第4話 橘

 橘は自宅の最寄り駅に着き、人込みに紛れるように歩いた。小さな駅でも夕方は混みあうため、お団子にまとめた髪すらも邪魔になってしまう。なんとか改札を出ると一気に視界が開けた。駅前は広場になっていて演説や路上ライブが行われているが、橘はその横を通り抜け家路に向かう。少し坂を登って住宅街を十五分程歩くとアパートが見えてくる。築十年で外装がグレーの落ち着いた雰囲気を纏うアパートだ。二階建てで六部屋程しかなく住民も社会人が多いため、近所トラブルは少ない。橘は階段を上がり玄関のドアを閉めて施錠すると大きなため息をついた。

「はぁ、明日気まずくなったらどうしよう」

 エラにしてしまった行為について思い返していた。以前食堂で聞いた会話から察するところ、自身に求められていることはスキンシップだと思っていたが、エラが終始無言だったため少し不安になる。そして、こんなことをしても振り向いてもらえないことに気付いていたけれど暴走してしまったことを後悔していた。リビングに向かいながら反省会を始める。もっとゆっくり距離を縮めよう、授業以外でも話したい、とあれこれ考えていた。置き鏡の前に座り、ゴムと大量のピンでまとめられていた髪を慎重に解く。そして、ソファーに寝転がるとバックの中から教科書を取り出した。表紙を見ているとまたエラのことを思い出してしまう。なぜ日本語の時は大雑把な印象を与える声なのに、英語の時は美しいのだろう。日本語が高い声で発生しやすいようにできているなどいろいろな説があるし、どれも当てはまっているような気がした。また、橘はエラの発音が特に好きだった。Tの発音の上品さに聞き惚れてしまうほどだ。しかし、授業ではアメリカ英語で教えているため、たまにしかお目にかかれないがその時の威力は凄まじい。

 そのまま初めてエラに会った時のことを振り返っていた。数か月前、まだ長袖を着ていても暑くない頃のことだ。その日は休日だったため部活動に来ている生徒しかおらず、学校内はいつもより静かだった。生徒がいない廊下はどうしても味気なく感じる。しかし、太陽の日差しが窓から入り込み、ほのぼのとした雰囲気が漂っていた。橘が理事長に呼び出されて職員室に向かって歩いていると、近付くにつれて英会話が聞こえてきた。理事長が英語を話していることに新鮮さを感じつつ、相手をしている女性の声に驚いた。綺麗なアクセントと落ち着いた声色に心を奪われる。子音が聞こえる度にこそばゆい気持ちになった。つい立ち止まってしばらく聞いていたが、我に返り声の主を確かめようと急いで廊下の角を曲がる。すると職員室の前にはブロンドヘアの女性が立っていた。

「お、橘先生。今度から二人で授業をしてもらうからよろしくね」

 理事長は一言そう伝えてその場を立ち去った。そして、橘は生唾を飲み込みぎこちない英語で話しかけたのだ。

 こうして振り返ると橘は一目惚れならぬ一声惚れをしていたのだなと感じていた。教科書を胸に抱き目を閉じて、エラの声を脳内再生した。



 次の日の朝、職員室に入るとエラがおはようございますと話しかけてきた。橘は余計な心配をしていたのだと安心した。そして、普段より少し早い時間に声を掛けられたため、やはり私の予想は正しかったのだと手応えを感じていた。これからもエラと仲良くなるため積極的になろうと決めたが、文芸部は週に二回活動があるため、同じ手は何度も使えない。腕を組み橘が悩んでいると、再びエラから話しかけられた。

「今週末先生皆でご飯食べることになりました! 一緒に行きましょう!」

 楽しみだという気持ちが抑えきれない様子のエラは拳を握り、腕を上下に振っている。教師同士で飲みに行ったりすることは今までにもあり、橘も何度か参加していた。しかし、その席でエラと話すことはなかったし、誘ってくれるのも別の教師だった。これは良い機会だと思い、橘は眼鏡を押し上げて答えた。

