第011話 魔法のある世界

 あれから数日間、私はベッドの上で、寝て起きての生活を続けた。その数日の間は、あの中年メイドのマーヤさんが、事あるごとに私の部屋に訪れては、何かと声をかけてくれる。恐らく気を使ってくれているのであろう。


 現代の一般人の生活経験しか記憶が存在しない私にとっては、尽くしてくれる年上のメイドにどの様に対応すれば良いのか分からず、一言、『ありがとう』と答えて頭を下げていた。そして、眠って起きる度に、玲子の姿で目覚めないかと思っていたが、そんな事は起こる事は無かった。


 そして、目覚めてレイチェルのままの私は、この数日間の身の回りの情報を精査して現状がどの様なものであるのかを考察した。


 電気もない、クーラーもない、時折、窓の外では馬車が走っている。その状況から、ここは中世ヨーロッパぐらいの社会で、私が貴族令嬢である事は間違いない様だ。ただ、普通、家の中でフルネームや称号付きで名前を呼ぶことなどないので、どれぐらいの貴族か、どんな名字であるのか家名すら分からない状況だ。


 今のままではこれ以上の情報は手に入らない。そんな訳で、私から何かのアクションを起こさない事には、手詰まりでどうしようもない状態であった。そこで、私は様子を伺いに来たマーヤさんに声を掛ける事にした。


「あ、あの… マーヤさん」


「なんでございましょう、レイチェルお嬢様?」


 珍しく私から声を掛けたことで、マーヤさんはにこやかに答える。


「わ、私、以前の記憶を失っているようで…」


 私の言葉で、にこやかだったマーヤさんの顔がはっと変わる。


「レイチェルお嬢様… 記憶を失っているとはどの程度ですか?」


「… 皆の顔と名前も分からない程です…」


 私の顔を覗き込むマーヤさんに答えると、『まぁ!』と声をあげ、悲壮な顔をしながらあたふたし始める。


「レ、レイチェルお嬢様! しばらくお待ちください!」


 マーヤさんは大きく一礼すると慌てた様子で部屋の外へ駆け出して行った。


 マーヤさんの慌てぶりには気の毒に思うが、このまま何もわからないまま過ごす訳にも行かず、実際に玲子の記憶しかないので、記憶を失っていると告げるしかない。そうしない事には何も始まらなかった。


 しかし、マーヤさんに記憶喪失と告げてから、普段であれば30分おきに様子を伺いに来るのに、今回は恐らく2・3時間経ったであろうか、待てど暮らせどマーヤさんは現れない。私は記憶喪失を告白したことは失敗だったかな?と考えた時、部屋の扉がノックされる。


 すると、マーヤさんを先頭に、お館様と呼ばれる私の父であろう人物と、白いローブ姿の女性が入ってくる。そして、お館様はベッドのすぐそばまでやってくる。


「レイチェル、記憶喪失と言うのは本当か?」


「は、はい…」


お館様は確認するだけの言葉であったが、強い口調であったので、私は少し怖気る。


「私の名前は分かるか?」


 大変失礼な話ではあるが、『お館様』としか呼ばれていないので、この家で一番偉く、父親であっても、その名前は分からなかった。なので、私は俯いて答えた。


「…分かりません…」


 私の言葉にお館様はぐっと目を閉じる。そして、一呼吸してから、何か諦めたように目を開き、後ろのローブ姿の女性に向き直る。


「やってくれるか…」


「分かりました、ステーブ卿」


 私は貴族の名の呼び方を知らないので、この『ステーブ』という呼び方が、お館様の名を表しているのか、それとも家名を表しているのか分からなかったが、ローブの女性がお館様にそう答えると、私の前に進み出る。


 先程の、父親の名前すら分からない状況に伏目がちな私に、ローブの女性は、安心させようと微笑みかけてくる。


「安心してください。すぐに良くなりますよ」


 そう言って、私に手をかざし、ブツブツと何か唱え始め、それと共に、かざした手が青白く輝き始める。


『えっ!?』


 私はその状況に、目を見開いて驚く。手に持つ何かが光っているのではなく、手自体が光っている!?


 驚く私にローブの女性は手を降ろす。


「どうだ?」


お館様がローブの女性に声をかける。


「今しばらくお待ちください」


 ローブの女性はそう答えると、懐から孫悟空の緊箍児の様な者を取り出し、私の頭に被せ、再び手をかざして何かを唱え始める。すると、頭の緊箍児から、空中に浮かぶ魔法陣が浮かび上がる。


 こんな記述は玲子のいた現代社会でもなかった。もうこれは映画やゲームの世界でしかなかった魔法にしか見えない!!


 私はその衝撃の事実に困惑する。もしかしたら、中世ヨーロッパにタイムリープしたのではないかと考えていたが、私の知る歴史の中では、目視できるほどの魔法技術があった事はない。


 では、どういうことなのか? もしかしたら… 私の頭にある一つの言葉が思いあがる


『異世界転生』


 そんな事が本当にあるのか!? 本当にこれは夢ではないのか!?


 私がそんな事を考えているうちに女性は手を取り下げ、頭の上で輝いていた魔法陣が消える。


「治ったのか?」


お館様が女性に問い質す。しかし、女性は残念そうな表情をつくり、顔を横に振る。


「神聖魔法による治療でも、精神魔法による解析でもダメでした… 全く糸口が見えません…」


「そうか…戻らんのか…」


 お館様は目を閉じて、少し天を仰ぎ見る。そして、ふぅと息を吐いて、顔を降ろし、少し柔らかな表情を作る。


「わざわざ、来てもらって済まなかったな、礼金は約束通り支払うので安心してくれ」


「申し訳ございません…」


お館様は女性に礼を述べ、次にマーヤさんに向き直る。


「マーヤ、レイチェルに身の回りの事や、この家の事を教えてやってくれ。頼めるか?」


「お安い御用でございます。お館様」


マーヤさんは自信ありげな表情で答える。そして、お館様は最後に私に向き直る。


「レイチェル、記憶を失って苦しい思いをしているかと思うが、また学べばよい。頑張るのだぞ」


「はい、頑張ります…」


私は、お館様の柔らかな優しい笑顔に少し許された気持ちがした。




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