第四章

「偽りと真実と」

「お、お師匠……」

「はぁ!?師匠って、あいつがベルゼルなのか?!」

 驚愕する俺の問いに、エリカは視線を釘付けにしたまま深く頷く。

 ベルゼル・レイマン。

 今日までの二年間、俺たちが探し続けた男。

 これまで消息すらつかめなかった男が、エリカの絶体絶命のピンチにまるで示し合わせたかのような絶妙なタイミングで現れた。

 これを幸運だの、運命だのと思える奴はよほど頭が乙女チックに違いない。

 アネットとは違う、控えめながら美しい模様の刺繍が入った薄墨色のローブを揺らしながらこちらへと歩み寄ってくるベルゼル。その所作一つ一つに気品が溢れ、少なくともアネットなどよりはよほど魔術師然とした風格がある。

 が、何かに気付いたのか視線の先――俺たちの後方を見遣るとにわかに足を速めた。

 振り返ると、周囲には遠巻きに様子をうかがう野次馬たちで人垣ができあがっていた。そしてその人垣を掻き分けこちらに近付いてくる集団を見るに至り、思わず舌打ちをする。

 青を基調とした制服を纏ったそいつらは港湾警察だ。

 街中であれほど派手な大立ち回りを演じたのだ。少なからず死傷者も出ているし、家屋に火まで放ったのだから、むしろ駆けつけるのが遅かったくらいだ。無論、それらは全てアネットによるものだが、指名手配犯のエリカの言い分など聞いてはくれないだろう。

「ヤバそうだな。ここは一度宿に戻って――」

「積もる話は後ほど。今はまず、ここを離れましょう」

 いつの間に間近に迫っていたベルゼルがそう言って、軽々とエリカを抱き上げていた。

 突然のことに軽い悲鳴を上げるエリカにベルゼルは「失礼」とこれまた紳士的な口調で短く返す。

「お、おい!エリカは俺が……」

「君も負傷しているのでしょう?エリカさんは私に任せて、付いてきてください」

 反射的に出た俺の言葉はベルゼルに冷静に制されてしまう。ここで押し問答をしても意味はないので、憮然としながらも黙ってベルゼルに付いていくことにした。

 ベルゼルは矍鑠かくしゃくとした、というにはあまりに速い速度であっという間にその場を後にしていく。

 いくらエリカが軽いといっても、人一人を抱えているとは思えない健脚。こいつも強化魔法を使っているのは間違いない。

 その背中を、終始睨み続けた。道中、エリカの視線はベルゼルの横顔以外に向けられることはなかった。


 向かった先は、リゾート区にある屋敷の前。

 俺が通信器の魔力を追ってたどり着き、そうとは知らずにベルゼルと出会っていた場所だ。

「ここは今、私が身を寄せている、とある御仁の邸宅です。警察もうかつには手が出せないので安心してください」

 そう言ってベルゼルは警備員に目配せだけして門をくぐる。恭しく礼をした警備員は、態度こそ客人である俺たちにも同じく礼をするが、視線は訝しむようにこちらに向けられていた。

 外観どおりの広い屋敷の中を案内され、通された部屋は今日まで泊まっていた安宿の優に四、五倍はある広さだった。

 無論広さだけではなく、ベッドからソファー、家具や調度品にいたるまでいちいち豪奢を極め、いかにも価値の高そうな絵画などがさり気なく飾られている。

 ベルゼルはソファーに座るよう促すと、自分は備え付けのキッチンで紅茶を淹れ始める。

 言われるがままソファーに腰掛けたエリカは包まれるような座り心地に、深く長いため息を吐く。まるでこれまでの緊張を一気に吐き出しているかのようだ。

 ついさっきまで死闘を演じてきたことを考えれば、無理もない。

 エリカに続いて俺がソファーに腰掛けたタイミングでベルゼルはテーブルにカップを並べると、ポットから紅茶を注ぐ。芳醇で気品ある香りが鼻孔をくすぐるが、口をつける気にはなれない。

 テーブルを挟んで相対するように正面に腰掛けたベルゼルを目を細めて見据える。

 顔に引く無数の皺と髪を余すところなく染める霜が高齢であることを示す。しかし、それはあくまで刻んできた年月の多さを示すだけで、衰えは感じられない。

 細長い面も貧弱というよりは引き締まった印象を与える。今はローブを脱いでラフなシャツ姿だが、そのシルエットもまた同様である。

 その身に湛えた魔力からは静謐とした湖水を想起させる。若いエリカとは全く違う、老練の研ぎ澄まされた魔力を感じ取れた。

 だがその一方で、その湖面に言い知れぬ不気味な物怪もののけが蠢いているように思えてならない。初めて会った時の、原因不明の衝撃がそう思わせているのだろうか。

 まぁいい。すぐに化けの皮を剥がしてやるさ。

「さぁ、話してもらおうか。今更どうしてノコノコ顔を出したのか――」

「まぁそう慌てないで。時間はたっぷりあります。今はそれよりも……」

 早速食って掛かる俺の気勢を逸らすようにそう言うと、ベルゼルはおもむろに立ち上がる。

 そしてエリカの側に跪いたかと思うとエリカの肩――アネットにやられた火傷の箇所に掌をかざす。

「まずは傷を癒すのが先決です。さぁ、体の力を抜いてリラックスしてください」

 エリカは言われるがまま従うと、ベルゼルは外から見える患部を次々と癒していく。

 その手並みは見事、の一言に尽きると言えた。

 この世界ではポピュラーな魔法である治癒魔法はその実、高度な魔術に類する。人体構造に熟知した上で、繊細で緻密な魔力操作が要求される。僅かでも術式を誤れば体組織のバランスが崩れてしまい、治癒どころか身体そのものが崩壊してしまうこともありえる。

