第23話 怒れる猫

「目をつけていた、だと……?」


 冷たい声が、静かに発せられる。まるで、氷の刃のようだ。

 耳に氷水を流し込まれたようなひやりとした錯覚を感じて、半ば放心状態になっていたピケの意識が急浮上する。


 気づくとピケは、ノージーの腕の中。

 やや前傾姿勢の状態で横抱きにされている格好は不安定になりそうなものだが、ピケの体はしっかりと支えられている。


 嗅ぎ慣れた匂いと自分より高い体温を感じて、ピケは無意識に息を吐いた。

 指先がピクンと動かせるようになってようやく、体の動かし方を思い出す。

 そしてピケは、確かめるようにゆっくりと顔を上げた。


 そこには、見たこともないくらい険しい顔をしたノージーがいた。

 いつも落ち着きついた深い緑色をしている目が、今は瞳孔が開いて黒々としている。

 眉間に皺が寄り、唇の隙間からは尖った牙が見え隠れしていた。


(ノージーが、怒っている)


 獣人の姿になってからここまで怒っている彼を見るのは初めてのことで、ピケは珍しいものを見るように目をまん丸にして見つめた。

 不意にパタパタと地面を何かがたたくような音がした気がして、ピケは視線を落とす。

 見てみると、ノージーのロングスカートの裾から長い尻尾の先がはみ出していた。

 尻尾の先は太く膨らみ、バタバタと左右に大きく振っている。


(それも、かなり怒っているみたい)


 この前傾姿勢も、おそらく怒っているせいだろう。

 猫は怒ると、背中を丸めるものだから。


 ピケは再び、顔を上げてノージーを見た。

 威嚇するように鋭い目をしていた顔が、ピケが見ていることに気づくと一瞬で甘くとろける。


「おあ……」


 思わずおかしな声を漏らすピケを、ノージーは奇妙なくらい凪いだ顔で覗き込んでくる。


「大丈夫ですか?」


「うん」


「今すぐこいつを片付けますので、いい子で待っていてくださいね」


 ピケが感じた違和感はこれだったらしい。

 ノージーは怒っている。ピケが思っている以上に。

 凪いだ顔は貼り付けただけに過ぎず、しかしピケの前ではかわいい猫でいようとしている様子がありありと伺えた。


 美人が怒ると尋常でない量の色気が付加されることを、ピケは初めて知った。

 こういう笑みを、蠱惑的と呼ぶのだろう。

 目が釘付けになって、離せない。言われるがままに、従ってしまいたくなる。


 ノージーの笑顔を見て、安心したからだろうか。

 こんな場面だというのに、眠い時のように頭がぼんやりとしてくる。


「ノージー……わたし……」


「大丈夫。僕がなんとかしますから」


「う、ん……」


 眠そうに瞬きを繰り返したあと、ピケはまぶたをおろした。

 おとなしく身を任せてくるピケに、ノージーは満足そうに唇の端を引き上げる。

 それから、目の前の不埒者を排除すべく、再び威嚇を始めた。


「ゼヴィン総司令官。ピケに目をつけていたとはどういうことですか?」


「そのままの意味だが?」


 ノージーの問いかけに、アドリアンは無感情な声で答えた。

 彼の答えに、ノージーは馬鹿にしたような態度でため息を吐く。


「総司令官ともあろう者が、率先して約束を破るとは……」


 それまで無表情を貫いていたアドリアンの眉間に皺が寄る。

 訝しげにノージーを見下ろしながら、彼は苛立ちが滲む声を出した。


「何を言っている?」


「ロスティでは、王族や総司令部が中心となって、魔獣や獣人の保護に力を入れているのでしょう? それは、獣人の恋の応援も含まれているそうですね」


「ああ、そうだ」


「僕が獣人だということはご存じなのでしょう?」


「ああ」


「僕の相手に手を出すということは、そういうことでしょう」


 僕の相手。

 その言葉に、アドリアンは目を瞬かせた。

 何度かパチパチとまばたきをした後、やっちまったというような顔をしてうなる。

 それから待てと言うように、ノージーに向かって手のひらを前に突き出した。


「あー……誤解だ。俺はそういう意味で目をつけていたわけではない」


「今更何を言っているのです。現にあなたは、ピケの足をねっとりと触っていたではありませんか!」


「汚らわしいっっ!」とノージーの手がピケの足をさする。

 今のピケが掃除用の格好でなくて本当に良かった。そうでなければ、もっと際どいことをされていたに違いない。

 総司令官を処理したらお風呂に直行しましょう。そうしましょう。

 そんなことを考えつつ侮蔑に満ちた視線を送り続けるノージーに、彼の思考など想像もできないアドリアンは、自らの所業を恥じ入るようにたじろいだ。


「それは、だな……そいつの足……細いからわかりづらいが、かなり鍛えているだろう。初めて見た時から思っていたのだ。俺が鍛錬すればもっと上を目指せるはずだと」


「は?」


 そんな言い訳が通用するとでも?

 まるで汚物を見るような目で睨むノージーの前で、アドリアンが気恥ずかしそうに頭を掻く。

「心などとうに捨てた!」と高笑いしそうな見た目の人物が、無防備に照れている姿についうっかり気を削がれそうになって、ノージーはますます不信感を募らせた。


「だからずっと、どう訓練に誘ったものかと悩んでいたのだが……先日、暗殺者に一撃見舞ったやつがいると報告が上がってきて、きっとこいつ……ピケ・ネッケローブに違いないと思ったら居ても立っても居られなくなってな」


「なんです、それは」


「そのままの意味だ。いかがわしい意味などかけらもない。俺は彼女を鍛えたい。それだけだ」


 アドリアンの態度にも声にも、うそは見受けられなかった。

 それでも、ピケに触れたことは許し難い蛮行である。

 一体どんな理由があったら、年頃の女性のスカートの中に手を突っ込むというのだろう。

 ここは是非とも納得がいく答えをもらいたいものだ、とノージーは息巻いた。


「では、足を撫でていたのは……?」


「どこをどれくらい鍛えれば向上するのか確かめていただけだ。訓練することでどのように彼女が強くなるのかを説明しようとしていたのだが、する前におまえが来た」


 アドリアンは大真面目に答えているようだった。

 じと、とノージーが探るような視線を送っても、困ったような顔をしている。もっとも、彼は無表情が常なので、めざといノージーだから気づいたようなものだけれど。

 そんなアドリアンの様子に、どうやら彼は本当にピケを鍛えたいだけらしい、とノージーはようやく納得したのだった。

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