げ出せるはずのピケの体は、こんな時に限ってポンコツになってしまったらしい。

 気付けばピケはメイドに手を引かれて歩いていた。

 握ってくる手は小さくか弱そうに見えるのに、ピケの力でも振り解くことができなかった。

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