 それ故に治癒魔法は専門性が高く、扱う魔法使いは治癒魔法に特化している者がほとんどだ。

 知る限り、ベルゼルは治癒魔法専門ではないはずだ。にもかかわらず、次々と治癒魔法を施し、外見からは怪我をした箇所は見えなくなる。

 醜く爛れて酷い有様だった肩の火傷も皮膚まで完全に完治し、今は焦げた衣服の間から白い素肌を覗かせているだけだった。本職の治癒術師も唸るほど鮮やかな腕前と言える。

 王国屈指の高位魔術師という触れ込みは伊達じゃないというわけだ。

「大きな怪我はこれくらいで大丈夫でしょう。男の私には見せたくない箇所もあるでしょうから、後ほど女性の治癒術師を呼びましょう」

「い、いえ!あとは自分でなんとかしますので。ありがとうございました!」

 そんな俺とは対照的に、何がそんなに嬉しいのかニコニコと答えるエリカ。

「傷はなんとかできますが、心身の疲労までは癒せません。何せ神聖魔法を始め、あれだけ多くの魔法を使ったのです。あまり無理をしては――」

「待て。どうしてお前がそれを知っているんだ?まるで初めから見ていたような口ぶりだな」

 とっさに俺は口を挟む。

「だいたいなんであの場所にお前がいたんだ?偶然見かけて、偶然エリカがピンチだったなんてつまらない言い訳はするなよ」

「確かに、その疑問はもっともです。ヴァル君、でいいかな?」

「ヴァルダヌだ。気安く呼ぶな」

 別にエリカがこう呼ぶのを容認したわけではないが、この男に呼ばれるのは虫唾が走る。

「失礼、ヴァルダヌ君。君の言う通り、偶然ではありません。私は身の安全を図るため、この街にいくつもの"目"を置いていました。だからエリカさんの危機を察知することができました」

「その安全ってのは例えば、自分の名誉を傷つけた弟子が目の前に現れないようにとかか?」

「ちょ、ちょっとヴァル君!」

 エリカが俺の腕を引っ張るが、無視してベルゼルを睨む。

 一方のベルゼルは嫌な顔一つせず、ただすまなそうな表情で答える。

「私が姿を隠していたのは事実です。ですが、それにはやむにやまれぬ理由があります」

「だからそれを聞かせろっつってんだよ。もうボケがきてんのか?あ?」

「もちろん、包み隠さす全て話すつもりです。ですが、込み入った話になりますし、けして楽しい話でもありません。できればその前に少しでも休息を取りませんか?君もエリカさんも長旅と戦闘で疲れ――」

 俺は目の前のテーブルを拳で叩く。大理石の重たいテーブルが衝撃に震え、倒れたティーカップから美しい紅色がぶちまけられる。

「馬鹿にしてんのか?くだらない時間稼ぎしてんじゃねぇぞ。殺されたくなかったら今すぐ――」

「ヴァル君!」

 エリカの真剣な声が響き、俺は渋々口をつぐむ。

「ごめんなさいお師匠。でも私も今、聞きたいです。真実を。あの時、一体何があったのかを」

 胸の前で震える拳を掌で包み、懇願するように言うエリカ。

 するとベルゼルは深く腰掛け、深くため息をつく。そして一言、

「……わかりました」

 顎に指を這わせて僅かの間思考を巡らせた後、重々しく口を開く。

「私はこの二年、真相究明だけに没頭していました。ヌエス魔法研究所も辞め、信頼できる旧知の御仁の協力でここに身を隠しながら。全てはエリカさんの無罪を証明するために」

「お師匠……私のためにそこまで」

「当然です。エリカさんの無実を知るのは世界で私しかいません。師として、他に優先すべきことなどありません。これは私の責務なのです」

「誰もテメェの責務の話なんか聞いてねェよ。いいからさっさと続きを話せ」

 感動に浸っていたエリカは険しい表情で横から睨んでくるが、知ったことじゃない。

「失敬」と軽く咳払いし、話の軌道を戻す。

「結論から言えば、私たちは何者かに利用されたのです」

「利用だァ?」と露骨に顔をしかめる。

「元々あの実験で用いられたのは、神界の魔法体系に属する魔法でした。しかしその魔法術式に、外部から干渉された痕跡を見つけました」

 訝しむ俺とは対象的に、エリカは驚愕に目を見開いていた。

「術式に干渉なんて、そんなことが本当に可能なんですか?」

「理屈の上では不可能ではありません。突き詰めれば魔法とは魔力の流れと循環。流れを堰き止めれば発動は止められるし、その流れを組み込んで新たな流れにすることも可能です」

「無論、容易なことではありませんが」とベルゼルが付け加える。すなわち、「相手はそれができるほどの手合である」と言外に示していた。

 エリカは思案顔で口を抑える仕草をする。魔法に特化した脳をフル回転させ、それが不可能ではないと結論付けたようだ。

「悪魔召喚のような違法の魔法は国や魔術機関の監視も厳しい。おいそれとはできない。だから私達の魔法実験を利用したということでしょうか」

「然り。悪魔召喚も分類としては神界系魔法に属しますので、利用するには都合がいい。仮に失敗しても痛手はないし、成功すれば悪魔召喚の手段を手に入れた上、その罪は我々になすりつけられる」

 ベルゼルの言葉にいちいち頷くエリカに、俺は軽く舌打ちをする。このアホは疑ってかかるという発想はないのか。

「その何者かとやらが術式を乗っ取って悪魔召喚がしたかったて言うなら、なんで俺は今もこうしていられるんだ?悪魔をひと目見て満足したってか?」

「欲したのは悪魔そのものではなく、その召喚方法なのでしょう。エリカさんは理解しているとは思いますが、確立された魔法を行使することはそれほど難しいことではありません。しかし、一から術式を構築し、望んだ効果を発揮することは非常に難しい。地図も方角もわからず、目的の場所を目指すに等しい。だから我々魔術師は日々、試行錯誤を繰り返して魔法研究に勤しんでいるのです」

 ベルゼルは想定していたかのように冷静に返す。代わりに粗を指摘してやっているというのに、当のエリカは追従するように深く何度も頷く始末だ。

「しかし一体、誰がそんな事を?」

「そればかりはわかりません。ですが、禁じられた魔法を欲する者は数多くいます。敵対する周辺国や過激派テロリスト、歴史の遺恨で王国人を憎む数多の異民族、それにム・ドラル人……いち魔術師の私には考えも及ばないことです」

 そして「確かなことは、一つ」と人差し指を立てて続ける。

「私達の所属していたヌエス魔法研究所は王国附属機関。魔法実験はいずれも機密扱いで、事前に詳細を知り得る人間は限られていました。それが漏洩しただけならまだしも、術式に介入までされた。つまり、誰も信用できないということです。だから私も姿を隠す必要に迫られました。それだけ狡猾な輩なら、余計な詮索をする者を放ってはおかないでしょうからね」

