第33話 侍女の困り事
ガルニールが王城へやってきてから、ひと月がたっていた。
王族が婚前に行わなくてはならない儀は、まだ行われていない。
結婚式を挙げる春はまだだいぶ先だし、雪が溶けなければ王都の外へ出ることもできないのだから急ぐ必要はないのだが──一体いつやるつもりなのだろうと、ピケはピリピリしていた。
当のガルニールはと言えば、ほとんどの時間をあてがわれた客室で過ごしている。
彼曰く、王族が婚前に行わなくてはならない儀には身を清める必要があるそうで、今はそれを行なっているらしい。
日がな一日風呂につかっているガルニールを想像して、ピケは顔を顰めた。
貧相なおじさんの入浴シーンなど、面白いものはなにもない。
それならいっそノージーの入浴シーンを想像した方が何倍もマシである。ただし、想像した直後に大ダメージを喰らうのは目に見えているが。
(うわぁぁぁ!)
案の定ダメージを喰らったピケは、仰向けに体を投げ出して叫んだ。実際にやるわけにはいかないので、心の中でだが。
フワフワの尻尾から香る、ポップコーンみたいな良い匂い。着痩せするのか、予想していたよりもしっかりとした体。
それらに包まれてスヨスヨと眠っていた自分を思い出し、恥ずかしいやら、信じられないやら。
ぽっぽと火照る頰を、ピケは宥めるように両手で包んだ。
「こんなことを考えてしまうのは疲れているせい。きっと、そう……そうにちがいない……そう、思いたい……」
ガルニールが事を起こすのは今日か、それとも明日か。毎日気を張り続けているピケは、いい加減我慢の限界である。
ここ最近、「嫌な予感がするのです」と言ってノージーがべったりと張り付いてくるので、余計にピリピリしていた。
ピケがノージーの存在に神経を尖らせてしまうのには、理由がある。
ガルニールが城へ来てからというもの、ピケの体は本人の意思にかかわらずノージーのそばにいたがるのだ。気付くとノージーの姿を探して動いている。
そんな彼女を見たイネスは「まるで親ガモにくっついて歩く子ガモみたいねぇ」とほっこりしていたが、ピケは納得がいかなかった。
モヤモヤとした気持ちが、胸に渦巻いている。「そういうつもりじゃないのに」と無意識に呟いた言葉は的を射ていたような気がしたけれど、その意味まではわからなかった。
ノージーは、「もしかしたら無意識に危険を察知して、防衛本能が働いているのでは?」なんて心配していたが、それよりもピケは「受け入れ態勢入っていないで注意しろ」と思っているし、言っていた。
だってそうしないと、いつか仕事を放り出してノージーを探しそうなのだ。迷子の子どもみたいに不安がっていると思われるのが嫌で、理由までは言わなかったけれど。
ピケの頼みは聞き入れられるどころか無視されてばかりだ。
ノージーときたら、彼を見つけて駆け寄る時のピケの顔がたまらなくかわいいのだと言って──不意打ちにそういうことを言われて彼女は反則だとキーキーしているが──両手を広げて待っている始末。
そういう時の彼の顔は煮詰めたジャムよりも甘くとろけていて、ピケは初めて
しかも、問題はこれだけでは済まされなかった。
ピケは、ノージーがしまりなくふにゃりと笑いかけるのが自分だけだと思うと、優越感を覚えるようになったのだ。
時折言い寄ってくる男たちを彼がぞんざいにあしらっているのを見ると、自分が特別なもののように思えてくる。
それは、ノージーから直接聞かされた告白と同じくらい、ピケを動揺させた。
(今まで自分を大事にしてこなかったわけではないけれど……ノージーと同じ上等な生き物になったような気になるのよね)
そんなことを思っている時に、ノージーからひどく大事そうに触れられると、もう駄目だった。
体は勝手にノージーに寄りかかるし、触れてくる指先に過剰に反応してしまう。
それだけでは足りなくて、「もっと」と言いそうになることもあった。
ピケは一体、どうなってしまったのだろう。
こんなことは初めてのことで、どうするのが正しいのかもわからない。
だけど、これだけはわかる。今のピケは絶対に「もっと」と言ってはいけない、と。
