第6話 猫の企て

 ピケは泣き出したい気分だった。


(私、そんなに臭かった……?)


 川の水に浸りながら、スンと鼻を鳴らす。

 自分ではよくわからないが、臭いのかもしれない。いや、臭いと思ったから、ノージーはピケを川へ突っ込んだのだ。そうでなければ、こんなことになっているはずがない。


 ジャブジャブと川の水で乱暴に体を洗う。

 やっぱり、石けんで洗っていなかったのがいけなかったのだろうか。

 だけど、家出セットに石けんまで入れられなかったのだ。買うお金も、もちろんない。

 ピケは惨めな気持ちで、川に潜った。


 家出して数日。魔の森の近くで見つけた空き家で、ピケとノージーは暮らし始めた。

 昼は魔の森で小型魔獣を狩り、夜は一枚の毛布を分け合って眠る。

 最初は目にも心臓にも痛いほどの美女とくっついて眠ることに抵抗があったピケだが、彼の立派なモフモフの尻尾を抱いて眠る気持ちよさに負けた。


 くっついて眠るようになって気付いたのだが、ノージーは見た目こそ美女だが、性別は男であるらしい。

 魔猫の時はオスだったので当たり前といえばそうなのだが、ピケはノージーが男であると知って、少し落胆した。


 ピケは、ちょっと変わっている。

 彼女はたぶん、女の人が好きなのだ。

 正確には、男の人が嫌い、と言うべきだろうか。

 だから消去法で、女の人が好きなのだと思っている。


 ピケが男の人を苦手だと思うようになったのは、数年前。

 オレーシャ国がロスティ国と戦争していた頃、彼女が住む村を経由して戦地へ向かう兵たちは、みな恐ろしい顔をしていた。

 ピケの父はめったに怒ることがなく、穏やかな顔立ちをしていたから、余計にそう思ったのかもしれない。

 魔の森に生息する魔獣がかわいらしく思えるくらいの形相は、今でも忘れられない。


 ピケが男の人を嫌いだと思うようになったのは、彼女の義兄たちが原因だ。

 はじめはこき使うだけだったのに、最近は猫撫で声でピケを呼びつける。

 彼らはいつもピケに床掃除を命じ、這いつくばって床掃除をする彼女を、鳥肌が立つような気持ち悪い目で眺めた。

 夜中に、部屋をのぞかれていたこともある。入ろうとしてきた時は思わず、寝返りを打つふりをして扉を閉め、兄の鼻を挟んだこともあった。

 翌日、継母に告げ口されて、食事を抜かれたのは言うまでもない。


 そんなわけだから、ピケがノージーを愛せるはずがないのだ。

 ノージーにはひどく残酷なことではあるけれど、ピケは彼を人にしてあげることができない。

 たとえ見た目が美女であっても、彼が彼である限り、ピケが恋をすることはないのである。


 だからせめて、彼が言う消滅の時がくるまでは、彼を拾った者としての責任をまっとうしよう。

 そう思っているのだが、見た目はピケ好みの美女なので、つい忘れそうになる。

 しかもノージーは長年一緒に生活してきた家族だけあって、ピケのことをよくわかっていた。


 一緒にいると楽しくて、一緒に眠るとあったかくて、このままが永遠に続けば良いのにと思っている自分がいる。

 そして少しでもお互いが快適に過ごせるように、ピケは出来る限り身嗜みに気をつけていたのだが……。


 獣人であるノージーには、耐えがたい悪臭だったらしい。

 ついに今朝、ピケはノージーに川へ連れてこられ、こう言われてしまったのだ。


「さぁさぁ、今すぐ服を全部脱いで、川へ入ってください」


 驚いて声も出ないピケを置いて、ノージーは「魔獣が来ても大丈夫なようにちゃんと見張っているので安心してくださいね」と言ってどこかへ行ってしまった。

 その顔にはちっとも悪意なんて見当たらなくて、彼が善意からそう言っているのがわかる。

 だけど、年頃の女の子であるピケが傷つくには十分な理由だ。

 ド直球に好みな美女に「臭い、あっちへ行って」と言われたも同然なのだから。


「はぁぁ……」


 もう、ため息しか出ない。一体、いつまでここにいれば良いのだろう。

 ピケの鼻では臭いのかどうかもわからないし、だんだん体が冷えてきた。


「あー……さむっ」


 途方に暮れて空を見上げた、その時だった。


 ガラゴロと、森の中を馬車が通る音が聞こえてくる。

 馬車は、ピケがいる川の方へ向かってきているようだ。

 少し先に小さな石造りの橋が見えるから、おそらくそこを通るのだろう。


 服を置いてきた場所へ戻ろうとしたが、思っていたより馬車は速い。

 木々の向こうにチラチラと黒塗りの馬車が見え隠れしていることに気がついて、ピケは慌てた。


 彼女は水浴びの姿を見られないように長い髪を体に巻きつけると、急いで川へ沈み込んだ。

 鼻から上だけを水面から出して様子をうかがっていると、やがて馬車が橋のそばへ現れる。


 黒塗りの馬車は、金で装飾された異国風だった。

 窓はあるが布で目隠しされていて、中が見えないようになっている。

 御者が綺麗な服を着ていることから、おそらく乗っている人は身分が高い人なのだろうと想像がついた。


(お忍びってやつかしら)


 行くところなのか、それとも帰るところなのか。

 どっちでも良いが、早く行ってほしい。そうでないと、ピケは風邪をひいてしまいそうだ。

 鼻がムズムズしてきて、今にもくしゃみをしてしまいそう。

 素っ裸の格好を偉い人に見られたら、どんな罪に問われるかわかったものではない。ここはなんとしてでも見つかってはいけない、とピケは息を潜めた。


「キャァァァァ!」


 ビクビクしながらピケが必死になって気配を押し殺していると、突然悲鳴が聞こえた。


「な、なにごと⁉︎」


 橋を渡り切ったところで、馬車が停車する。

 御者席から降りた御者が、なにごとだと周囲を警戒しているのが見えた。


 素っ裸のままのピケはなにもできず、ただ見ていることしかできない。

 状況を把握しようと、悲鳴がした方──ちょうど馬車が止まっているあたりだ──を見ると、御者が女性を助け起こしていた。


 赤毛と黒毛が混じる珍しい色をした髪は間違いなくノージーで、ピケは首をかしげる。

 いつもは流しっぱなしにしている長い髪で猫耳をカムフラージュしていて、今はどう見ても人族の美女にしか見えない。

 ピケが見ていることに気づいているのだろう。ノージーは彼女にだけ見えるようにこっそり、親指を立てて見せた。


(なにをしようとしているの……?)


 ふと、ノージーの言葉を思い出す。


『僕に任せてくれませんか?』

『きっと、あなたを幸せにしてさしあげます』


 もしかして、これはノージーの作戦なのだろうか。

 いぶかしそうにしながら様子見するピケの耳に、ノージーの声が聞こえてきた。


「アルチュールの姫、イネス・アルチュール様の馬車とお見受けします。どうか、どうか私たちを助けてくださいませんか?」


 彼はいかにも動転している風を装って、大きな声で助けを求める。

 たぶん……いや絶対、ピケに聞かせたくてそうしているに違いなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る