終章.飼い主とペットはなぜか似る。
あれから一週間。文化祭のほとぼりも冷めた学校は、すっかりいつもどおりの日常に戻っていた。
昼休み、冬の風が窓から入ってくる。休憩時間のざわめきの中、陸が俺に言った。
「すげえなあ、アドバルーンの爆発事故、結構騒ぎになったのに。一週間も経つと、もう誰も話題にしないな」
「うん。垂れ幕が落ちてきたところにも、奇跡的に人がいなくて怪我人もなかったしな」
俺やキル、日原さんにとっては、命懸けの攻防戦だったあの文化祭。それ以外の人たちには、「アドバルーンの爆発事故があった文化祭」として記憶されていた。
そりゃそうだ。まさかあの中に殺し屋が大量に紛れ込み、ひとりの少女を巡って学校を戦場にしていたなんて、誰も知らない。
陸が楽しそうに文化祭を振り返る。
「でも俺、あっちもかなり記憶に残ってる。美月ちゃんの、ウェディングドレスで廊下を爆走! 迷惑客から助けた咲夜が、そのまま教室から連れ出して……『その結婚、待った!』みたいで面白かったよな」
「それ、もう言うなよ……恥ずかしいから」
文化祭での悪目立ちを思い出し、俺は顔を伏せた。
あれだけ騒ぎを起こしてしまったが、あれは「カフェの宣伝」として受け止められたらしい。さらにそのあとアドバルーンの事故があったから、良い感じに霞んで、もう話題にしているのも陸くらいのものである。
「あのあと、咲夜も美月ちゃんもいなくなっちゃったけどさ。後夜祭のとき、面白かったんだぞ。美月ちゃんに告白するつもりだったバスケ部の部長、咲夜に美月ちゃん盗られたと思って凹んでてさ。けど浮気性で女の敵だったから、誰も同情してなかった」
「そういやそんな人いたな。バスケ部の部長から日原さんを奪うとか、そんなつもりじゃなかったんだけど」
俺が苦笑すると、陸はにこっと目を細めた。
「俺は分かってるよ。咲夜は美月ちゃんが殺し屋に狙われてるのに気づいたんだろ? 女癖の悪いバスケ部の部長から美月ちゃんを守ったのもすげえけど、そっちの方がもっとすっげえ。かっこいい」
「だから、もうやめろって」
陸には、本当のことを話した。こいつは素直に受け止めてくれるから。
通常運転の教室を見渡し、陸が言う。
「案外、皆、変わんないんだな」
「そんなもんなのかもな」
文化祭以前と、なんら変わらない景色が、そこにある。
ただ、俺の隣の席が空席であることを除いては。
「美月ちゃん、本当に引越しちゃったんだな」
「うん」
「なんだかな。美月ちゃんは悪くないのに」
日原さんのお父さん――院長による資金着服は、全国ニュースになった。日原院長は逮捕され、病院は評判がガタ落ちした。トップを代えてまだ運営はしているが、一度広まった悪いイメージはなかなか払拭できない。
日原さんの住んでいた豪邸は、しばらくの間、マスコミが押し寄せていた。お金持ちどころか、多額の借金があった日原家。お嬢様だったはずの日原さんは、クラスの誰より貧しくなった。お金を失っただけでなく、罪に手を染めた父親のせいで、周囲からの視線も変わった。今までどおりこの町で暮らすのは厳しいだろう。彼女は遠くへ引越してしまった。
豪邸は今はもうからっぽになっている。でも、使用人やシェフ、運転手さんら、彼女のもとで働いていた人たちは、ひとりひとりきちんと新しい職場を紹介されているそうだ。
守ってくれたお父さんも、傍にいてくれた使用人たちもいなくなって、日原さんの人生は百八十度変わってしまっただろう。今まで味方だった人たちからも、偏見の目に晒される。
それでも、日原さんの引越しの日、クラスメイトや彼女と仲が良かった他のクラスの人、使用人さんまで、彼女を見送るために空港まで集まっていた。いろんなものを失った日原さんだけれど、彼女が今まで人々に分け与えていたものまでなくなったわけではない。彼女はやっぱり、人気者だった。
空港には、もちろん俺も、見送りにいった。その日の光景を、頭の中に思い浮かべる。
*
別れ際に、俺は日原さんに借りていた本を返した。
「これ、ありがとう。まだ読めてないけど、もう間に合わないから返す。今度、自分で買う」
一緒に観た、否、俺は寝てしまったから観ていない映画の原作小説だ。日原さんは俺の手の中の本を一瞥したのち、俺と目を合わせた。
「それ、朝見くんが持ってて」