 しばしの沈黙。部屋には重い空気が横たわる。エリカは衝撃のあまり声も出ないといった様子だ。

「私はエリカさんに経験と実績を積んでほしかった。だから実験に際し、魔術機関への申請はエリカさんの名義にしました。しかしそのせいで、国も機関もエリカさんを罪人と決めつけた。この事を悔やまなかった日は一日もありません」

 顔を俯け、組んだ手を額に当てながら悲嘆に暮れるベルゼル。

 いかにも罪悪感に打ちひしがれています、といった仕草が鼻につく。

「足早に説明しましたが、これが二年前に纏わる事の真相と今日までの経緯です」

 言い終えたベルゼルは紅茶に口をつける。どうやら話はこれで全てのようだ。

 横を見ればエリカは沈痛そうな面持ちで必死に真実を飲み込もうとしている。

 言葉の全てを鵜呑みにし、疑う様子は微塵もない。

 なんともおめでたいやつだ。

「言いたい事はそれだけか?」

 相棒の不穏な気配に「ヴァル君?」と怪訝そうに声をかけるエリカ。

「どんな言い訳をするのかと黙って聞いてたが、幼稚な作り話だな。そんな戯言でコイツは騙せても、俺を騙せると思うなよ」

「信じられないのも無理はありません。ですがこれは事実です」

「事実云々以前に、テメェを信用できねぇって言ってンだよ、俺は」

 大きく身を乗り出し、ベルゼルを正面から睨めつける。

「お前は知っているはずだ。俺の召喚について、何もかも。お前はまだ大事なことを話しちゃいない」

「……?それはどういうことでしょう。詳しく説明してくれますか?」

 心底疑問といった表情でベルゼル。

 あくまでしらを切るつもりか。

 俺が、をエリカの前で語ることはないと見透かしているのか。

 それとも本当に知らないのか、表情からは読めない。演技だとすればかなりの役者だが、今はどうでもいい。

「仮にお前の言うことが本当なら、まずお前のやることは自ら名乗り出て、こいつの無罪を訴えることだろうが。違うか?」

「それを私がしなかったとでも?私は毎日捜査局へ何度も再調査を嘆願しましたし、裁判所への訴えを申請しました。それでも、結果は変わらなかった。証拠がなければ誰も耳を貸さず、動いてもくれないと知りました。神界ではどうだか知りませんが、我々人間社会において個人とは無力なのです」

「自己憐憫に浸ってお涙頂戴ってか?大の男が女々しいことだ」

「それを笑うなら、笑ってくれて結構。ですが、私はエリカさんの無罪を認めさせるために行動し、手を尽くしました。それがエリカさんを守り、救うことにつながると信じて」

「言うに事欠いて、守るだと?笑わせるな。今日の今日まで引きこもってたやつに何ができる?」

「まるで自分なら守るとでも言いたげな口ぶりですね」

 と、ベルゼルの目がわずかに細められる。俺を見上げる眼差しに、僅かだが鋭い剣幕が込められた。

「聞けば、あなたが追手の王国捜査官を瀕死の重体にしたとか。そのことが、エリカさんの罪に上乗せされ、結果、より立場を悪くさせた。その事に少しでも考えは及ばなかったのですか?」

「あの時あの状況でンなことわかるかよ。それにあの時はサードシフトで――」

「なら、エリカさんを一人にしたせいで賞金稼ぎバウンティハンターに襲われたのも予測できませんでしたか?」

「結果的には間に合っただろうが。テメェには関係ない話だ」

「ですがあの時、私が駆けつけていなければ、エリカさんはどうなっていましたか?あの賞金稼ぎバウンティハンターのアネットに焼き殺されていたのでは?」

「ぐっ……」と、反論の言葉に詰まる。

 あの時はシフトがファーストまで落ちていた。

 だから仕方なかった、などと言うほど恥知らずではない。

「私達人間の都合で呼び出されて苛立つ気持ちはわかります。その責の一端は間違いなく私にもあるでしょう。しかし、どうかわかってほしい。私は敵ではありません」

 そう言うと険しい表情を解きほぐし、穏やかな、全幅の信頼を込めた笑みを皺顔の上に作った。

「むしろ私は君に礼を言いたいのです。君がエリカさんを守ってくれたからこそ、今日まで安心して証拠集めに専念できたのですから」

 そう言って感謝の念を示す掌が目の前に差し伸べられる。

 その手を、俺は強かに弾いて払い除けた。

 抑えていた感情の糸が切れたのが自分でもわかった。

「ふざけるな!こいつがどんな気持ちでこの二年間を過ごしてきたか、お前は知ってるか?!こんな小娘が、身の覚えのない罪で後ろ指差されて、人目を忍ぶような生活を二年も続けてきたんだぞ?!貴様のせいで!」

「ヴァル君!落ち着いて!師匠は悪くないわ!」

 俺の腕を引っ張りエリカは必死に静止するが、もはや沸騰した怒りを止めることなどできない。

 対してベルゼルは一切反論をしない。全て言うとおりだと言いたげに悲痛な表情で耳を傾けていた。そのわざとらしい態度が俺の怒りに油を注ぎ、語調を一層荒げさせた。

「日の当たらない、雨風もしのげないような場所で、追手に怯えながら眠るのだって日常茶飯事。賞金目当ての一般人に騙されたり、住人から石を投げつけられて街を追い出されたのも一度や二度じゃなかった。敵意と暴力の矛先を向けられ、こいつが平気だったと思うか?」

「気持ちはわかります。だからこそ私は一刻も早く――」

「わかる?何がわかるって言うんだ?!こんな何一つ不自由ないところでぬくぬくとしていたテメェに!」

 もはやこいつの一挙手一投足どころか、着ているローブの白さにすら腹が立つ。苛立ちがとめどなく込み上げ、言葉となって噴出する。

「"安心して証拠集めに専念"だと?テメェが真っ先にやるべきだったのは、エリカの保護だろうが!それをしなかった時点で、本当はこいつの事なんか気にもしちゃいねぇのは明らかだ。いや、その間にエリカが逮捕されるかくたばればいいとすら思ってたんだろう?」

「それだけは明確に否定します。断じてそんな事はありません」

「はっ。どうだかな。ご立派な肩書に経歴に傷を付けたくなかったんじゃないのか?必至になって雪ぎたかったのは弟子の冤罪じゃなくて、名声についた泥なんだろ?お師匠様は見下げたゲス野郎――」

 ぱしん!

