第010話 胡蝶の夢

「あぁ! レイチェルお嬢様!!」


 中年のメイドは、見開いた両目から涙を流しながら私に駆け寄ってくる。そしてふくよかな身体で私を抱きしめる。


「良かった! 本当によろしゅうございました! あのままお目覚めにならないのではないかと、心配致しました」


 中年メイドは私を抱きしめながら、声をあげる。


 私は知らない人物、しかも中年のメイドに抱き付かれるという状況に困惑しながら、更にメイドの言葉にも困惑していた。確か、このメイドは私に向かって『レイチェルお嬢様』と言った。それは恐らくは私の事を指していると思われるが、私の名前は玲子、二宮玲子であるはずだ。なのに何故、私は『レイチェル』とよばれているのであろう… しかも、この名前どこかで見たか聞いた事があるような名前だ。


「レイチェルお嬢様が、庭の木の下で、倒れておられて、しかも首吊りをなさろうとされいたのを見た時は、このマーヤは生きた心地が致しませんでした…」


 そう言って中年メイドは私を更に強く抱きしめる。


 メイドの言葉からすると、やはり、私は首を吊ろうとしていたようだ。あの妖精と言っていた事と同じだ。しかし、どういう事なのであろう? 事故で負傷したはずの私が無意識に首を吊ろうとするのであろうか? そんな事はないはず。私自身に自殺する意思は全くない。それよりも、この場所やこの身体、そしてこの名前を考えると、まるで別人の人生をなぞっている様な…


「レイチェルお嬢様! 何かお辛い事があるのなら、このマーヤに仰ってください! このマーヤはレイチェルお嬢様のお母上オードリー様より、レイチェルお嬢様を託されたのです。このマーヤに出来る事であれば、なんでもして差し上げます!」


 メイドはそう言葉を続ける。メイドの言葉からすると母の名前も異なる。私の母の名は、オードリーの様な外国人の名前ではなく、普通に葵という日本人の名前だ。という事は、やはり、私は今、別人の人生を辿っている!? まさか…


 いや、どうなのであろうか、どこかで『胡蝶の夢』と言う話を聞いたことがある。夢の中で蝶の夢を見る話であるが、それは人が夢の中で蝶の夢を見ているのか? 将又、蝶が夢の中で人の夢を見ているのか、そんな話だったと思う。


 玲子と言う私は、今、レイチェルと言う人物の夢を見ているのか、それとも、レイチェルと言う私が、今まで玲子と言う人物の夢を見ていたのか、どちらなのであろう…


「そうだわ!」


 メイドはそう声を上げると、私の両肩をつかんだまま身体を離す。


「お館様にご報告しないと! レイチェルお嬢様、今、お館様をお呼びいたしますので、ベッドで横になってお待ちください」


メイドは私をベッドに追いやると、一礼して足早に部屋を退出していき、『お館様!』と声をあげながら遠のいていく音が聞こえた。


 一人になった部屋の中で私は再び考える。私は今、夢を見ているのか、それとも今まで夢を見ていたのか。しかし、五感が受けている生々しい感覚を思うと、今、私が夢を見ているとは思えない。


 では、玲子として生きていた人生が夢であったのか? 確かに辛い事、悲しいことがあったが、玲子として短いながらも歩んだ人生で、母にしろあーちゃんにしろ掛け買いの無い人物との思いでがある。その人々の思い出が夢だったなんて思いたくない…


 しかし、玲子として生きた人生が夢ではないかと考えると、玲子として生きた光景が、なんだか遠のいて霞んでいくような気がする。


 本当の自分自身や思い出が、どうなっているのか分からない私は、ただ拳を握りしめ、涙を堪える事しかできなかったが、そうしていると、部屋の外がどんどん騒がしくなってくる。


「レイチェルお嬢様が目覚められたんですよ!」


 先程のメイドの声が響き、ノックもなしで部屋の扉が開かれる。そして、先程のメイドが慌てながら私の所へ駆け寄り、その後ろに一人の男性が姿を表す。


「さぁ! お館様! レイチェルお嬢様ですよ」


 メイドがそう言って、男性に私への通り道を譲る。ふくよかなメイドが道を譲った事で、男性の全身を確認することが出来る。


 私とは異なるブロンズの髪に青い瞳。口元にはちょび髭。その身分を表すような高級感のある衣装に、そこそこ高い背丈。年齢は三十代半ばであろうか。


 その男性は私の姿を見止めると、一瞬、表情が和らぐが、すぐに無表情に戻る。そして、少し躊躇う様な足取りで、ベッドの側までやってくる。


「ささっ お館様、こちらの椅子をお使いください」


「あぁ…」


 男性は、メイドが差し出してきた椅子に腰を降ろし、私の姿を凝視する。そして、両手を組んで少し状態と頭を前に倒したかと思うと、頭だけを再び私に向ける。そこで何か言いたげな顔をするが、再び頭を項垂れ、組み手を解き、状態を元に戻す。

 

 男性の様子は私にどう言葉を掛けるべきか、色々と考え込んでいる様だが、良い言葉が見つからないといった仕草だ。


 私の方でも、私が意識を取り戻したという事で、メイドが私の父親と思われる人物を連れて来たのであろうが、私にとって初対面の男性でどの様な人物でどの様な父親であるのか分からないので、どの様な対応をすればよいのか分からず困惑してしまう。


 男性は姿勢を伸ばし、両手を膝の上に乗せ、意を決したように顔を上げ、私を直視する。


「レイチェル、これからは何かあれば、私なりマーヤになんでも相談するがよい… それと意識が戻って何よりだ」


 男性はこれが精一杯の言葉という感じで私に声を掛ける。


 声を掛けられた私はどう返したらよいのか分からず、男性から顔を逸らせる。そして、暫く思い悩み口を開く。


「はい… 分かりました」


 私にとってもそう答えるのが精一杯であった。


 男性は私の反応に、小さく息を吐くと椅子から立ち上がる。


「とりあえずは、何も気にすることなく、ゆっくりと休みなさい。それが一番良い…」


 男性はそう言うと、少し寂し気な顔をして、踵を返す。私も会釈で答えると、男性とメイドは二人して部屋を後にした。


 私は再びベッドに身体を沈め、再び眠ることにした。



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