第6話 宅飲み
橘が玄関の扉を開けるとエラが待ちきれないといった様子で足踏みをした。
「橘先生の家初めてです! 失礼します!」
家主の後ろを歩きながら、興味深そうに辺りを見渡す。玄関のすぐ目の前は廊下で左右に扉があった。その扉を通り過ぎ、突き当たりの部屋が開かれる。その光景を見て思わず両手を胸の前で合わせた。
「橘先生みたいな部屋ですね! 素敵です!」
壁に沿って置かれたソファーの正面に足の短い机、その奥にテレビがあった。それらは黒で統一されていて、落ち着いた雰囲気がある。しかし、置き鏡や化粧品などが机に置かれている状態は生活感も出していた。その生活感が足されたことで、ほどよくリラックスできる空間に仕上がっている。その空間で存在感を発揮している本棚があった。横幅が五十センチ、高さは百五十センチほどあり、他の家具に高さがないことも重なって自然と目に留まった。エラはゆっくりと近付き、上から順に背表紙を眺める。そして、違和感を感じ眉をひそめて質問した。
「日本の作家好きじゃないですか?」
ほとんどが洋書で、時々日本語に訳された海外作家の小説が並べられていた。橘は髪を解きながら、嫌いなわけじゃないですと答える。その声に振り返り、普段は見ることができない橘の姿を見て目を輝かせた。
「髪長かったんですか!」
エラはすぐに駆け寄り、毛先や長さをまじまじと見つめる。橘の髪はセミロングで、毛先に傷みなどもなく丁寧に扱われていると見て取れた。照明を反射してハリのある髪が輪を描いている。その様子を後ろから観察した後、橘の正面に座り上から下へ視線を動かし頷く。
「すごく美しいですね」
そう伝えて、目を細くし口の端を上げた。橘はその表情を見て、思わず眼鏡を押し上げるようにして顔を隠した。そして、恐る恐るふくらはぎに潰され広がっているエラの太腿に触れようとする。その薄い膜に包まれたような肌まであと一歩というタイミングで、突然エラが立ち上がった。反射的に手を引っ込め、どうしたのだろうかと見上げる。
「氷忘れてました! 溶ける前に飲みましょう!」
エラはコンビニで氷を買ってきていたのに、ビニール袋ごと部屋の入口に置いていた。慌ててビニール袋の中身を出し始める姿を見て、橘もグラスなどを用意しにキッチンへ向かった。
エラは様々な酒や炭酸飲料を混ぜ、「最強ポーション」と名付けた。それを橘にも渡し、ぜひ飲んでくださいと微笑む。しかし、橘は作る工程を見て飲む気が失せていた。アルコール度数が高いものばかり購入しており、さらにその酒同士を混ぜ合わせていたため、飲んだら潰れてしまうと身の危険を感じている。感じていた恐怖が顔に出ていたらしく、エラは眉を八の字に下げた。
「飲んでほしいですけど、嫌ですか?」
目を潤ませ唇を前に突き出しているその顔が面白くて、橘は軽く鼻で笑った。するとエラが酷いと言いその顔のまま怒り出したため、声を出して笑ってしまう。エラは拗ねた顔になり、もうあげないとそっぽを向いた。橘は笑いつつ飲みますからこっち向いてと肩を叩いた。そして、改めて机の横で向き合い乾杯をする。エラは喜びで声を上げたが、橘は眩暈がして近くにあったソファーの角に頭を預けた。眼鏡を外し組んだ手を腹の上に乗せる。そして、このまま棺桶に入れてくださいと言いながら目を閉じた。しかし、エラは既に新たな「ポーション」を作り始めており、その思いは届かない。
エラは新しく作るたびに橘にも必ず飲ませた。途中から互いのグラスを持つ腕を組み、同時に飲むようにし一切断る隙を与えなかった。そのため、橘は帰宅前よりも酔いが回ってきてしまう。ぼやけた視界の中でエラがグラスに液体を注いでいる姿を捉えると、素早く手を伸ばした。エラの腕を掴み、無理やり手にあったボトルを奪う。エラが驚いた表情をしてもお構いなしに両手を握ると小さく唸った。俯いていたため、その意味を表情から判断することはできない。エラは確かめようと自らも俯いて顔を覗き込んだ。すると橘の頭が肩に乗る。そして、掴まれていた両手が自由になったため、エラは自然と背中に腕を回した。