 響く乾いた音と伝わる痛みが理解できず、言葉を切る。頬から伝わる痛み。それは痛みと言えないほど小さい。

 俺の頬を打ったのは、エリカだった。

 大よそ生まれてこの方、人に手など上げたことなどないだろうこの女がだ。

 事実、叩いたエリカの掌の方が赤くなっている。

あるじとして命じます。黙りなさい、

 明確な怒りと拒絶の意思の言葉が。咎めるような強い眼差しが。俺を射殺さんばかりに向けられていた。

 今までどんな敵にも見せなかった怒りの表情。それが今、俺に向けられている。

 ――訳がわからなかった。

 なぜ俺の方が責められているのかも。

 今、自分が感じている感情も。

 言いたいことが次々と溢れ、喉から出そうになるが、

「……愛しのお師匠サマに出会えたら、はもう用済みってか?」

 口から出たのは、そんなちんけな言葉だったことに自己嫌悪すら覚える。

「そんな事は言ってません。私は――」

「そりゃそうか。お前からしたら、元凶の悪魔だ。本来なら即刻縁を切りたいわな」

 言いたいことはそんなことではないが、感情に任せて言葉が口を衝いて出る。

「俺は忠実な盟約者だからな。邪魔な悪魔は、お望み通り消えてやるよ」

「ヴァル君。待って。話を――」

 呼び止める声を無視し、俺は扉を蹴破って部屋を後にした。


 *


 わかっていた。

 彼があんなことを言ったのも、全ては自分のためだとだということを。

 いつもそうだ。

 お金もなく、食べるものに困った時、どこからか食べ物を調達してきてくれた。

 たぶん、あれは盗んだものだろう。

 けれど、出処を追及しても嘘を言って出処は明かさなかった。罪悪感を与えないために。

 指名手配犯だとばれ、街中の住民から追い立てられた時、悲嘆に暮れる自分のそばをずっと離れずにいてくれた。涙が止まるまで言葉を投げかけ、慰めてくれた。

 口は悪いけど、いつも自分の為に行動してくれる。

 それでも、気付けば手が出ていた。

 人を叩いたことなど、一度もなかったのに。

 お師匠を侮蔑し、傷付けるようなことを言う彼に、ついカッとなってしまった。

 自分までもが侮辱されているように思えたから。

 二年も連れ添った相棒を叩いた。拒絶した。非難した。

 その表情を見るに至り、自分のしたことの愚かさに気付いたが、時すでに遅し。

 彼の残した言葉が棘となって刺さり、チクリと胸を痛めた。

「大丈夫ですか、エリカさん?」

 名を呼ばれ、はっと我に返って顔を上げる。あれだけ罵倒されたのに笑顔を崩さず、優しげに問いかけてくる師の顔があった。

「私もまだまだ未熟ですね。つい売り言葉に買い言葉で……彼には悪いことを言ってしまいました」

 エリカだけでなく、飛び出して行ったヴァルダヌさえ気遣っている。

 お師匠は間違ったことは何も言っていないし、非もないのに頭まで下げた。手を差し伸べ、和解しようとした。

 そうだ。この人はこんなにも慈悲深い人なんだ。私はこんな人だから今まで慕い続けてきた。

 なのに彼は師匠を糾弾した。叱責した。罵倒した。

 相棒と言えども、いや、相棒だからこそ許せなかった。

「追いかけなくていいんですか?今ならまだ追いつけますよ?」

「いえ。いいんです。こんな喧嘩、いつものことですから。しばらく外で頭を冷してきたらいいんです」

 腕を組み、胸を張って気丈にそう言う。

 胸の痛みは、いつまでも残り続けた。


 *


 飛び出したものの、他に行く宛があるわけでもなく、結局気付けばそのままいつもの安宿に戻ってきていた。

 椅子にもたれ掛り、染みの多い天井を眺めながら安酒を呷る。

 しかし、どれだけ飲んでもわだかまった感情がくすぶり続けるのは酔えないから、だけではないのだろう。

 裏切られたのか、裏切ったのか。

 正直、自分でもよくわからない。

 もっとうまい言い方もあっただろうが。いや、間違ったことは言ってない。だが、エリカの気持ちを考えれば――

 堂々巡りを始める思考を強引に中断する。うじうじとそんな事を考える自分が、無性に惨めに思えたからだ。

 俺はこんな女々しく悩むようなやつだったか。

 召喚前の、神界にいた頃はこんなではなかったはずだ。

 気付けば毒されたものだ。そういえばあの時も――

 これまでの旅路を振り返りそうになり、やはり思考を止める。

 そんな思考のループを延々と繰り返し、気付けばいつの間にか日が落ちていた。窓に目を向けると宵闇を切り取った窓に、陰々滅々とした見るに堪えない顔がこちらを見つめていた。

