第9話

     ◆


 箱をツーシーターのトランクに押し込んだところで、篤郎の方からトイレに行きたいと言われた。

 許可したが、一応、建物の玄関までは付いていった。

 このままトイレにこもられても困るな、と思っていたが、思ったより早く戻ってきた。

 しかしその顔を見れば、トイレに行った理由も知れようというものだ。用を足したのではなく、嘔吐したのだ。最初に顔を見た時とは別人の表情に変わっている。頬は少し削げて影が落ち、目元には深いクマができていた。

 俺はそれに気づいていないふりをして、「行くぞ」と先に立って歩き出した。

 出したが、それに気づいてしまった。

「走れ!」

 声を上げて、俺は拳銃を引き抜く。

 夜の闇の中で赤い光が無数に灯り、まるで風が草をなびかせるような音を立てて、それが現れる。

 狼だった。しかし数が多い。

 吸血鬼の眷属で間違いない。日本にこんなに野生の狼がいてたまるか。

 篤郎が一瞬の停滞の後、駈け出す。ガレージまではほんの十メートル。たったそれだけの距離なのに、篤郎の動きでは狼に先んじることはできない。

 俺も移動しながら引き金を引くが、狼どもは的が小さい上に機敏だった。二頭は倒し、塵に変えてやったが、あと何匹だ? 六、いや、八か。

 くそったれめ!

 意識を集中、ダンピールの能力である青い炎を練り上げ、解き放つ。

 ごうっと青い炎が虚空から現れた次には吹き抜け、狼たちを押し返す。突風に翻弄されるように五匹が巻き込まれ、空中できりもみした後、バラバラに解体され、消えていく。

 残り三匹。拳銃を連射。二匹は倒す。

 残り一匹は間に合わない!

 篤郎はガレージにたどり着いたが、狼の最後の一匹はすでにそこへ飛びかかっていくところ。

 俺の拳銃は弾切れ。ダンピールの能力の間合いでも意志の統一と集中、発動に必要な時間はない。

 声を上げたのは俺だったか、それとも篤郎だったか。

 鮮烈な光、鮮やかと言っていい青い光が煌めいた。

 一瞬だ。

 ほんの一瞬で、狼は消えてしまった

 青い光も消える。

 残されたのは愕然とする俺と、篤郎だけだった。

 どうやら危険は去ったらしい。こっそりため息をついて、俺は弾倉を入れ替えながらガレージへ足早に近づいた。

「早く乗り込め」

 そう俺が声をかけるまで、篤郎は突っ立っていた。俺に遅れて助手席に乗り込み、ドアを閉める少年の動きはどこか乱暴で、しかし意図したものではなく力加減がわからないような雰囲気だった。

 俺はスマートキーで車のエンジンを始動させる。組織もそろそろ電気自動車に切り替えるべきだろうが、内燃機関の方が信用できる気はする。そう、気がするだけだ。

 車のヘッドライトを点灯。マニュアル車というのも安心はするが、面倒ではある。

 とにかく出発だ。

 スポーツカーは未舗装の傾斜のある道を下る間、どこか居心地悪そうに左右に揺れたが、舗装されている道路に出れば逆に快調になった。ハンドルに細かく反応するし、アクセルを踏んでも気持ち良く加速する。

「さっきのは、僕ですか?」

 しばらく走ったところで、篤郎の方から訊ねてきた。

「最後の狼を倒したのは、お前の力だよ」

 事実をありのまま、簡潔に伝えてやったが、それが隣の席に座る少年にとってプラスに働くか、マイナスに働くか、それは俺には見当がつかなかった。同じ状況に置かれれば、十人が十人なりの受け止め方をし、考え、結論を出す。

 自分に戦う力があると喜んだり、そこまではいかなくてもまんざらではない、と思う奴がいる。その一方で自分は普通の人間ではないと落ち込んだり、行きすぎて絶望し、パニックに陥る奴もいる。

 俺は自分が初めて自分自身の力について、理解したときのことをほんの少し思い出した。

 組織の訓練施設で、相手は組織に協力する吸血鬼の生み出したコウモリの群れだった。十匹などではない、百匹はいたんじゃないか。まっ黒い塊が俺を飲み込んだのだ。

 何も見えなくなった。そして圧倒的な音で何も聞こえなかった。

 怖かった。そして、あれはきっと憎悪だったんだろうが、言葉にならない衝動が、頭の中の何かを切り替えた。

 青い光が俺を包んだのを覚えている。

 その次には、周囲には燃えていくコウモリの群れが見え、そうして俺は自分の素質を知ったのだ。

 あの時、俺を指導していた人間の教官はなんて声をかけてきただろう。その横に控えていた、あの吸血鬼はどんな顔をしていたか。

 人間を守る戦士の誕生を、あの人間と吸血鬼は、どんな風に眺めていたのか。

 篤郎はずっと黙っている。俺はギアを時折、変えながら、視線はまっすぐに前を見ていた。

 時速七十キロで、山に沿って曲がりくねる道を進む。見通しは悪いが、対向車は来ないようだ。すでに日付が変わっている。こんな深夜に、このど田舎の山道を走るのは走り屋くらいだ。今時、走り屋ももう流行らないようだ。

 俺が何も言わないでいるのが良い方へ作用したのか、篤郎がうつ向けていた顔をこちらへ向けた。

「僕はこれからどうしたらいいですか?」

 変な質問をする奴だな。やけに冷静で、節度がある。

 育ちが良いってところだな。

「どうしたらいいか、を俺に聞くな。どうしたいと思っているか、自分に訊ねてみることだな」

 また少年が俯く。俺と少年は案外、相性がいいようで、本当は悪いのかもしれない。そんな風に思った時、前方で明かりが見えた。対向車だ。カーブへ速度を落とさずに侵入し、その上できっちり車線を維持する。むしろ対向車の方が危険なコーナリングをしてきて、巻き込まれそうになった。

 反射的なハンドリングで避けたが、向こうは慌ててブレーキを踏んだと見える、バックミラーの中に赤いテールランプが鮮明に見えた。

「僕も」

 車の挙動を整える俺に、事故に巻き込まれたことなど気にしていないように、篤郎が言う。

「組織っていうのに入ることは、できるんですか?」

「素質はあるから、しかるべきものが取り次げば、入れるだろうな」

「取り次いでもらえますか?」

 もうちょっと考えるべきだろう。

 そう答えようとして、習慣でバックミラーを見て、それに気づいた。

「あの」

 篤郎が何か言おうとしたが、「黙ってろ」と俺は遮った。

 バックミラーの中に赤い光が見える。さっきの対向車はもう見えないはずだ。

 そしてその赤い光は二つではなく、四つに増え、八つに増えた。

 追っ手だ。

 いやにしつこいじゃないか。

 俺はギアを変え、アクセルを踏む。エンジンが吹き上がり、咆哮を上げる。

 シートが頼もしく俺を支える。

「ちょっと荒れるぞ」

 そう助手席に声をかけてから、俺はハザードランプを点灯するボタンを押し、そのまま長押しした。

 するとエアコンにまつわるスイッチパネルがぐるりと回転し、全く別の無数のスイッチが現れる。

 うちの組織の技術部は、変な映画の見過ぎだろう。

 バックミラーの中では、赤い光が着実に近づいてきていた。



(続く)

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