第25話 特別訓練
「休むな、ピケ・ネッケローブ。俺はまだ、休む許可を与えていないぞ」
王城の一角にある、王族のためだけに用意された訓練場から、総司令官の厳しい声が聞こえてくる。
たまたま廊下を歩いていた軍人はその声に背を正し、掃除をしていたメイドはビクリと体を竦ませて雑巾を取り落とした。
「限界を超えた先に、成長があるのだ」
ゼハーゼハーと荒い息を吐いて地べたに這いつくばるピケの目に、ピカピカに磨き抜かれた軍靴が映る。
ボロボロな自分とはまるで違う優雅な出立ちに、ピケはどうしようもなく腹が立った。
(ああ、これに唾を吐きかけてやりたい……!)
やられっぱなしの小悪党の最後の足掻きのようなことを考えながら、ピケは奥歯を噛み締める。
もっとも、口の中はカラカラで、そんなことできやしないのだけれど。
「どうした。もう限界か? 俺に一発入れるまでは帰さないからな」
見えないけれど、小馬鹿にした顔で皮肉な笑みを浮かべているに違いない。
やはりこいつは魔王だった、とピケは思った。
その評判について見直したことは一度だってないから、案の定と言うべきかもしれないが。
アドリアン・ゼヴィンは、ピケが聞いていたうわさ通りの、恐ろしい男だった。
実戦経験もない少女にとんでもなく過酷な訓練を強要してくる、無慈悲な心の持ち主である。
鍛え抜かれた鋼の肉体には、痛む心など存在しないのだろう。
その証拠に、這いつくばっているピケを助け起こそうともしない。
「くっそぉぉ……」
気分は、冒険物語の主人公だ。それも、絶体絶命の。
どうしてこうなったか、なんてピケが聞きたいくらいだ。
彼女だって、避けられるなら避けたかった。
きっかけは、王城に不法侵入者が現れたことだ。
ピケが一撃を入れた、あの件だろう。
すぐに警備体制は見直され、より一層厳しくなったものの、それだけでは不十分だということで、王城で勤務するすべての者に特別訓練が行われることになった。
といっても、特別訓練はロスティにおいて珍しいことではない。
この国では力がすべて。いついかなる時も強くなりたくて仕方がない彼らは、なにかにつけて訓練をしたがるものらしい。
掃除仲間のメイドは「酒好きの人が何かにつけて宴会するようなものよ」と笑っていたが、果たして訓練は娯楽になり得るのだろうか。
(なるわけ、ないっ!)
一応ピケもロスティ国民だが、その気持ちはちっともわからない。
オレーシャ地方出身だからといえばそれまでだが、それにしたってここの人たちは戦闘民族かと突っ込みたくなるくらい強さに執着しがちだ。
彼らを駆り立てるこの国の寒さとは、一体どれほどのものなのか。ピケはもちろん、イネスも耐えられるのか心配でならない。
当の本人は今朝も「雪はまだかしら」と窓越しに曇天を見上げ、アドリアンに連行されていくピケに「がんばって」と手を振っていたのだが。
現在最も守らねばならない王太子殿下の婚約者であるイネスの、その侍女であるピケは特別訓練の中でもさらに特別扱いされている。
王族しか使えない訓練場の使用に、総司令官様による指導。
誰もが羨ましくなる待遇だが、ピケは誰でもいいから交代してもらいたくてたまらなかった。
頼みの綱であるノージーも、特別訓練期間になってからは食事の時くらいしか会えていない。それも、ピケ以上にグッタリしているところを見ると、文句なんて言えるはずもなかった。
「ぐぬぬぬ……!」
腕を引き寄せ、なんとか立ち上がろうともがくけれど、上半身をわずかに持ち上げるのが精一杯。
この無慈悲な魔王による地獄のしごきは、一晩寝たくらいで回復するものではない。
(限界を超えた先にあるものなんて、どうだっていい。もうこれは訓練じゃない。虐待だ。いじめだ。拷問だぁぁぁぁ!)
うる、とピケの目に涙が浮かぶ。
腹が立って、腹が立って、腹が立って仕方がない。
つらさよりも制御不能の怒りの感情が、涙を誘発させる。
「ぎぃぃぃ」
「なんだ、その声は。もしや……泣いているのか?」
手負いの小動物が威嚇しているような声を上げるピケに、アドリアンが歩み寄る。
さすがに泣かせるのは本意ではなかったのか。それとも、面倒だと思っているのか。感情が読めない声は、どちらとも取れる。
(一発……一発入れさえすれば、この拷問から解放される……!)
なりふりなんて、構っていられない。
無防備に近づいてきた男に対し、ピケはとっさに砂を握り込み、投げつけた。
追い詰められたネズミは、猫を噛む。追い詰められたピケがアドリアンへ何をしたって、なんの不思議もないのだ。
「っ⁈」
感情のコントロールが利かなくなると、体のリミッターも吹っ飛ぶらしい。
もう立つこともできないと思っていたピケの足がギュンッと動き、バネのようになって飛び上がる。
砂を浴びて身を屈めるアドリアンの顔目がけて、ピケは容赦なく蹴りを入れた。
その途端、風切り音とともに彼の足が迫ってくる。鋭い蹴りを受けて、ピケは後ろへ吹っ飛んだ。
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