 そんな時、唐突に部屋の扉が開かれて俺はギョッとなる。酔ってはいないが、周囲への警戒が疎かになる程度には物思いに耽ってしまっていたようだ。

 この部屋に用のあるやつなど限られている。まさか俺を追ってエリカが――

「失礼しまーす……って、わぁ?!ご、ごご、ごめんなさい。戻られてたんですね」

 入ってきたのがこの宿の看板娘だとわかり、安堵と落胆が半々のため息をつく。同時に、そんな感情を抱いた自分自身に苛立ちを覚える。

「なんだ。あんたかよ……何か用か?」

「はい。ベッドメイキングに来ました。あとお掃除やら備品の取替えも」

 言いながら驚いたことを悟られまいとする俺に、シーツやらタオルやらの積まれた籠を掲げてみせる。

「今は一人になりたいんだ。悪いが出て行――」

「あれ。そう言えばエリカさんはご一緒じゃないんですか?」

 何気ないその問いかけに一瞬言葉が詰まり、追い返す言葉が霧散してしまった。その隙に、看板娘の侵入を許してしまう。

「お戻りはいつ頃になりますかね?明日の朝食のご用意はどうしましょ」

「あいつは……もうここには戻らない」

 俺の沈痛な面持ちと声に看板娘は何かを察したのか、足を止めて俺に向き直った。

「喧嘩ですか?だめですよ、仲良くしなくちゃ」

 何も察しちゃいなかった。

「そんなんじゃねぇよ。用済みになったからポイ捨てされたんだ」

「またそういう冗談を。エリカさんが聞いたら怒りますよ」

「嘘じゃねぇし、もう二度と会うことはないから構うもんか」

「本当ですかぁ?さっきだって、入ってきたのエリカさんだと思ったんじゃないですか?」

「………………………………………………違ぇよ」

「まぁまぁ。長年連れ添った夫婦だって喧嘩はするんですから。あれ、そういえば、エリカさんとは付き合い長いんですか?」

「二年くらいだ。それが長いのかどうかはわからん」

「へぇ。あ、じゃあ出会ったきっかけってなんですか」

「さっきからうるせぇな!いいからさっさとやることやって出てけよ!」

 堪えきれず俺はつい声を荒げてしまう。

 それでも「えぇ~、いいじゃないですかぁ」としつこく粘る看板娘。

「多忙極まるお宿のお仕事。ろくに街に遊びにも行けず、唯一のささやかな楽しみがお客さんとのお話なのです。よよよ……」

「嘘つけ。客もろくにいないのに、忙しくもないだろ」

「だからこそなんです。父はあの通り無愛想でしょう?もう高齢ですし、私ががんばらなくちゃこの宿はすぐ潰れちゃいますよ」

 なるほどね。そりゃ道楽じゃないんだ。それなりに苦労してるのか。

「ね。だからいいでしょう?」

 看板娘は目を輝かせて懇願してくる。その姿はどこか、ウザ絡みしてくる誰かに似ていた。

「……仕事が終わったら、話の途中でも出てけよ?」

 面倒くさそうに頭を掻きながら問う俺に、「ありがとうございます!」と、心底嬉しそうにはしゃぐ看板娘。

 面倒だが適当に付き合ってさっさとご退室願おう。やれやれとため息を吐く。

「では、出会ったきっかけから。はりきって、どうぞ!」

「いや、はりきらねぇよ……出会いか」

 いきなり説明が難しい。まさか悪魔召喚で、などと言う訳にはいかない。

 ましてベルゼルの言う陰謀など、嘘でも本当でも口にしたくもない。

「偶然、じゃないな。エリカのやつはずっと否定したが、俺は何かしらの必然だったと思う」

 黙りこくるわけにもいかず、場繋ぎ的にそう口にする。

 漠然とした物言いに、看板娘は顎に手を当て思案顔をしたかと思うと、

「ふむ……つまり何か運命的なもので二人は出会った。お客さんはそう言いたいんですね?」

 そう取るか。明確な発言は伏せたとは言え、想像力豊かなこった。

「意外ですね。そういう事はエリカさんの方が言いそうですけど」

「ああ。俺もそう思うよ」もう訂正するのも面倒なので頷いておく。

「初めて出会った時……ああ、そうだ。あいつはトラブルの真っ只中だったんだ。アイツらしくて笑えるだろ?」

「まぁ。エリカさんは美人さんですからねぇ」

 どうやら、エリカが街のチンピラに絡まれてた、程度の想像をしているようだ。

 実際はいち早く悪魔召喚を察知した王国捜査官エージェントどもに逮捕され、今まさに連行されようとしていたのだが。

「つい反射的に暴れて、助けちまってな。それからは成り行きで一蓮托生だわな」

「へぇ。じゃあお客さんはエリカさんにとって恩人なんですね」

「いや」と、俺は首を横に振ってそれを明確に否定する。

「理由や経緯はどうあれ、救い出してくれたのはあいつの方だ」

「ありゃ。これまた以外な」

 ――神界にいた頃、俺はの影に怯えていた。

 神界にいる限り、どこにも安寧はなかった。

 しかし召喚によって世界を隔て、恐怖から開放されたのだ。

「なるほど。でもそれなら納得です。お客さんはその恩義でエリカさんと旅をはじめたんですね」

「ははっ。ンな馬鹿な。そんな忠実な犬じゃねぇよ、俺は」

「えぇぇ……それじゃなんでです?お仕事だからですか?」

「そりゃお前――」

 俺は言いかけて言葉に詰まる。

「……言われてみれば、どうしてだろうな」

 ガクッと、身を傾げて拍子抜けする看板娘。

 言われてみれば確かに、考えたことがなかった。

 強制的に呼び出し、召喚者には絶対服従――召喚とはそんな単純なものじゃない。

 どれほど完璧な召喚術式だとしても、意に反して強制的に召喚することは出来ない。

 高位の存在になれば理性も知性もある。召喚に応じるに足る理由や対価が必要となってくる。

 つまり、召喚とは一種の交渉でもあるのだ。

 天属などは召喚者の資質を要求してくるし、俺のように個人的な望みや目的を持つ者もいる。

 中には悪意や奸策を抱いて召喚に応じるやつもいる。とりわけ魔属はその傾向が強く、強力な存在になればこの世界を滅ぼしかねない。そういった危険性もあり、悪魔召喚は昔から禁忌とされてきたのだ。

 かく言う俺も、召喚に応じた後は契約など無視して、勝手気ままに自由を謳歌してやるつもりだった。

「お客さんは、エリカさんを守るために旅に同行していたんですよね?エリカさんからはそう聞きましたけど」

「ああ、確かにな。だが最初はそんなつもりはなかった。これっぽっちもな。むしろ、ていよく利用して、用が済んだら捨ててやるつもりだった」

「またそういう冗談を。笑えませんよ!」

 看板娘は信じていないようだったが、紛うことなき事実だ。

 召喚されたことで安寧を得られたことに、それが誰であれ一定の感謝の念はあった。

 だが、そのことと服従することは全く別の話だ。

 召喚者の死が盟約者の消滅というのはある種の安全装置でもあるが、そんなモンはどうとでもなる。殺さずに意のままに操るこなど造作もない。

 所詮相手は人間。どこかのタイミングでこちらが主導権を握ることはできた。

 だが、できなかった。

 何度となく追手に襲われ時も、正体がばれて通報された時も、その度エリカは「仕方ないよね」と困ったように笑った。だがそんな日の夜はいつも声を殺して泣いていた。

 それを黙って見ていることはできなかった。この世界で誰も頼ることができない、その寂しげな背中を見るとまるで――

「……なるほど。そういうことだったのか」

 一人納得して一笑する。

 ――俺は、世界に頼るべき者がいないその孤独な境遇に、神界での自分を重ねていたんだ。

「あいつを守るのは、あいつの境遇が昔の俺に似てたからだ――って、理由にならないか?」

 急に笑い出した俺に眉根を寄せて困惑していた看板娘にそう投げかける。すると、

「いえ。十分すぎるほど納得です。少なくとも、とても人間的だと思いますよ」

 と、得心がいったのか晴れやかな笑みでそう言ってのけた。

 よりにもよって、この俺が人間らしいだと?

