第7話 午前中

 橘がトイレに引きこもってから三十分経過していた。エラは中の様子が気になり、扉の前を何度も往復し声を掛ける。

「今どんな感じですか? 背中擦りますよ」

「……」

 初めは返事をしてくれていたのに、もう口も利いてくれないとエラは落ち込む。扉の前に座り込み、膝を抱いて顔を埋めた。自分のせいで苦しんでいると思い、罪悪感が押し寄せてくる。そのまま中の音を聞いていたら水を流す音が聞こえた。顔を上げて振り向こうとすると、扉が開きエラの腰を強く打つ。

「Oh!」

 咄嗟に背中を丸めると上から声が降ってきた。

「あ、すみません。ずっとそこにいたの?」

 橘はエラの隣に膝をつき、背中に手を当てた。しかし、エラはその手を退けるように身体を揺らし顔を上げる。

「それよりも橘先生は大丈夫ですか!」

 エラは真剣な表情をしながら橘の瞳を見つめた。その目力の強さに圧倒され、橘は少し身を引く。そして今求められている回答を考えたが、素直に答えることにした。

「まだ少し頭が痛い。でもこのくらいなら大丈夫」

 そう伝えて小さく微笑んだ。エラはその笑顔を見て安堵の表情を浮かべる。二人の間に柔らかい空気が流れたのも束の間、エラは素早く立ち上がった。

「よかったです! じゃお風呂入りましょう!」

「え? あぁ」

 橘は瞬時にエラが化粧を落としたがっていたことを思い出した。かなり待たせてしまったことを申し訳なく感じ、タオルなどは用意しておくからと伝えて浴室へ案内した。

 洗剤の説明など最低限必要なことをし終えて、橘はようやく一息つく。ソファーに座り、息を吐きながら仰け反っている。そして目を瞑り、頭痛を和らげようとした。しかし、何かあったときに気付けるようリビングの扉を開いていたため、シャワーの音に紛れて鼻歌が聞こえてくる。狂いのない音程に心地良さを感じた。自然と頭部の緊張が解れ、穏やかな表情になる。そうして旋律に耳を傾けていると、次第に意識が遠のいた。



 エラは頭から湯を浴び、清々しい気持ちになっていた。そして、普段と違う香りを身に纏い気分が高揚している。シャンプーを終えた髪の指通りも違い、自宅に同じ物が欲しくなっていた。もしくはこの浴室ごと欲しいとまで考えた。こまめに掃除されているのか、黒カビなどが見当たらない浴室。エラは手入れを諦めがちな場所と思っているためとても羨ましかった。このような点でさらに橘を尊敬しつつ、自身がそこにいた痕跡を残していく。しかし、エラは気付くこともなく身体を洗い続ける。



 シャワーを止め、髪を両手できつく絞る。そして、橘が用意してくれたタオルなどを使いリビングに向かった。廊下から声を掛けようとしたが、ソファーで眠っている橘が目に入り口を結ぶ。忍び足で橘の隣に行き、腰を掛けながら顔を覗き込んだ。普段より柔らかい表情をしながら眠っている。体調が良くなっている兆しだと感じ、ほっと溜息をついた。

 しばらく横で座っていたが、軽く結われた髪から水が滴り肩や背中を濡らし始めた。冷たい感触がエラの顔を曇らせる。しかし、ドライヤーは起こしてしまいそうで使えない。せめて自然乾燥が早くできるよう、タオルで水気を取ることにした。先程身体を拭いたバスタオルを手にし、再びソファーに座る。そして、頭から被りその上に手を添えた。最後に指を立てると、勢いよく前後に振り始めた。素早く左右非対称に手を動かし頭を擦る。その揺れで橘は目を覚ました。目を大きく開きゆっくりと横を向くと、一心不乱にタオルを擦る姿が目に入る。エラは見られていることに気付かず、タオルの中で指先に意識を集中させていた。橘がゆっくりとその指先に触れるとタオルが大きく跳ねた。

「橘先生! 起きたなら声掛けてください!」

 エラはそう言いながら頭上のタオルを取ろうとした。しかし、橘にその手を抑えられ動きを止めた。そのまま手を下ろされ困惑しつつ身を委ねると、髪を引っ張られるような感覚を覚える。橘はタオル越しにエラの髪を掴み、丁寧に水を絞っていた。全ての束を絞り終えると、洗面所からドライヤーを持ち出しソファー付近のコンセントに挿し込む。そして、タオルに向かって熱風を当て始めた。

「えーと、これ意味ありますか?」

 エラが大きな声で尋ねると、耳元に返事が返ってきた。

「タオルを通すと熱が全体に広がって、早く髪が乾く」

 ゆっくりと簡潔に話すことで理解を促すが、曖昧な相槌が聞こえる。説明を諦めタオルを温めることに専念した。ある程度乾いたタイミングでタオルを剥がすと、唇を尖らせたエラが出てきた。

「何も見えなくて暇でした」

「それは申し訳ない、でもあと少しだけ待って」

橘はそう伝えるとドライヤーとともに持ってきていた櫛を使い、そっと髪を引っ張り始める。まっすぐに伸ばされた髪を撫でつけるように風が流れた。金髪が光を反射し、キラキラと輝き始める。一通り終えると送風音が止み、辺りが静まり返った。

「お待たせしましたお客様」

 そう言って軽く頭を撫でて、口の端を上げた。エラはその行動にはにかみながら感謝を伝えた。そして、自身の髪を手で梳かしたり毛先のまとまりを確認する。シャンプーの効果と橘のブローでくせ毛が少し伸びていることに驚いた。

「いつもより髪綺麗になりました」

 そう呟いた後も繰り返し髪に触れ、目を丸くする。そうしている間に橘もシャワーを浴びようと脱衣所へ向かった。エラはその背中に行ってらっしゃいと声を掛け、髪を指に巻き付けたりして遊び始めた。



 橘がリビングに戻った頃には朝食の時間を過ぎ、学校でいう二時限目になっていた。外の気温が室内にも影響を与え、カーテン越しでも天気の良さを伺うことができる。橘が髪を乾かしている横で、腹を抑えながら左右に揺れている姿があった。

「朝ご飯食べ損ねちゃったね」

 ドライヤーを下ろしながら声を掛けると、動物のような呻き声が返ってくる。今すぐ食べられるものが家にあるだろうかと考えたが、昨日のつまみ程度しか思いつかない。普段は前日の夕食の残りを朝食に回しているため、外食した日の朝は何も食べないことが多かった。しかし、今そのようなことをしたら倒れそうな人がいる。橘は立ち上がり、肩越しにエラを見て声を掛けた。

「喫茶店でご飯食べようか」

 エラはその声を聞き目を輝かせた。そして、手のひらを合わせて顎に沿える。

「行きます! ブランチですね!」

 そのまま再度揺れ始めて、笑みがこぼれた。しかし、ぱっと表情が変わり悪戯っぽい笑みをしながら思い切った提案をする。

「すっぴんで行きましょう! 面白いでしょ!」

 橘は目を見開き、しばらく考え込んだ。エラは化粧がなくとも十分整った顔をしているが、自分はどうだろう。しかもエラの隣を歩くとなると、視線が集まることは確実だ。少し迷ったがあえて化粧をせず出かけることに対する好奇心はあり、それに逆らうことはできなかった。

「面白い、サングラスかけて行こうかな」

 橘はそう返して、私服などの用意を始めた。

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