第3話 居残り

 橘は午後の授業がある教室へ向かって、歩幅を狭めて歩いていた。教師が早いタイミングで教室に来たら、生徒たちが休み時間をギリギリまで満喫できないだろうという配慮からだった。しかし橘にも準備があるため、五分前に教室へ入るようにしている。チャイムが鳴る前に教室へ入ることができるのは、エラがいない時だけだった。

「失礼します。少し授業の準備をさせてくださいね」

 そう言いながら教室の扉を開け、ようやく普段通りの一歩を踏み出した。教室を見渡すと大半の生徒がすでに食堂から戻ってきていた。そして各々学友との会話を楽しんでいる。橘は無視されたことを気に留めず、その姿を見て微笑ましい気持ちになっていた。温かい気持ちのまま準備を終えると、チャイムが鳴り始めた。しかし、チャイムの音が止み、他クラスから挨拶の声が聞こえ始めてもエラの姿が見当たらない。

「エラ先生どうしたんですか?」

 生徒から尋ねられて、橘は心当たりがないか思い返す。しかし、これといったものは見つからない。

「わかりません。昼休みは食堂にいたんですけどね」

 橘は眉間にしわを寄せて小さく唸る。すると生徒が満面の笑みで見つめだした。

「エラ先生のことこっそり食堂で見てたんですね」

「見てません」

 話し声は聞いていたが姿は見ていないため、即座に否定した。生徒はその反応に疑いの目を向けつつ、ふと気付いたことを口にした。

「エラ先生って授業以外で橘先生にくっつきませんよね」

 そう言われ橘は少し俯き思考を巡らせる。そして、その中の一つだけ口にした。

「あれは彼女の仕事なんですよ」

 言い終えたタイミングで教室が一段と騒がしくなった。後ろのドアからブロンドベアの女性が入ってきたからだ。周囲に手を振りながら前へ進む姿は、ランウェイを歩いているように見えた。橘は小さくため息をつき、声を掛ける。

「エラ先生遅いですチャイム聞いてましたか?」

 エラは大きく身を乗り出し腰に手を当て、はっきりと答えた。

「チャイムを聞いて来たんですよ!」

「チャイムを聞いてから動き出すんじゃ遅いですよ」

 先程よりも大きなため息をついて、郷に入っては郷に従えという言葉を教えた。



 全ての授業を終え、エラが職員室に向かって走り出そうとすると手首を掴まれ引き留められた。

「あの、以前私の英語の発音についてアドバイスしてくれましたよね」

 橘が周りに聞こえないよう小さな声で問いかける。

「んー、すごく下手で聞き取れなかった時のことですか?」

 数カ月ほど前、エラと橘で授業を行うと伝えられた日に顔合わせがあった。初め橘は英語で話しかけたが、壊滅的な発音だったためエラに何も伝わらず、日本語で会話しようとその場で決まった。また、その際にエラは「英語話さない方がいいですよ」と発言している。

「そうです! あの時より詳しくアドバイスしてほしくて、えっと」

 エラは橘が言いよどむ姿を珍しそうに見つめた。そして聞き逃してはならないと感じ、顔を近付けて次の言葉を待つ。

「この後、お時間よろしいでしょうか」

 橘は耳を赤く染め、つぶらな瞳が線になるほど強く瞑る。睫毛が小刻みに震え、纏う空気が変わった。エラはその表情を見て、なぜそんなに緊張する必要があるのだろうと疑義の念を抱く。しかし、答えは前向きなものだった。