「よし、行きます」



 週末の夕方、橘は職員室で小テストの採点をしていた。現在は二年生を受け持っていて、一年前は一年生を担当していた。そのため、このまま卒業するまでこの学年を受け持つことになると思っている。最後まで受け持つことができることに喜びを感じつつ、自分の授業だけで大丈夫だろうかと不安も感じていた。橘の授業は筆記に力を入れていて、スピーチなどは滅多に行わない。それは自身が学生だった頃の苦い思い出のせいだった。

 橘が中学生の頃、生徒から避けられている英語教師がいた。声も態度も大きく身長も高い男性だった。授業内容は一般的だったが、間違いを指摘する時に教卓を辞書で叩く癖があり誰でも威圧的に感じたと思う。橘もその威圧感にストレスを感じ、英語の授業が憂鬱になっていた。しかし、小学生の時から洋画が好きで英語は得意科目だった。そして、橘は今も昔も知的に見えるタイプで実際に成績などもよかったため、英語教師に目をつけられる。

 授業中に何度も当てられ、一度でも間違えると嫌味を言われた。一緒に授業を受けているクラスメイトから心配されたが、なぜか強がって平気なフリをしてしまった。意外と人前で格好をつけるタイプなのだ。そのため、嫌がらせを受けても学校に報告せず一人で堪えるようになった。

 そこから数カ月経ち、橘はストレスが許容範囲を超えて学校生活に支障をきたすようになった。廊下や校門で英語教師を避けるために隠れたり時にはホームルームに遅刻した。英語の授業前になると腹痛を起こし、気分が悪くなった。腹痛による吐き気は頭痛や風邪の吐き気とは違う気持ち悪さだ。しかし、ここで保健室に逃げたら負けだと思い、それも堪えるようになる。授業中も腹痛は治らず冷や汗をかいた。汗で身体が冷えてさらに痛みが増していくばかりだ。もうこれ以上我慢することはできないのだろうかと考えていたら、英語教師に指された。今すぐ教科書の一文を織り交ぜて一分間スピーチしろという内容だった。橘は力が入らない足を揉んで、机を支えにしながら立ち上がる。顔から血の気が引くのを感じ、プレッシャーで唇が震えた。寒さを感じるのにそれに反してじわりと上半身から汗が滲む。また、咄嗟に一分間スピーチをしろと言われても日本語ですら難しい。ましてや英語と指定され、入れなければいけないワード付きとなると、さらに頭が混乱した。クラスメイトや教師からの視線がやけに気になり気が散ってしまう。

「早くしろ」

 橘は焦って自身でも何を言っているのか分からないままスピーチを行った。声を出す毎に呼吸するタイミングを忘れて息が苦しくなった。息が荒くなるとか細い声になってしまう。全てが自分の限界を超えていると感じたが、倒れるギリギリのところで話し終えた。肩で息をしながら恐る恐る教師を見ると、無表情でこちらを見ていた。

「酷い発音だな、あともっとでかい声でハキハキしゃべれ」

「……はい」

 橘は心が空っぽになったように感じた。悔しさや惨めさなども全部その穴から落ちていく。もう何もかもどうでもよくなり、その日を最後に英語の授業は全て休んだ。

 授業を休んでも勉強は続けられたしテストだけは受けていたため、受験への影響はなるべく軽減させられたと思う。英語も好きなままでいられて十分満足していた。しかし、どのような場でも英語のスピーチは避け、人前では決して英語で話さなかった。また、英語の発音は中学生の時のまま止まっている。それでも教師を目指したのは純粋に英語が好きという気持ちと同じような目に遭ってほしくないという思いからだ。そのため、授業内容が自然と筆記に偏り、座学ばかりになった。そして、スピーチなどの経験を積めなかった影響で発音が苦手な生徒が増えてしまった。エラが来て授業内容を少し変更することはできたが、橘の人前でスピーチをさせたくないという潜在意識が改善されない。いつか授業方針を見直さなければならないとわかっていながら一歩踏み出せずにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る