第32話 枢機卿の腹案
戦場に舞い降りてきた天使は、数年たった今も変わらず清らかな空気をまとっていた。
窓の外でしんしんと降り積もっていく真っ白な雪よりも純白な存在。それを穢そうとしている男と同じ建物で寝泊まりしなくてはならないとは。
「なんたる屈辱……」
イネスとの茶会から、あてがわれた客室へ戻ってきたガルニールは、部屋に入るなりヨロヨロと長椅子へ体を横たえた。
「吐き気がするほど、おぞましい」
ハンカチを口に当て、
謁見の間で会ったキリル王太子を思い出し、ガルニールはうめく。
ロスティの国王は息子を随分と甘やかしているようだ。
ふくふくとした顔に、でっぷりとした腹。いかにも殴ってくださいと言わんばかりのサンドバッグ体形を脳裏に思い描き、ガルニールは容赦なく蹴る。
心の中だから、的を外すわけがない。
ひとしきり痛めつけた妄想のキリル王太子が「この結婚は諦めます、だから助けてぇ」と情けないセリフを吐いてようやく、ガルニールの溜飲がわずかばかり下がった。
実際に殴ったわけでもないのに満足そうな息を吐いたあと、ガルニールはチャイを淹れようと起き上がった。
だが、不意に口の中の不愉快な余韻に気がついて、またもや眉間に皺が寄る。
「ああ、イネス王女様。すっかりロスティに毒されてしまわれて……お可哀想に」
口の中に残るミルクティーの味は、つい今しがたまで会っていたイネスを象徴しているように思えた。
このままどんどんロスティに染まり、ついにはロスティ国民が愛飲しているというジャム入り紅茶を嗜むようになるに違いない。
そうなればもう、イネスはイネスではなくなる。
「そうなる前に、お救いしなくては」
女神テトの生まれ変わりのまま、乙女であるうちにその生涯を終わらせる。
それが、ガルニールの役目だ。
「私は役目をまっとうできるだろうか……?」
ガルニールの脳裏に、父と兄、それから一族たちの顔が浮かんでは消えていく。
彼らはみな、ロスティとの戦争で亡くなった。
ガルニールが喪ったのは、それだけではない。彼の左手も、犠牲となった。
「イネス王女様……」
手袋越しに義手を撫でながら、ガルニールはそっと目を閉じる。
思い起こされるのは、手を失った時の、痛み、恐怖、絶望。
利き手を失い、戦うことが叶わなくなった時、ガルニールは死を覚悟した。
そんな彼の前に現れたのが、アルチュールの天使──イネスだったのだ。
彼女は聖母のような慈悲深い微笑みを浮かべ、情けなく「痛い」「助けて」と叫んでいたガルニールの手を取った。
小さな手だった。
あたたかな手だった。
「大丈夫です、わたくしがついていますからね」
一言一句、違えず覚えている。
あの時イネスはそう言って、ガルニールに微笑みかけてくれたのだ。
傷が悪化し、左手を切り落とさなくてはならなくなった時も──手術なんて王女様が見るようなものではないはずなのに──そばについていてくれた。
あの時、ガルニールは知ったのだ。天啓、とでも言おうか。
友人らは「麻酔による幻覚を見たのだろう」と笑っていたけれど、そうじゃない。
イネス・アルチュールは女神テトの生まれ変わりである。
誰がなんと言おうと、彼女は特別な存在なのだ、と。
その後、左手を失ったガルニールは祖国へと戻され、テト神教にのめり込んでいった。
異常とも取れるガルニールの行動に、妻は愛想を尽かして実家へ帰り、友人らは距離を置いた。
止める者がいなくなったガルニールは、ますますあつく信仰していく。
教会に描かれた女神テトは、見れば見るほどイネスに似ていなくて。私財を費やして、イネスに似せた。
気づけば私財のほとんどを寄進し、その功績により枢機卿にまで上り詰めていた。
「あの時の御恩を、返す時がきたのだ……」
これは、恩返しだ。救いなのだ。
パチリとまぶたを上げたガルニールの目に、もう迷いはない。
これが女神テトの生まれ変わりであるイネスのためなのだと、一片の疑いもなく彼は信じていた。
「おかえりなさいませ」
気配もなく現れた少女に、ガルニールは「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
ハラリと落ちたハンカチを拾い上げながら、少女は「そんなに驚かなくても」とクツクツ笑った。
「きゅ、急に現れるなと言っているだろう!」
「仕方ないでしょ。それが仕事なんですから。今日もお賃金分働いてきましたけど……何から聞きたいですか?」
少女は、ガルニールに雇われたなんでも屋だ。
かわいらしく幼い見た目をしているが、騙されてはいけない。なにせ彼女はこう見えて、裏社会では諜報、護衛、暗殺と後ろ暗いことで大活躍している、要注意人物なのである。
「もう何か見つけてきたのか」
「ええ、わたしって有能なので。それで? あなたが欲しいのはキリル王太子の情報? イネス王女様の情報? それとも……イネス王女様の侍女の情報?」
イネス王女の侍女。
気にもとめていなかった人物の名が出てきて、ガルニールは眉をひそめた。
「イネス王女様の侍女……? 一体、何があると言うのだ」
どうやら興味を引き出せたらしい。
これはお賃金アップか⁉︎ と内心ほくそ笑みながら、少女はにっこりと微笑んだ。
「ええ、なかなか面白い内容でしたよ」
「よし、話せ」
「二人分なんで、二日分のお賃金もらいますけど」
「構わん、早く話せ」
「はいはい、かしこまりー」
そうして得た情報は、少女が言う通りなかなか面白い内容だった。
これは良いことを聞いた、とガルニールは一人ほくそ笑む。
陰気に笑う依頼主に、少女は汚物でも見るような目で「うげぇ」と舌を出していた。
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