 冗談じゃない!――と、昔なら思っただろう。

 今はそう悪くはない気分だ。

 その証拠に、俺は無意識に笑みを浮かべていた。

 どうやら俺は自分で思った以上に、毒されていたようだ。

 しかし、おかげで俺の中で気持ちに整理がついた。気付けば先ほどまで抱えていた苛立ちもわだかまりも消え去っていた。

 戯れの会話の間にも、看板娘は口は動かしながら仕事の手も休めていなかった。シーツ交換に掃除に、慣れた手付きで仕事をテキパキとこなすところはさすがだ。

 お喋りに夢中で手を緩めたりしないのは感心である。

 その仕事も一通り終わったようで、この他愛のないお喋りも終りが見えてきたようだ。

「そういえば、エリカさんは人を探していると言ってましたけど……もう戻らないということは、その人に会えたんですか」

「ああ。だから俺はもう不要なんだと」

 一番合いたい奴に会えたんだ。

 もうアイツは一人じゃない。この上ない、ハッピーエンドじゃないか。

 俺がいても、水を差すだけだ。

「お客さんはこれからどうするんですか。エリカさんはもう守らなくて大丈夫なんですか?」

「守る、ね」

 その言葉にベルゼルの批難の声を思い出し、思わず失笑してしまう。

 悔しいが確かにやつの言う通り、俺は肝心な時に無様を晒した。

 ここまでアイツを守れてこれたのは、相手が人間だったからに過ぎない。

 双子天使相手にはヤバいところだったし、アネットを人間と侮った挙げ句に、不意を突かれてしまった。

 あの時ベルゼルが現れなければ、言う通り、エリカはアネットに殺され――

「……待てよ」

 生じた違和感に俺は思考に急制動をかける。

『あの賞金稼ぎに――』

「なぜアイツはアネットの名を知っていた……?」

 エリカも俺も、アネットとは初見だった。名前を知っていたのは奴がエリカに名乗ったからに過ぎない。

 答えは簡単だ。

 ベルゼルとアネットは通じていたんだ。

「何やってんだ俺は。クソッ!」

 確信を得た俺は、いよいよ自分の迂闊さに悪態を吐く。

 そもそもにして、奴の言葉には不審な点が多々あった。

 何より、奴は、"大事なこと"を隠している。

 奴を疑うには、十分だ。

 あんなあからさまに怪しいやつの側に、エリカを一人にするなんてどうかしていた。

 もし奴になにか企みがあっても、今のエリカにそれを察せられるはずがない。

 エリカに拒絶されようと、俺はあの場に留まるべきだった。

 頭を軽く掻き、悪態を吐く。そして、話の途中だと言うのに勢いよく立ち上がり、慌しく部屋を出る。

「どうしたんですか?!」

 背中に看板娘の声がかかる。

「また出かけてくる。ベッドのメイク、頼んだぞ!」

 俺は振り向きながら返すと、返事も聞かずに宿を飛び出し、一目散に屋敷へとひた走った。

 ……どうやら俺は自分で思っているより忠実な盟約者のようだ。


 *


 食事中、エリカとベルゼルの会話が途切れることはなかった。話題はこの二年間の旅のことで持ちきりだった。

 召喚直後の逮捕から逃れ、今日に至るまでの道程。

 追っ手からの逃亡劇。

 目の当たりにした様々な風景。

 そして道中学び、修練し、習得した数々の魔法。思いついた新理論。

 その口調はまるで旅行の土産話でもしているかのようで、とても指名手配犯の逃亡中の話とは思えなかった。

 途中、何度もヴァルダヌのことを話しそうになり、その都度気まずい思いに言葉を鈍らせた。

 この二年間の旅は彼との旅に他ならない。だから、旅を終えるのは二人いっしょだ――そう信じていた。

 あるべき姿が無い自分の隣に、エリカは今日何度目かの胸が痛む感覚を覚えた。

 ベルゼルはそんな弟子の胸中を知ってか知らずか、終始優しい笑顔で耳を傾け続けていた。

「……さて、今後についてですが」

 最後のデザートも食し、食後のお茶を愉しんでいたとき、ベルゼルは真剣な口調で切り出す。雰囲気を察したエリカも緩んでいた気持ちを引き締め、襟を正して耳を傾ける。

「今はかくまう事はできますが、そういつまでも続くものではありません。街中であれだけ派手な大立ち回りを演じた以上、いつ正式な手続きを踏んでここに捜査官がやってくるかわかりません。いや、仮にここにいる限り安全だとしても、根本的な解決にはなりません」

 目的こそ達成したものの、今なお指名手配の身である――夢のような時間に、忘れていたそのことを思い出す。

「先程も言いましたが、この二年、私はあの事件の真相究明に費やしてきました。実のところを言うと、あの時の術式の全貌はほとんど解明が完了しています。だから第三者の介入を明らかにできました」

 それが容易なことではないことは、エリカも十分に理解していた。

 術式も定かではない魔法、それも未知の神界系魔法による悪魔召喚。それを残された僅かな証拠から一人で解明するなど本来は不可能だ。

 だが、師匠ならやってのける。理屈ではなく、エリカは一人納得していた。

「理論的にはすべて説明可能です。ですが、それを証明するためには実証する必要があります。もう一度あの状況を再現し、あの魔法実験が悪魔召喚などではなかったと。それにはエリカさん自身の存在が不可欠です」

「魔力は個人によって異なる。あの日の状況を再現するなら、私の魔力が不可欠ということですね」

「然り。そんな訳で、私の方でもエリカさんの動向を血眼で探っていました。だからエリカさんがこの街にいて、しかも賞金稼ぎバウンティハンターと戦っていると知ったときはわき目も振らず走っていましたよ。正直、年甲斐も無く無茶をしたから今、体の節々が痛いです」