唇を噛んで言葉を飲み込むと、心配そうに表情を翳らせたノージーが顔を覗き込んでくる。あまりの近さに驚いて飛び上がると、なぜか自分の手が彼の服を摘んでいた──なんてことが日常になりつつある。恐るべきことに。
考えても考えても、答えにはたどりつかない。
勉強が苦手なピケが図書室へ行こうかと思うくらいには困っている。
イネスに相談することも考えなかったわけではないが、時期が悪すぎた。
(本当に、勘弁してもらいたい)
またしてもフラフラと近づきそうになっていた足を止めて、ピケは「落ち着け」と息を吐いた。
ため息に気づいたノージーが振り返り、気遣わしげにピケを見つめる。
「お疲れですね。気を張り続けるのは大変でしょう」
「うん……」
「逃げるつもりならまだまだ先ですし、逃げるつもりなんて毛頭ないのなら、いつになるのかわかったものではありませんね」
「そうだよねぇ……でもこういう場合、逃げずに自害するパターンが多い気がする」
「よくある悲恋ものですと、そういった展開が多いですね」
掃除を担当している廊下に人気はない。
いつもだったらノージーを目当てに誰かしら通りそうなものだが、今日は静かだった。
ピケはその静けさが気になって仕方がなくなってくる。なにか喋らないと、と強く思った。
「ねぇ、ノージー。ガルニール卿はイネス様にその……そういう気持ちを抱いていたりするのかしら?」
言いながら、ピケはしまったと思った。
今までノージーに対して、恋愛絡みの話を振らないようにしていたのに。
(どうして言っちゃったのよぉぉぉ!)
心の中で叫んだって、もう遅い。
ノージーはどんな顔をしているのだろうとおそるおそる見てみたら、彼は平然とした顔で小首をかしげていた。
「恋愛感情、ということですか?」
「う、うん、そう」
あまりにもノージーの態度が普通すぎて、ピケは逆に何かあるのではと勘繰った。
決まり悪そうに答えるピケの前で、ノージーが顎に手を当てる。
「そうですねぇ……あくまで僕の私見ですけれど……恋愛感情ではないと思いますよ」
「そ、そうなんだ?」
「ええ。それにしても……ピケからそのような質問がくるとは意外でした」
ノージーの目が、スッと細められる。
猫が目を細くするのは敵意なしの意味だったはずだが、ピケは見定められているような気がしてならない。
居心地悪さを感じてピケが一歩後退ると、ノージーは一気に距離を詰めてきた。
「いっ、意外かな?」
「はい、意外です。もっと子どもだと思っていたものですから」
ノージーの指先が、ピケの顎を掬う。
そのまま輪郭を確かめるように指が伝い、ピケはくすぐったさにピクンと震えた。
「ずっと一緒だと、気づかないものですね。あなたはこんなにも、成長していたのに」
もったいないことをしました、とノージーがいたずらに笑う。
彼の笑顔を見るのは、これが初めてではないのに。
だけどこの瞬間、ピケの視界が変化した。
色鮮やかだった世界が、白色を混ぜた淡く優しい色合いになる。全身がやわらかなもので包まれているような、ほんわかとしたあたたかさを感じた。
ノージーに対し、抗い難いものを感じる。
「……あ」
ノージーの目は、見たこともないくらいとろけた色をしていた。
舐めてみたら甘いんじゃないか、と思うくらいに。
体がムズムズして、ノージーを突き飛ばしたい衝動に駆られる。
だけどそれと同じくらい、ピケが逃げられないくらい強い力で、ギュッと抱きしめてもらいたいとも思ってしまった。
(なんなの、なんなの、なんなのよぉぉぉ!)
混乱するピケを冷静にさせたのは、ノージーを呼びに来たメイドの声だった。
弾かれたようにピケの手が、ノージーを押し出す。
「私は大丈夫だから。行って?」
一体ピケは、どんな顔をしていたのだろう。
ノージーは怒っているような、今にも泣きそうな複雑な表情で舌打ちしたあと、「またあとで」と踵を返した。
「耳があつい……」
なにも耳元でささやかなくてもいいのに。
燃えるように熱を持つ耳を摩りながら、ピケは遠ざかる背中を見つめ続けた。
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