第17話
◆
僕はガラス越しに見える光景に、ただただ見入っていた。
五十代くらいに見える女性の周りに子どもたちが大勢いる。保育園を連想させる光景だった。
子どもたちは皆楽しそうで、はしゃいで、笑い声を上げているのが見ていて分かる。でも僕には何の音も聞こえない。ただ映像だけが、無声映画のように眼前で展開される。
じっと女性を見る。
僕と似ているところがあるだろうか。
いや、そんなものは探すだけ無駄か。
急に全員が一方を向いたので、僕もそちらを見た。昔ながらの振り子時計があり、針は三時を指している。もちろん、午後三時、十五時だ。
子どもたちが名残惜しそうに女性に手を振って部屋を出て行く。ドアは僕が向いている正面の壁にあった。一人、また一人と手を振り、子どもたちは部屋から姿を消し、女性一人になる。
唐突に女性の雰囲気が変わるのが感じ取れた。
横顔からは表情が消え、瞳は淀んだような、濁ったような色になる。まっすぐに立ち尽くしたままで動かなくなる。
ドアが開いた。
入ってきたのは忘れ物をした子ども、ではなく、白い服を着た看護師風の女性だった。その女性が、まるで電源が落ちたロボットのように立ち尽くす女性に歩み寄り、何か、声をかける。反応はない。
それでも手助けをされて、女性も部屋を出て行った。
「残酷なもんだな」
僕はいつの間にか後ろに立っていた声の主を振り返った。
壁に寄り掛かる長身の男性は、僕の命の恩人だった。
だからと言って、その発言を受け入れられるわけでもない。
「残酷ですね、あなたたちは」
自分でも驚くほど、僕の声は冷え、凍えていた。男性は眉一つ動かさず、頷いてみせた。
「俺たちは残酷だよ。それが売りと言ってもいい。ただ、お前の両親の間にあったものには、俺たちは関与していない」
何も言い返せず、僕は背後に向き直った。
先ほどまで賑やかだった部屋はもう無人だった。
シャッターを切るような音がして、透明だった一面の壁が真っ暗になり、鏡のようになる。
そこには苦しげな顔の僕と、平然とした男性が映っていた。
僕の両親の間にあったことを、僕はここに保護されて、初めて聞いた。
もちろん、全てを彼らの組織が知っているわけではなく、断片的な情報だった。
父は人間に寛容な立場の吸血鬼で、自分が吸血鬼だと明かさないまま、母と関係を持った。その母はダンピールであり、本来的には吸血鬼を狩る立場でありながら、何故か父と関係を持った。
結果、その体に流れる血のほとんどが吸血鬼である僕が生まれた。
母はそのことを知った時、発狂したという。のちに調査が入り、どうやら母は人間と吸血鬼の暗闘の世界と距離を置くため、吸血鬼の血が薄い子どもを産み、育てるつもりだったとわかってきた。
それが、より血の濃い存在を、自ら生み出してしまった。
生まれた僕のことを考えれば、心神喪失にまっすぐに陥る前にどこかで踏みとどまれたはずだ、というのは虚しい意見だ。人にはそれぞれ、思いがあり、考えがあり、限界もあるものだ。そしてそれは容易には測れず、あるいは自分自身のことでさえ把握できない。
母は死んだことにされ、密かに組織と呼ばれる対吸血鬼集団の保護下に置かれた。
父が組織に協力したのは、ある側面では母のためであり、そして僕のためだった。
吸血鬼について詳細に分析し、その血、その身に宿るV2について解き明かせば、いつかは僕は普通の人間になり、その時には母ももはや何にも……、そう、気に病むことはない。
気に病む、というのは僕が当てはめた表現だけど、母の心で荒れ狂ったものは、病む、などという表現では足りないだろう。
めちゃくちゃに引き裂かれ、砕かれた精神。
父はそれを元通りに修復できると、思っていたようだ。
「これからどうするか、決めたか」
男性は話題を変えた。
もう父の身に起きたこと、母の身に起きたこと、その破滅と絶望をどれだけ眺めていても仕方ない、何もできないのだ。
彼の言葉は、そう言いたいような口調だった。
時間が逆に進むことはない。
壊れたものが正確に元通りになることもない。
変えられない過去が残り、消すことのできない傷跡が残るのだ。
僕はゆっくりと男性を振り返り、その目を見た。
落ち着いた、知的で、しかしどこか鋭い眼差し。
猟師であり、学者。
人であり、獣。