「喜んで! でも下校のチャイムが鳴るまでですよ?」

 口の端を目一杯横に広げ笑うと、目を開いた橘がさらに目を見開いた。そして、その笑顔に釣られて少し微笑み、いつもの調子を取り戻す。

「では文芸部の部室に来てください。今日は空いてますから」

 橘は言い終えると掴んでいた手首を離し、そそくさと帰り支度を始めた。その態度が面白くてエラはなかなか職員室に戻らなかった。



 橘は英語教師だが、文芸部の顧問をしている。本人もなぜ任命されたのか理解できなかったが、正直なところとても助かっていた。もし英会話部の顧問をやらされていたら、英語の発音力が生徒にバレてしまうからだ。普段の授業では英語の発音を全てエラに任せている。そして、単語だけどうしても言わなければならない時やエラが配属される前はわざとカタカナ英語で話しているフリをしていた。そのようなレベルだったにもかかわらず、採用試験に合格できたことを今も疑問に思っている。しかし、このままではまずいと理解しているため、地道に練習していた。あまり成果は見られないけれど、自宅でエラの発音を思い出しながら教科書を読むことが日課だ。そのエラから直々にアドバイスをもらえる機会を得て、満悦の表情を隠せない。部室の鍵を開けながら、今日の部活動がなくてよかったと思っていた。部室を開けてからしばらくすると、こちらに近付いてくるヒールの音が聞こえ始めた。この音は子供用の音が鳴る靴と同じ役割を果たせるのではないかと思いつく。しかし、誰が保護者役になるかが一番の問題だと考えた。きっと誰もエラのことを制御できないだろうと結論付け、思わず小さく頷く。

「何を聞いてるんですか?」

 エラが部室の扉の隙間からこっそりと覗いていた。真剣な顔で頷く橘に興味津々のようだ。橘はその声を聞いて能面のような表情になり、ゆっくりと声の主に顔を向ける。そして、ロボットのような声色で話しかけた。

「いいから中に入って」

 面白いと感じながら素直に応じ、橘が座っている席と机を一つ挟む場所に腰を下ろした。そして、橘を見つめて少し意地悪そうに微笑んだ。

「今は私が先生ですね」

橘はその発言を認めたくなくて、教科書を立てて頭を隠した。しばらくそのまま動かなかったが、小さな声でぽつぽつと音読し始めた。一単語ごとに途切れ語尾にはクエスチョンマークが付き、自信がなさそうに感じさせる。とてもか細い声だったため、エラはきちんと聞き取れるよう教科書の壁を乗り越え上から見下ろした。即座に気付きカッと目を見開かれたが、暗い目をしていたことを見逃さなかった。

「黒歴史があるんですか?」

 言葉の意味をきちんと理解していないのにそう尋ねてしまった。しばらく沈黙が流れ、良くない日本語を口にしたのかと不安になった。橘の表情は眼鏡が光を反射し目視させてくれない。どうしたものかと考えていたら返事が返ってきた。

「どうかな」

 曖昧な返答に困惑し、どのような意味が含まれているか想像する。その間に橘が先程よりも声を出して音読を始めた。聞き取れるようになったものの、相変わらずカタカナ英語を超える発音だった。できるだけ邪魔をしないように堪えたが、段々我慢できなくなる。

「わーい、どう、ゆう……」

「Why do you」

 とうとうエラが被せるように訂正すると、橘は眼鏡を外してから重力に任せて机に額をぶつけた。その光景を見てエラは軽く声を上げた。

「え! 大丈夫ですか。そんなに落ち込まなくてもいいじゃないですか」

  そう言って片手を橘の肩に乗せた。そして、何度か優しく叩いて励まそうとする。するとその手が再び肩に降りた瞬間、橘に頭を擦り付けられた。思わず動きを止めじっと見つめていると、相手もゆっくりとこちらを見上げてきた。お互い一言も発さず、目を逸らした方が負けだと言わんばかりに長い間視線を合わせた。先に折れたのは橘だった。

「エラは英語を話す時の方が綺麗な声だと思うの」

 エラは日本語を話す時本来よりも少し高い声になるため、違いを感じる人もいるだろう。橘は教科書を置くと徐々に上体を起こし、肩に置かれた手を掴んだ。

「優しく撫でられているような気分になる」

 掴んだ手の甲を人差し指でそっと撫でさする。ゆったりとした動きが逆にエラの心拍数を上げた。ひんやりとした手に触れられているのにも関わらず、身体全体が温まり始める。背中がじわりと熱くなり具合が悪い時のようだった。身体の反応を感じ取ることで精一杯なエラは橘が近付いてきても何も抵抗できなかった。自然に手を下ろされてから耳元まで顔を寄せられると、朝は気付けなかった香りがした。ムスクの深みに引き寄せられる。

「もっと聞かせて」

 橘が耳元で囁くと耐えきれなくなり、エラは首元に顔を埋めた。さらに橘が動こうとすると終わりを告げるチャイムが聞こえた。その音で我に返りエラを引き剝がす。

「下校時間だ今日はとても勉強になったありがとう」

 早口で言い終えるとすぐに眼鏡と教科書を持ち、一直線に扉へ向かった。そして、部屋を出る直前に少し振り向く。

「鍵は後で締めておくのでお構いなく」

 そう言い残して橘は扉を閉めた。エラは一瞬の出来事で何が起きたのか理解できなかった。

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