 はにかみながら笑うベルゼル。

 師匠も自分を探していたということが、エリカにとっては無性に嬉しかった。

「すべてが揃った今、もう逃げ隠れするのはおしまいです。これからエリカさんの、いえ、我々の無実を証明し、然るべき者に罪を償わせましょう」

 そして"我々"という言葉に胸の奥がじんわりと暖かいもので満たされる気分だった。

 師が自分を大切に思ってくれているという実感は、この二年の孤独を埋めて余りある。

「約束しましょう。もう二度とエリカさんを辛い目に遭わせたりはしないと。頼りに値しない師ですが今一度、信じてほしい」

 真摯な態度を受け、エリカは深くうなずく。

 答えは最初から決まっていた。

「お師匠の弟子として、私も全力を尽くします」

 しっかりと視線を合わせ、淀みのないはっきりした声で答えた。

 ベルゼルはその答えを聞くと満足気に頷く。

「では、まずは魔法実験の再現を行いましょう。準備が整い次第、部屋まで迎えに伺います」

「え、これからですか?」

「もちろんです。今は少しの時間も惜しいですから」

「でしたら私も何かお手伝いを――」

「いえ。それよりも、できるだけ体を休めておいてください。魔力は心身の影響を受けます。万全を期すためには、大事なことです」

 そう言われては、エリカに反論の言葉はなく、足早に部屋を出る師の背中を見送るより他なかった。


 *


 屋敷の前に辿り着いた俺は、どうしたものかと困惑げに顔をしかめる。

 鋭い眼差しで出入りする人間を値踏みしていた警備員の姿は、今はどこにも見当たらない。

 そして門はだらしなく開け放たれていた。

「まさか便所に行ってる、とかじゃねぇよな。勝手に入って大丈夫なのか?」

 まぁ考えても仕方ないと、足を踏み入れた直後、そいつを発見した。

 その門柱の影に、まるで隠されたように横たわる警備員の死体を。

「こりゃ一体……」

 首を真一文字に切り裂かれた鮮やかな手並みに、俺の脳裏には今朝方の光景がフラッシュバックする。

 そして気付けば全力で駆け出していた。

 何が起こっているかはわからない。しかし少なくとも今、この屋敷に、そしてエリカに異変が迫っているのは確かだ。

 屋敷の中は物音一つしない静寂に包まれおり、廃墟の如き不気味さを呈していた。扉の閉まる重々しい音だけが存在感を持って屋敷に響き渡る。

 嫌な予感だけが胸中で否応無く増し、それを振り払うようにロビーを抜ける。

 廊下にはいたるところにメイドや使用人が倒れていた。いずれも一発、ないし数発の銃弾によって絶命している。

 間違いない。この屋敷に何者かが侵入している。俺の不安はより確実なものとなって足を急かす。

 死体の中にエリカが混ざっていないことだけを願いながら、階段を一気に駆け上がり部屋を目指す。

 そして角を曲がると一つだけドアが開け放たれている部屋が視界に入る。記憶が確かならその部屋はベルゼルに通された部屋のはずだ。

 その部屋の前にはメイドが横たわっていた。もはや生きていないのは床に溜まる血の量を見れば明らかだ。

 焦燥が掻き立てられ、一足で最速に乗る。転がるように部屋に飛び込んだ俺の目の前には――


 *


 正面からではわからなかったが、屋敷の反対側にはいくつか別邸がある。

 普段は来客の宿泊用に使われるその一つを充てがわれ、今は自身の工房として使用しているという。その工房で実証の行うこととなった。

 本邸と別邸をつなぐ長い渡り廊下を、エリカは神妙な面持ちで師と並び歩く。

 さすがにここで楽観的になれるような性格のエリカではない。

 実証の結果が、必ずしも想定通りになるとは限らない。仮に成功しても、それだけで本当に自分の冤罪が取り消されるのか。

 不安は恐ろしい想像ばかりを掻き立て、自然と足取りは重くなった。

 その彼女の震える肩を、大きな掌が優しく包む。

「大丈夫。恐れる事は何もありません」

 全ての不安を拭い去るような優しい、頼れる笑顔の師匠がエリカを見下ろしていた。

「今度はちゃんと私が付いています。約束したでしょう?二度と辛い目に遭わせたりはしないと」

 その言葉にエリカは胸中の、鉛のように黒く重い不安が霧散していく感覚を覚えた。

 この人に付いていけば間違いない。私の尊敬する、世界で一番大切な師匠なのだから、と。

「お師匠はなぜ、私を弟子にしてくれたのですか?」

 ふと、そんな事を口にしていた。昔から抱いていたが問いかける機会がなかった疑問が、安堵の拍子に口を衝いて出ていた。

「確か、お師匠は誰も弟子を取らない主義だったはずでしたよね?」

「主義、という程ではありません。私は私の信念と目的のため、他に何かを背負う余裕はなかっただけです」

「目的、ですか?」

「魔法の探究とさらなる発展……と、口にするとなんだが陳腐ですね」

「いいえ。素晴らしいことだと思います」

 エリカは心の底から正直にそう思った。

 アネットのような魔法使いを見た後だと、殊更にそう思える。

 すべての魔法使いが、かくあるべきだとすら考えていた。

 魔術師は国の認めた、ある種の特権階級である。

 その特権に胡座をかき、私利私欲に魔法を利用する魔術師も少なからず存在する。過度なエリート主義で、一般人を見下す輩もいる。

『魔法使いは人を幸せにするためにいる』が信念のエリカは、そういう魔術師を心の底から嫌悪していた。

「それなら尚の事、わかりません。もし目的のために弟子を取るなら、私より優秀で才能ある魔術師は大勢いると思いますが」

「否定はしません。ですが共に魔法を探究していくには才能や小手先の技術よりも、共有できる理念を有している方が重要だと私は考えます。その点においてエリカさんは、私の目的に近しい、類を見ない人間です」

「そ、そんなことは……へへへ」

 その言葉に脳が茹だる思いになり、その場で悶絶しそうになるのをなんとか堪える。

 そうして気付けば、別邸の扉の前にたどり着いていた。

「……何より、高い魔法技術を有しながら、私を盲信していた。事を成す上で、とても好都合でした」

「え?」

 疑問の声は、大きな扉が押し開かれる重々しい音に埋もれる。

 その真意を問いただしたかったが、視界に広がる光景に、その疑問は霧散した。

 目の前には吹き抜けを有する広い空間が広がる。そこは別邸のロビーだ。来客用だけあり、床は薄く姿が映りこむほど綺麗に磨かれ、革張りのソファーが各所に配置されている。華やかな本邸と違い、客をもてなすことに重点を置いて配慮が凝らされているのがわかる。