「僕にできることがありますか?」
そう問いかけると、かすかに目元に笑みが見えた気がした。好戦的で、挑戦的な眼差し。
僕を試す目だ。
「十六歳から訓練っていうのは、だいぶ出遅れてはいるな。しかし素質は高いと言っていい」
「あなたみたいになれますか?」
「俺みたいになるのはやめておけ。あまり楽しい生活でもない」
男性がポケットを探り、タバコの箱を取り出す。
「だが、他に選択肢もあるまいよ」
タバコをくわえながら、今度はライターを探す動作をしながら男性がもごもごと言葉にした。
「お前はあまりにも吸血鬼の血が濃い。本来ならこの世に生まれない血筋で、研究者たちは喉から手が出るほどお前が欲しいし、体を徹底的にいじりたいはずだ。それを防ぐには、実験動物ではなく、危険だが知性のある肉食獣である、ということを奴らに示さないとならない」
知性のある肉食獣。
僕がそうなれるかは疑問でも、選択の余地がないのは、目の前の男性が言う通りだった。
タバコに火がつけられ、どこか甘い煙の香りが鼻先を掠める。
「一応、俺の方でも働きかけてはある。そろそろ来るはずだ」
そういったまさに瞬間、自動ドアが開き、背広を着た女性が入ってきた。ハイヒールの踵が規則的に床で音を立てるが、ピタリと止まる。
女性は真っ白い髪をしていて、長身だった。一八〇くらいありそうだ。細身だけどひ弱な感じは少しもない。どことなく弓を連想させる。しなやかな印象が強い。
その女性が目を細めると、壁を指差した。僕と男性が視線を向けた先には「禁煙」のパネルがあった。男性が舌打ちをして、ポケットから取り出した携帯灰皿にまだ殆ど吸っていないタバコを押し込む。
「じゃ、後は任せる」
「ちょっと、あなたも同席しなさいよ」
男性はひらひらと手を振ると、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
残された女性がため息を吐く。
「ああいういい加減な男は見習わないほうがいいわよ」
そう僕に言葉が向けられた時には、しかし女性の目の光には咎めるような色はない。
どこか、飼い犬について話しているような感じでもあるけど……。
咳払いして、女性が僕の前に進み出て、手元のタブレットを操作する。
「久梨原篤郎さん、あなたには保証されている自由と、制限されている行動があります。私たちの管理下を離れることは自由に含まれますが、管理を外れた場合に如何なる事態が出来するか、あなたの身が安全であるか、という点には何の保証もありません」
僕は黙って話を聞いていた。
「私たちは今、あなたに契約を持ちかけるつもりです。組織のために働くか、という契約です。詳細はそれぞれに設定されますが、まずは私たちの一員となるか、その意思を問います」
その言葉で考えたのは、何故か、先ほど出て行った男性のことだった。
あの人も過去に、今の僕のように契約を結んだのだろうか。
「久梨原篤郎さん?」
ぼうっとしていたようだ。
呼吸を整え、僕は頷いた。女性が微笑む。柔らかく、慈愛に満ちた微笑みだった。
母が先ほど、子どもたちに向けていたのと限りなく近い微笑み。
「こちらにとりあえず、署名を」
タブレットが差し出される。
僕は躊躇なく、そこに指を走らせた。
添え書きを何も読まなかったからだろう、女性がちょっと目を丸くしたが、何も質問も確認もしなかった。
僕はあの男性と、そして目の前の女性を信頼することに決めた。
命を懸けて守ってくれたのだ。
信頼できないわけがない。
タブレットを受け取った女性がこちらに手を差し出す。
「ようこそ、我々の世界へ」
僕はその手を握り返し、やっと気づいた。
「あの、先ほどの男性は、何という名前なんですか?」
女性が今度は小さく笑い、それが止まらなくなった。
「僕、何か、おかしなことを訊きましたか?」
いえね、と女性がまだ笑っている。
「あいつ、なかなか自分の名前を名乗ろうとしないの。変な奴なのよ」
そう言ってから女性は、彼の名前を教えてくれた。
彼の名前は……。
(了)
ノワール あるいは血筋にまつわる一夜の鉄風雷火 和泉茉樹 @idumimaki
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