第2話 形見の猫
「残念ですが……」
扉の隙間から聞こえてきた医師の宣告に、ピケ・ネッケローブはその場へ崩れ落ちてしまいそうだった。
擦り切れたワンピースの胸元をギュッと握り、震える息を少しずつ吐き出す。
「……っ、はぁ」
たった今、ピケの父が息を引き取った。
病気だった。
なんの病気か、ピケは知らない。母いわく「子どもは知らなくていいんだよ」だそうだ。
ピケはもう、十六歳だ。子どもじゃない。
子どもじゃないから、ピケは知っている。このあと、どうなるのか。
『ピケ、よくお聞き。もうすぐわたしは死ぬだろう。優しいおまえはわたしの死を悲しんでくれるだろうが、お母さんは違う。粉挽き小屋とロバを手に入れたら、おまえのことは役立たずだと言って追い出すに違いない。だから、その日がきても大丈夫なように準備しておきなさい』
病床の父が、母がいない時を見計らって、二人きりのときに告げてきた言葉だ。
聞いたとき、ピケは驚くどころか納得してしまった。貧しい家ではよくある話だからだ。
ピケと母に血のつながりはない。母は継母で、二人の兄たちは母の連れ子だった。
つまり、父がいなくなればピケなんて邪魔者でしかない。
たとえ魔の森で獣を狩って家計に貢献したとしても、継母がピケを認めることは絶対にない。だって、女だから。「男であれば幾分かマシだったものを」と愚痴っている彼女を何度も見てきた。
「しっかりしなくちゃダメよ、ピケ」
自分自身へ言い聞かせるように、ピケはつぶやいた。
医師が帰ったら、継母はピケのところへやってきてこう言うだろう。「さっさと出てお行き、この役立たず!」と。
せめて父の葬儀を見届けてから去りたいものだが、おそらく葬儀は執り行わない。このご時世、葬儀をする家の方が少ないからだ。
扉の向こうで医師が帰り支度を始めた気配を感じて、ピケは慌てて自分の部屋へ戻った。
自分の部屋といっても、階段下の小さなスペースだ。ベッド一つ分しかない小さな部屋に入った途端、ピケはズルズルと床へ座り込んだ。
「お父さん……」
はらり、と目尻から涙がこぼれる。
だけど、ここで泣き崩れている場合ではない。
ピケは一刻も早く、この家を出て行かなければならないのだ。もし見つかったら、「この家のものは何一つ持っていくな」と、身一つで追い出される可能性がある。
幼いピケを魔の森に置いて帰るような継母だ。それくらいのことはやりかねない。
ピケはベッド下の床をズラすと、隠しておいた小さなトランクを取り出した。
なかなかに年季の入ったそのトランクは、実母の形見らしい。
中身はすでに詰めてあって、あとはこれを持って逃げるだけ。
ピケは父が元気だった頃に誕生日プレゼントとしてもらったストールを肩にかけ、トランクを持って自室の扉を開いた。
誰かに見られやしないかと警戒しながら右を見て、左を見たところで、頭上からギシギシと階段を降りてくる音が聞こえてくる。
慌てて扉を閉めたピケは、そのまま耳を当てて様子をうかがった。
まるでモンスターがこの家を乗っ取ってしまったみたいな錯覚に襲われながら、ピケはドコドコと早鐘を打つ胸を押さえる。
やがて、医師と継母、それから二人の兄たちが話している声が聞こえてきた。
彼らは父が死んだというのに、明るい様子で世間話をしている。悲しむそぶりもみせない親子に、ピケは悔しそうに唇を噛んだ。
「主人には大した財産もなくって。困りますわ」
ホホホと笑っている声は、どことなく甘ったるい。おそらく、継母は次の夫に医師を狙っているのだ。いい歳して。
継母は、貧しい粉挽き職人の妻にしては美人だが、医師の妻になるには少々年齢が──それだけでなくいろいろと──合わない。「誰か注意してあげてよ」とピケは心の中で毒づいたが、その場に言えるような人物はいなかった。
「俺は粉挽き小屋しかもらえなかった」
「俺はロバだけだ」
二人の兄たちは、不満そうだ。
そんな兄たちに、医師が「いやいや」と言葉を返す。
「この時代、それだけ遺せただけでも上々でしょう。お父上に感謝しなければ」
粉挽き職人である父には、大した財産などない。
家と粉挽き小屋、ロバと猫。それだけだ。
家と粉挽き小屋は、一番目の兄のものに、粉を運んでいたロバは二番目の兄のものとなり、実質父の仕事は兄二人が引き継ぐことになる。
末っ子のピケは、猫しかもらえない。もっとも、この猫だってピケが拾ってきた子だから、もらうというのもおかしな話なのだけれど。
「そうですわよ。あなたたち、お父様に感謝なさい。ピケなんて、猫しかもらえないのよ? それを考えれば、あなたたちは恵まれています」
医師の言うことにもっともらしく答えながら、いやらしい微笑みを浮かべている継母の姿がありありと浮かぶ。ピケは「おえー」と言いたくなるのを我慢して、舌を出すだけに留めた。
「そうそう、うわさによれば、ロスティはこれからますます軍事に力を入れていくつもりなのだそうですよ。子どもたちはみな訓練学校へ入れられて、みっちり扱かれるらしい、と」
医師の言葉に、「げー」とか「えー」とか兄たちがうめいている。きっと、盛大に顔をしかめているのだろう。
彼らは運動することが大嫌いで、家の手伝いすらまともにしない。できることと言えば、ピケをこき使うことと、寝ることと食べること。それだけだ。
おかげさまで、食べ頃の七面鳥みたいな丸々とした体形をしている。
だが、彼らの大好物である魔兎のソテーは、今後しばらくお預けされることが決まっている。用意していたピケがいなくなるからだ。
(ナイフとフォークを持ってドンドン! ってテーブルをたたく兄さんたちを見なくて済むようになるのは、良かったわ)
やがて馬車がやってきて、医師が乗り込んだ。
全員の視線が家から外れたその瞬間を待っていたピケは、急いで裏戸から外へ出る。
音を立てないように集中して扉を閉めて、慎重にドアノブから手を外した。
まるで泥棒みたいだ。ここはピケの家なのに。
「さようなら」
優しかった父が眠る二階へ頭を下げて、ピケは身を翻した。
そんな彼女の出立を予期していたように、足元で「にゃぁん」と声がする。
赤と黒の毛が混じり合った、モフモフでフカフカな毛皮をまとう大型の猫が、ピケの足に頭を擦り付けて甘えていた。
「私、行くわ。あなたはどうする?」
猫は「待ちくたびれた」とでも言うようにググッと背伸びをして、丸みを帯びた耳とフワッフワの尻尾の先をシビビッと震わせた。
「んにゃっ」
小さくつぶやかれた声は、まるで「さぁ、行くよ」と言っているようだ。
行き先を知っているかのように数歩先へ行って振り返った猫を見て、ピケは覚悟を決める。
彼女は導かれるように、猫の後を追い始めた。
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