 魔術師の工房などではないことは、一目瞭然だった。

 さらに、その場所には大勢の人間が集っていた。

 大半を占めるのは濃紺の制服を身に纏った者たち――港湾警察だ。

 フロアの外周を固めるように配置されているのは武器を下げた武装警官と専属魔術師。

 そしてフロア中央に陣取る集団は、警官たちとは違うとひと目でわかった。

 その中の一人に、見知った顔をエリカは見つける。

「オリン君!?」

 声を上げるエリカを、王国捜査官エージェントのオリンはただ黙って睨む。その脳裏に浮かぶのは昔日の思い出か、先の手痛い敗北の記憶か、その両方か。

 その彼の両脇に立つのは天属の双子天使、メリッサとアリッサ。すでにサードシフトで臨戦態勢だった。

 中心に集うはいずれも、戦闘に特化した王国捜査官エージェントである。洗練された立ち振る舞いは港湾警察のそれと比べるまでもない。

「ご足労いただき感謝いたします」

「……いえ、こちらこそ。逮捕協力に感謝いたします」

 オリンは険しい表情で受け答えをする。

「魔属の姿が見えないのはどういうことか、説明してくださる?」

「すみません。こちらが及ばず、逃げられてしまいました」

「逃げた?」と同時に声を発する双子天使。メリッサは忌々しさを滲ませた低い声だが、アリッサは訝しむ様子だった。

「周囲への警戒を怠るな。魔力探知を厳に」と、オリンは冷静に命令を下す。

 一方、一人だけ何がなんだかわからず、動揺する頭で会話の内容もろくに入ってこないエリカ。

「お師匠。これはどういう……」

 振り返りながら問いかけようとするエリカは、唐突に背中に受けた軽い衝撃に身を崩して倒れてしまう。

 背を押したもの。それは間違いなく師、ベルゼルの手だった。

 傷ついた自分を抱え、不安に震える肩を優しく包んだあの手が自分を突き倒した。

 いつも優しい笑みを湛えた表情は、今はまるで下劣なものでも見るような冷たい眼差しで自分を見下ろしていた。

「禁忌を犯すような不出来な弟子です。どうか厳罰な裁きを」

 眼差し同様、冷徹な言葉。

 その言葉にエリカはようやく我に返り、叫ぶ。

「お師匠!どういうことですか!」

 警官たちの拘束にもがきながら、必死に訴えるエリカ。ついには抵抗の意思ありとみなされ床に強く押さえつけられるが、それでも叫び続けた。

 叫びはやがて啼泣に、そして嗚咽と変わっていく。

 ――裏切られた。

 最も敬愛して止まない師に裏切られた。

 その事実はエリカの精神を完膚なきまで叩きのめした。エリカは床に額をこすり付けて咽び泣いた。

 だが、これで終わればどれだけ楽だっただろう。彼女の辛苦はまだ終わりではなかった。

「エリカ・カーティス。お前を第Ⅰ級禁止魔法使用、及び――大量殺人の罪で逮捕する」

 エリカの手首に拘束の魔法を掛けるオリンは口上を述べる。

「……殺人?」

 大量殺人。無論エリカには身に覚えの無い罪状だ。

 確かに逃亡中は何度となく追っ手を返り討ちにはしたが、ただの一人として殺めてはいない。アネットにしても、最後に止めをさしたのはベルゼルである。

 それこそ何かの間違いだと思うが、疑問の答えは、全くの意表外のものであった。

「悪魔召喚で生贄にされた二十名の命。少しでも悼む気があるなら神妙に裁きを受けるんだ」

「生贄!?そんなわけ――」

 言いかけ、エリカは口を噤む。

 脳裏に蘇る、あの日あの時の光景。

 術式の組んだのはエリカではない。故に、その全貌も知らない。

 だが、確かなこと。

 それは悪魔召喚に代償は付き物であること。

 魔術師としての思考が、可能性として十分ありえることを告げた。

 そして、それを知る人物は真実を語ることもなく、黙してただ自分を見下ろすだけだった。

「そんな……どうして……」

 首を持ち上げ、すがりつくような弟子の声にもベルゼルは応じない。

 その時、今し方の師の言葉が過り、同時にその意味を知る。

『私の行いに疑問を抱かないほど盲信』

『とても好都合』

 脳内をリフレインする言葉。

 事ここに至り、エリカはすべてを悟る。

 自身が利用されたことを。

 自身の罪は紛うことなく事実であり、さらに己の手で人を殺めたというの事実。

 畳み掛けられる絶望を受け止めるには、エリカはあまりにもか弱かった。

 絶句し、声すら出すこともできずにただただ震えるしかなかった。

 ――召喚儀式の当初から今日に至るまで、気付けるタイミングは多分にあった。

 見慣れぬ術式を少しでも疑えば、説明された理論の矛盾に気付いただろう。

 悪魔召喚をしたとわかれば、召喚に必要な三大要素である接続コネクト交信コンタクト触媒コネクションから、そこにいかなる代償が必要だったか考え至っただろう。

 アネットの言う通り、二年もの間、弟子の無罪を訴えることなく姿を消した師に疑念を抱いたかもしれない。

 だが、しなかった。

 露ほども疑いもせず、『なにかの間違い』『きっと訳がある』と自分に言い聞かせ続けてきた。

 それは確かに、盲信以外のなにものでもないだろう。

 己のその愚かさが命を奪う引き金を引き、今日までその罪から目を逸らさせ続けた。

 望んだ真実も未来も無く、重くのしかかる現実は、これまで自身を支えてきた心の柱をへし折り、圧し潰した。

 押し寄せる罪悪感と真実に思考は追いつかず、荒い呼吸で額を地面に擦り付ける。

 警官が連行しようとするも自力で立つこともままならず、両脇を抱えられる有様であった。

 その視界の中で、すでに興味もないとばかりに背を向けるベルゼル。

 双眸からは涙が溢れ、その姿を歪ませた。

「オリン!来るよ!」

 その時、警戒に徹していたアリッサが叫ぶ。

 同時に、激しい音がフロアに響く。何事かと周囲を見回す警官たちの頭上を一つの影が躍る。

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