第31話 王女と枢機卿
窓の外では、とうとう初雪が降り出していた。
数日前から降り出していたら、もっと違う展開になっていたのだろうか。
チラチラと舞う雪を視界の端に留めながら、ピケは思った。
あれほど待ち焦がれていた雪が降っているというのに、イネスの表情は暗い。
もしかしたら彼女は、初雪にも気づいていないのかもしれない。
だって、彼女にとっては招かれざる客でしかないガルニールが、目の前で茶を飲んでいるのだから。
より近くで見ても、ガルニール卿は神経質そうな男だった。
落ち着きなく周囲を見ている様子は、まるで巣穴から出ている時の野ねずみのよう。ちょっとでも突いたらキーキー怒りそうだ。
黒い革の手袋をした両手をずっと組んでいるのは、もしかしたら助けを乞うて神に祈りを捧げているのかもしれない。熱心なことだ。
狩猟本能が刺激されそうだと思ったピケがこっそりノージーを見てみると、彼のスカートの後ろがわずかに盛り上がっていた。スカートの中では、興奮に尻尾が反応しているに違いない。
盛り上がっていたのが前だったら大問題である。ノージーが変態扱いされなくて良かった、とピケはこっそり
「お久しぶりでございますな、イネス王女様」
ガルニールは、カップの中身がチャイではなく香辛料なしのただのミルクティーであることに顔をしかめたあと、気を取りなおすように言った。
イネス手ずから淹れたお茶がチャイではなくミルクティーだったことに、よほど衝撃を受けたらしい。苛立ちを発散するかのように、指先で何度もカップの縁をこすっている。
アルチュールの人々にとって、お茶といえばチャイなのだ。
ミルクティーなど、ロスティの飲み物。それを出すということはつまり、イネスはロスティに染まりつつあるということ。
もはや更生の余地なし、とガルニールは判断したのかもしれなかった。
(イネス様のチャイが飲めると思ったら、大間違いよ。あれは特別なもの。今や、キリル様しか飲めないんだから)
思っていることが顔に出やすいピケは、俯きながら心の中で舌を出した。
イネスのチャイは、キリルを想い、彼のためだけにスパイスを配合した特別なものなのだ。
二人の仲を裂く不届き者になど、振る舞うわけがない。
イネスは素知らぬ顔をしてミルクティーを一口飲んだあと、ガルニールの動揺など気付かなかったように振る舞った。
「ええ、そうですわね」
「戦場で手を失った時、痛みに叫ぶ私を看てくれたこと、今でも感謝しているのですよ」
ガルニールの言葉を聞いたピケは、ギョッとした顔で革手袋を嵌めた手を見た。
そんな彼女にノージーが「義手ですね」とささやく。
なるほどと頷くピケの前で、イネスとガルニールの会話は続いていた。
「もう何年も前のことよ。気にしないで」
「いえいえ、そうは参りません。いつかあの時の恩返しができればと、ずっと思っていたのですから」
ようやく果たせる、と言いたいのだろうか。
ピケの頭に、嫌な言葉が蘇った。
『ヨルヲテラスホシトナリ、ワレラヲミマモリタマエ』
ガルニールからの秘密の言葉。
わざわざ炙り出しにしたのは、イネスなら気づくと思ったからなのだろうか。それとも、気づかなくても構わないと思っていたからなのか。
役目を終えた女神テトは、最期は天へ昇り、星となって今も見守ってくれているのだという。
女神テトの生まれ変わりであるイネスにも同じ最期をたどれと、そういう意味の言葉なのだろう。
炙り出しにちょっとはしゃいでいたピケは、イネスの解説を聞いた時、即座に沈黙した。
キリルが取られまいとするようにイネスを強く抱きしめたのは、言うまでもない。
「その気持ちだけで十分ですわ。あなたの手は、困っている人のために使ってください」
イネスが遠回しに諦めるよう言っても、ガルニールの気持ちは変わらないようだ。
この話題は終わりとばかりに、「ところで」と彼は言った。
「ロスティ国での生活はいかがですか?」
「良くしてもらっているわ。わたくしなどにはもったいないくらいよ。この服も……キリル様が用意してくださったのです」
フリルがついた袖を見せながら、イネスは「すてきでしょう?」と微笑む。
彼女が身につけているものは、頭のてっぺんから足の先まですべて、キリルが用意したものである。
すっかりロスティ色に染まった彼女を見て、ガルニールは眉をひそめた。
だが、それも一瞬のことで、すぐさま聖職者らしい──胡散臭いとも言う──笑みを浮かべる。
「もったいないなど……あなた様はアルチュールの至宝なのです。そのように思う必要など、ございません。それよりも……私の手紙は届きましたか?」
「手紙……? ああ、あなたの来訪目的が書かれた──」
「それ以外には? 何かお気づきになられませんでしたか?」
イネスの言葉に被せるように、ガルニールは問いかけた。
矢継ぎ早に言葉を重ねるガルニールに、イネスがキョトンとする。
(さすが王女様、役者だなぁ)
堂々とした天然ぶりである。
被っている仮面にはほころび一つ見つけられない。
実際は、手紙の秘密もガルニールの目的もわかっているのに、彼女は実に鮮やかに
不思議そうに瞬きするイネスに、ガルニールは彼女が手紙の仕掛けに気づいていないと思ったのだろう。
責めるようにイネスをひと睨みした後、カップに視線を落とした。
「そうですか……お気づきに、なられなかった……ほう、なるほど……気づかなかった、ですか」
ガルニールの声は嫌みったらしい。
ボソボソと、それでいて粘つくような陰気な声は、まるで「それでご健在なのか」と言わんばかり。
「ごめんなさいね。何か大事なことが書いてあったのかしら?」
「大事なことといえばそうなのですが……いえ、まだ間に合います。そのために、私が来たのですから」
「まぁ、それなら良かったわ」
「ええ、間に合って良かった」
イネスを見るガルニールの目は、およそ聖職者とは思えない色をしていた。
対するイネスの目も、ガラス玉のように感情が抜け落ちていたのだけれど。
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