第8話 喫茶店
二人はゆるい服装で化粧もせず外へ出た。橘は腰まであるTシャツに半ズボンを履き、黒いサングラスをかけている。エラは橘の服の中でもサイズが気にならないワンピースを着ていた。橘にとっては膝下の丈でもエラが着ると膝上になるが、違和感なく着こなしている。そして、しっかりと自前のサングラスをかけている。その二人が並んで歩いていると、リゾート地を訪れているように見えた。
「こういう時に感じる気持ちって日本語で何て言うんですか?」
エラはすっぴんで町を歩く面白さを言葉にしたいと思い尋ねる。
「背徳感かな」
橘は何気なく答えた。しかし、エラはその単語に飛びつく。
「ハイトク感! かっこいいですね!」
そして、橘に教えてもらった言葉を繰り返し、その音の響きを楽しんだ。
駅前に向かう道の途中に目的の喫茶店がある。煉瓦造りの道路を進むと似たような朱色の煉瓦で建築された店が見えてくる。白いドアや窓枠が遠くからでもよく見えた。店の後ろには広葉樹林が広がっていて、森の中に建てられているようだ。こじんまりとした雰囲気の個人経営店だが繁盛しており、お昼時から夕方はほとんど満席になるほどだった。しかし、今はお昼時にしては少し早い時間帯なため、客も疎らに座っている。二人がサングラスを外しながら中に入ると、店員からお好きな席へどうぞと勧められた。ゆっくりと席の間を通り、外の景色が見える四人掛けのテーブル席に向かい合って腰を掛けた。革張りのソファーが徐々に身体を沈ませていく。エラが早速メニュー表を見て何を頼もうかと考えているが、橘は目を瞑り腕を組んでいる。その様子に気付いていなかったエラはふと顔を上げて目を見開いた。険しい表情につい釣られて、神妙な顔で尋ねる。
「どうしたんですか」
声を掛けられ片目を開いた橘は再び目を閉じると、小さな声で答えた。
「食べ物を見るのもしんどい」
メニュー表にはドリンクや料理のイラストが載っており、本来ならば食欲をそそるものだ。しかし、二日酔いの橘には全て逆効果だった。エラは眉を下げながらもう一度訪ねる。
「じゃあ何食べるんですか」
「食べない、紅茶飲む」
その返事にエラは身を乗り出して批判の声を上げる。
「一緒に食べるんじゃないんですか? 私は食べますからね」
頬を膨らませていたが、橘の視界には映らない。
「どうぞ」
終始目を瞑り腕を組んでいる橘を前にして、心が折れたエラは再びメニュー表と睨み合い、そして料理を注文した。
窓の外はのんびりと自動車が走っていたり、散歩したりしている人がいた。穏やかな時間が流れていて、誰もが充実した休日を過ごしているように見える。しかし、その様子を頬杖突きながら見つめているエラは少し退屈していた。美味しそうな料理を一通り頼んだ後、橘に何度か話しかけたが息を吐くことも辛いらしい。自然と会話が途切れてしまう。また、橘もテーブルに肘を突いて自身の腹を見るような体勢だ。仮に話したとしても声は届かないだろう。胃がムカムカして普通に座っているとなんだか気持ち悪い。前屈みになることで気を紛らわせている。エラは飲ませた自分のせいだとわかっていながら不満を抱いていた。二人の間にはわずかに重い空気が流れているが、店内では小鳥の囀りのように可愛らしいクラシック音楽が流れている。
店員が頼まれた料理などをまとめて運んできた。オムライスやナポリタン、グラタンにホットケーキなど明らかに一人前以上の料理が机の上を占領する。エラは胸を膨らませたが、橘は見ただけでお腹いっぱいになってしまう。
「どうしてそんなに頼んだの?」
困惑した表情の中に苛立ちが混ざる。
「お腹空いてます! このくらい食べられる気がしました!」
エラはスプーンを持ちながらそう答えると満面の笑みを浮かべた。橘はその表情を見て本人に伝える気が失せてしまい、口の中で多過ぎと呟いた。
エラがオムライスを口へ運ぶと、ケチャップの酸味と卵の甘味が混ざり合い、さらに空腹感を刺激する。そのまま手を休めることなく食べ進めていると、目の前で険しい顔をしている橘が目に入った。やはり食べたかったのだと思い、スプーンを目の前に差し出す。
「一口どうぞ!」
橘は目を丸くし、頭を横に振った。
「食べたかったんじゃなくて、よく食べるなと見てただけ」
そう弁明したが、スプーンからはみ出るほど大きな一口を口元に寄せられる。
「何も食べないのは良くありません!」
もう一度断ろうと口を開いたタイミングでオムライスをねじ込まれた。卵の甘さに耐え切れず、大きく深呼吸をする。吐き出さないように口を結び、拳を唇に当てた。そこからエラが他の料理に手を付けだしても、その一口を飲み込めなかった。
エラは普段からよく食べるが、今日は特に大食いだ。全て一人で食べきったのにまだいけると宣言した。橘はその様子を不思議そうに眺めながら、紅茶を飲んでいる。昨日の酒はどこへ消えたのか、自分はまだ二日酔いで苦しんでいるのにと考えた。しかし、それよりもここまで良い食べっぷりだと見応えがあって面白かった。
「今度は食べ放題に行こう」
「えー! いいですね! 行きましょう!」
エラの笑った顔を見ていると、とても温かい気持ちになった。
二人は会計を終えると駅に向かって歩き始めた。しかしその足取りは重く、どちらも名残惜しさを滲ませている。太陽が真上から照らしてくるため、本当は早く建物の中に入りたいが気が進まない。普段なら十分で着く道を倍の時間かけて歩いた。
駅前の広場に着き、向かい合うと余計寂しく感じてしまう。二日後にはまた職場で会えるのに、どうしてこんな気持ちになるのかお互い気にかかった。
「昨日はありがとうございました」
エラが口を開くと橘も同じように返す。
「こちらこそありがとうございました」
しばらくの間沈黙が続き、橘は考え事を始めてしまっていた。なぜこんなに名残惜しいのか思考を巡らせる。そして、その理由に気付き顔を上げた。
「来週の土曜に大食い見せてよ」
そう投げかけるとエラの表情も明るくなり、はっきりと返事が返ってくる。
「大食いじゃありません! でも会いましょうね!」
橘は急に顔が熱くなりサングラスを押し上げた。エラはその行動が面白くてにやけてしまう。そして、橘に軽くハグすると手を振って改札へ向かった。橘は呆然と広場に立ち尽くし、頭がジリジリと焼ける感覚を味わった。
家に帰るとエラが昨日着ていた服がそのまま置かれていることに気付いた。すっかり忘れてたと心の中で呟き、口元を手で覆う。今頃電車の中だろうと思い、後日渡すことに決めた。ゆっくりと服に近付き摘まみ上げると、そのまま洗濯機の前に移動させる。太陽の光が届かないため、暗闇の中で洗濯機のボタンを押した。静まり返った室内に無機質な選択音が鳴り響く。スタートボタンを押すだけのところまで進んだが、自ずと手を止めてしまった。辺りの暗さが自身の行為を隠してくれるような気がする。そう感じてエラの服をきつく抱きしめた。顔を近付けると焼き肉屋の臭いに紛れて、わずかに柔軟剤の香りがする。目を瞑りそれらをじっくりと噛みしめた。しかし、罪悪感と優越感が胸の中から溢れだし、無意識のうちに顔を曇らせる。
「気持ち悪」
そう呟いて洗濯機を回した。
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