「橘先生大丈夫ですか? まだまだこれからですよ?」
そう言いながら背中を擦ったが、特に反応はない。そのまま撫でていると柔軟剤の香りが広がる。良い香りだと感じ鼻を近付けた時、橘が腰に手を当ててきた。反射的に背筋が伸び目を瞬く。いつもより熱い手が熱を否応なしに分け与えてくる。その感触にだんだんと気持ちが焦った。気持ちを感じ取ったかのように橘が呟く。
「そう、まだこれからぁ」
言い終えるとゆっくりと手を動かし始める。上下に擦られてその箇所が熱を帯びる。どうすればいいのかわからず、そのじれったさにエラは耐えかねた。
「飲め! 最強ポーションだ!」
橘の顎を掴み頬を思いきり潰して口を開かせると、グラスを唇に当てた。そして、傾けると口の端から滴らせながらも全て口に注ぐことができた。その一杯で橘は完全に倒されてしまい、ソファーの横で眠りにつく。エラは息を切らしながら大人しくなった橘を見下ろす。一人だけ気持ち良さそうに眠っていることに苛立ちを覚えた。そして、近くにあった瓶に手当たり次第口を付け、後を追うように眠った。
エラが意識を取り戻すと既に外は明るくなっていた。オレンジ色の日の光が、カーテンの隙間から漏れている。片目を開けて辺りを見渡すと、橘が昨晩と同じ格好で倒れていた。その姿を見て少しずつ意識がはっきりしてくる。上体を起こし、近くにあったミネラルウォーターに手を伸ばした。飲みながら昨日の橘の様子を振り返る。口調や行動など、普段よりも大胆だったような気がしていた。そして、自分より酒に弱かったとようやく理解した。申し訳ないことをしてしまったと思い、思わず橘を見つめる。乱れた髪が頬にかかり、白い肌に影を落としている。せめてソファーで寝かせてやろうと橘の身体に触れた。肩を抱き、太腿の下にもう片方の手を差し込む。そして、立ち上がると簡単にソファーへ移動させることが出来た。エラは橘の身体が想像以上に軽くて驚いていた。二人は使い捨てライター程の身長差があったが、もっと差が開いていてもおかしくないように感じた。橘は一切起きる気配がなく、固く目を閉じている。その顔を見つめていると、つい顔を近付けてしまう。エラの鼻先が触れる程近くで観察していると、寝息がかかりこそばゆかった。今度は距離をとり、腕を組みながら全身を眺める。身体の軽さを知った後に見ると余計四肢が細く感じた。また服の隙間から鎖骨が見えたが、脂肪がついていないこともあり骨の太さが印象的だった。気が済むまで観察し、メイクを落とし忘れてしまっていたことに気付いた。慌てて顔を洗いに行こうと思ったが、どこに何があるのか全く把握していない。橘先生いつ起きるんだろうと心の中で呟く。橘は横を向いて寝ていたため、くびれている部分に手を置いた。早く起きてほしいという気持ちで小さく揺らす。しかし、この程度では睡眠を邪魔することができない。エラは起こしたくないけど起きてほしいと、アンビバレントな気持ちになる。少し大きく揺らしてみるがびくともしない。諦めてコンビニにメイク落としシートを買いに行こうかと考えたが、この浮腫んだ顔や崩れた化粧で外には出たくないと思った。エラは橘の顔を凝視し早く起きなさいと念を送るが、想いは伝わらない。痺れを切らして両肩を思いきり掴むと、大きく前後に揺らし始めた。
「起きてください! もう朝ですよ!」
大きな声で呼びかけながら揺らし続けると橘が唸り声を上げた。
「うるさい」
エラの表情がパッと明るくなり、さらに肩を握る力が増す。
「メイク落としてませんよ! 顔汚いですよ!」
そう言いながら精一杯肩を揺らすと、橘は顔をしかめて呟いた。
「揺らすな……。吐きそう」
エラはしまったと手を離し、急いでビニール袋を探しだす。その間に橘は手を口元に当て固まった。
「ここ! ここに吐いてください!」
見つけ出したビニール袋を橘の前に出しシャカシャカと音を鳴らすと、橘は耳を塞いで丸くなった。
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