第7話 王女の申し出

 川からされたピケは、ふかふかの布で体を拭かれ、今まで着たことも見たこともない上等な服を着せられ、馬車の中へ招き入れられた。


「大変な目に遭われましたね。もう大丈夫ですよ」


 目元が印象的な美女が、ピケに向かってニッコリと微笑みかけてくる。

 浅黒い肌に、金糸のような艶やかな髪。彫りの深い顔立ちで、鼻が高くて目が大きい。

 ピケよりもだいぶ年上のお姉さんに見えるが、同じ歳らしい。


 美女の名前は、イネス・アルチュール。

 ロスティ国オレーシャ地方よりさらに南方にあるアルチュール国の第四王女であり、父である国王が特にかわいがっている娘である。

 国王の溺愛ぶりは他国へも伝わるほどで、彼女は【アルチュールの至宝】と呼ばれていた。戦時中は負傷兵を看護していたことから、一部では【アルチュールの天使】とも呼ばれているのだとか。


 アルチュール国はオレーシャ同様ロスティに敗戦しているが、オレーシャと違い、ロスティに組み込まれていない。

 国土の代わりに要求されたのは、イネス・アルチュールだった。


 うわさによれば、ロスティ国の第一王子、キリル・ロスティの一目惚れらしい。

 このたびキリルたっての望みにより、イネスは彼と政略結婚することになっている──という話を、着替えの間にノージーから聞かされたばかりだ。


 馬車の中は、嗅ぎ慣れない香水の匂いが漂っていた。シナモンとバニラと、他にも甘いような苦いような、それでいて香ばしいような不思議な香りが混じり合っている。


「どうぞ、お掛けになって。あなたはゆっくり休まなくてはいけないわ」


「はぁ……いえ、はい……?」


 勧められるままに馬車の座席へ腰を下ろす。

 ピケは失礼にならないようにこっそり、馬車の中を見回した。

 黒塗りの馬車の中は、外観に反して驚くほどかわいらしい。壁には草花の絵が、天井には虹の絵が描かれていて、ピンクのクッションにはフリルがたくさんついている。


「お茶はいかが? 冷え切った体には香辛料たっぷりのチャイが一番よ」


 言うが早いか、イネスはお茶の用意を始めた。

 王女だというのに、やけに手際が良い。

 たおやかな指がテキパキと動くのを、ピケは静かに見守った。


「戦争で家を失い、その上、持ち物を全て盗賊に奪われてしまうなんて……さぞ怖かったでしょう? これも何かのご縁。あなたさえ良ければ、わたくしの侍女としてともにロスティへ行きませんか?」


「……ひゃい?」


「かわいそうに。声が震えているわ。待っていてね、今すぐチャイを淹れてあげるから」


 アルチュールのお姫様は、見た目こそ妖艶な美女だが少々天然が入っているらしい。

 思わぬ設定に驚いたピケが上げた素っ頓狂な声も、身ぐるみ剥がされて川へ落とされた哀れな女がブルブル震えているからだと思っている。


「えっと……」


 どうしよう。

 ピケはぎこちない笑みを浮かべながら、どう断ろうかと頭を巡らせた。

 彼女の中で、王女の申し出はお断りの一択しかない。


 そもそもノージーは、ピケを幸せにするためになにをしようとしているのだろう。

 王女の話を聞くに、彼はピケを王女の侍女に推薦したらしいが、大きなお世話としか言いようがない。


 ピケは、貧しい粉挽き屋の娘だ。王女の侍女なんていう大役を務められる身分じゃないし、どう足掻いたって就けるはずがない職業である。

 それだけでなく、ピケは侍女の仕事についてもよくわかっていなかった。


(侍女っていうくらいだから、王女のそばで侍るのが仕事なわけでしょう? ノージーみたいな綺麗な容姿ならわかるとしても、私みたいな子は引き立て役にすらならないんじゃないかしら)


 むしろ、存在が認知されるかも怪しい。

 存在感を究極まで消して、いざという時の盾になる──ならわからなくもないが。


(いやいやいや。それのどこが幸せだっていうの? 綺麗な格好して、すてきなお城でお姫様にお仕えできるのは夢みたいな話だけれど、私は王女様のために身を挺するほど彼女のことを大事だと思えていないもの。彼女のために死ぬなんて、絶対無理!)


 やっぱり、断るしかない。

 そう思ったピケが勇気を出して「あの」と口を開いたのと同時に、馬車の扉が開いてノージーが乗り込んできた。

 着替えてきたのか、ピケが持っている中で一番粗末なヒヤシンス色の服から、黒のワンピースに変わっている。

 イネスは乗り込んできたノージーを見て、両手を合わせてニッコリと微笑んだ。


「まぁ、よく似合っているわ」


「ありがとうございます。強盗から助けていただいただけでなく、服まで……」


「いいのよ。困った時はお互いさまだもの」


「それは、アルチュール国で信仰されている女神様の言葉ですね?」


「ええ、そうなのよ──」


 ピケの目の前で、王女とノージーがにこやかに話し始めた。

 すっかり断る機会を見失って、ピケはむっつりと黙り込む。


(なんなのよ、もう)


 見ず知らずの女を侍女として雇おうとしている王女も気になるが、それよりもノージーである。

 彼は、美人な王女を前にして、脂下がった顔を晒していた。


(デレデレしちゃって。やっぱり、私に恋をしたとかいうのは冗談だったんじゃないの?)


 ジロリと睨んでも、ノージーは王女を見たままだ。ピケのことなんて、どうでもよくなってしまったみたいである。

 なんだか仲間外れにされたような、存在を無視されているような気がしてきて、ピケは居心地悪そうに体を縮めた。


 体を丸めるピケに気づいた王女が、「あら」と上品に口元に手を当てる。

 くっきりとした眉がへにゃりと下がると、気の強そうな顔が困り顔になった。


「わたくしったら、すっかりノージーさんとの会話に夢中になってしまって。ごめんなさいね。えっと、あなたは……」


 ピケの名前を呼ぼうとして、王女が戸惑う。

 自己紹介もまだだったことに気がついて、王女は「わたくしったらうっかりさん」と苦笑いした。


「わたくし、いつもこうなのよ。今回もうっかり、国から侍女を連れてくるのを忘れてしまって……ロスティ側で用意してくれるらしいけれど、まだ会ったこともない方だから不安で……だから、あなたやノージーさんが侍女になってくれるととても助かるの」


 突っ込みどころ満載の話に、ノージーが苦笑いを浮かべる。

 表情を取り繕えないピケは、驚きと呆れが混じり合い、口をぽかんと開けたまま王女を呆然ぼうぜんと見返すことしかできなかった。


(いやいやいや、なんで私たちなら大丈夫ってなるのさ⁈)


 アルチュールの女神の言葉しんこうは、そこまでするのが通常なのだろうか。

 とても信じられないと訝しむピケの前で、王女はニコニコと悪気なく微笑んでいた。


「ああ、そうそう、まずは自己紹介が先ね。ご存じかもしれないけれど……わたくしの名前は、イネス・アルチュール。アルチュール王の四番目の娘ですわ。まもなく、ロスティ国へ嫁ぐ身ですけれど」


「えっと……私は、ピケ・ネッケローブと申します」


「ピケさん! なんてかわいらしい名前なのかしら。かわいらしいあなたにぴったり!」


「か、かわいい……?」


「ええ、かわいらしいわ。昔持っていたお人形さんみたい」


 ソバカスがお星様みたいで、ステキ!

 そう言って鼻の頭をチョンとつつかれて、ピケは目を剥いた。


「な、なんっ⁉︎」


「そうそう! 抱き起こすとまぶたが上がるお人形さんでね、まさに今のあなたみたいな感じなのよ」


(それはさぞ、不細工なお人形さんだったのでしょうね⁉︎)


「うふふ。わたくし、あなたのことをすっかり気に入ってしまいましたわ。もう手放せそうにありません。できれば、穏便に侍女になってくれると良いのですけれど……」


(はぁぁぁぁ⁈ 急に怖いこと言うのやめてくれません⁉︎)


 ギョッとした顔のまま王女を見つめるピケの頭を、ノージーがよしよしと撫でる。

 今更ご機嫌取りかと睨み付けるが、彼は「意味がわからないな〜」とわざとらしいまでに清々しい笑みを浮かべていた。


(ぐぬぅぅぅぅ!)


 もはや、逃げ道なんてない。

 もともと道なんてなかったのだと自身へ言い聞かせながら、ピケは「謹んでお仕えさせていただきます」と答えるほかなかった。

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