「え……」
「いいの。次に会ったときに返して」
広い窓から差し込む明るい光の中、彼女は柔らかに微笑んだ。
それは、必ずまた会おうという、約束。あんまり頭が良くない俺でも、それは分かった。
「ねえ、朝見くん。私が『朝見くんについていけば、広い世界が見られる』って話したの、覚えてる?」
本を引っ込めた俺に、日原さんは、空港の窓の向こうを眺めて言った。
「あの時は、朝見くんと離れ離れになったら、また狭い世界に閉じ込められてしまうって思った。でも、実際はこんな状況で……今までとは違って自由になった」
「うん」
自嘲的に笑う彼女に、俺はただ、頷いた。日原さんの瞳が、少し淋しげに細くなる。
「だからもう、朝見くんに連れていってもらえなくても、自分の足で、広い世界を見に行ける」
「そう、だな」
「でも、私に広い世界を教えてくれたのは、朝見くん。なにも知らなかった私に、一歩踏み出した先を見せてくれたのは、今までもこれからも、朝見くんだけなの」
窓の外を見ていた日原さんの顔が、こちらを向いた。
「おかげで今、知らないところへ行くのも怖くない。むしろわくわくしてるの。知らない景色に出会えると思うと、すっごく楽しみなの」
柔らかい光りに包まれる彼女の微笑みは、いつにも増してきれいだった。
「自分の足で、いろんなものに出会ってくるね。今度は、私が朝見くんを連れ回せるくらい」
この別れを前向きに捉える彼女に、俺も釣られるように笑った。
「いいな、期待してる」
「ありがとう、私の初めての友達」
日原さんが嬉しそうに、そして少し寂しそうに言う。
「そして、私の初めての……」
なにか言いかけて、日原さんは言葉を呑んだ。窓の向こうで、飛行機が飛ぶ。
「ううん、やっぱりこれは、まだやめとく。次に会うときまでに、この気持ちの名前、分かるようにしておく」
そういえば文化祭の準備期間の頃、ラルがそんなようなことを言っていた。なんて、頭の端っこで思った。あいつの見立てどおりなのは癪だが、そのとおりなら仕方がない。それに俺だって、自分の感情の名前を知らない。だからこの答えは、本を返すときまでに探しておく。
お互いにそう約束して、俺たちは長い長い別れの期間に入った。
*
日原さんがいなくなった、教室。陸が窓に寄りかかる。
「で、美月ちゃんの引越し先って……なんていったっけ」
「スイリベール」
「そうそう、それ。なんだっけ、国の保護の下で生活させてもらってるんだっけ? なんか、日本にいるより却って待遇良くなってない?」
陸の言うとおり、それは俺も思っていた。日原さんに巨大な恩があるアンフェールは、今後日本で暮らしにくくなるであろう日原さんを気にかけ、自国に招いたのだ。
空港にはアンフェールの付き人であるフラムが直々に迎えに上がり、しかも今後の生活の面倒を見てくれるというのだから、今頃日原さんは、これまで以上にロイヤルな暮らしを送っているのかもしれない。
日原さんとは違って、本当になにもかもを失った人物もいる。市議会委員、安井幸高だ。
彼の不正を知った新聞社は口止めされていたが、記者は記事にしない代わりに情報を他の政治家に売っていたらしい。悪評が広まった安井は立場を失い、消えていった。……と、親父から聞いている。
散々悪さしてきたのだから、日原院長の横領と同じように全国じゅうの晒し者になってもまだ甘いと思ったのだが、親父曰く、派手な報復ほど難しく、上手く揉み消されてしまうのだという。だからこうしてじわじわ消されて居場所を失うのがいちばん効果的なのだと、あの猫撫で声で言っていた。
陸と話していると、廊下からひょこっと、ストロベリーブロンドの頭が顔を出した。
「りっくちゃーん。約束どおり持ってきたわよ、手作りマフィン」
かわいらしい箱を携えた、ラルである。陸がぱっと顔を輝かせた。
「お! やった。本当に作ってくれたんだ」
「当たり前じゃない。こういうお菓子で簡単に釣れる男、大好きだもの」
教室に入ってきたラルは、箱の角でちょんと陸の胸をつついた。ふたりのやりとりを眺め、俺は頬杖をつく。
「仲良いなあ。ラルも堂々と本音言う」
「あら。咲夜くんたら妬いてるの? かわいいわね」
「別に……」
ただ、仲が良いなと思っただけだ。最初は陸を騙そうとしていたはずのラルがこんなふうになって、そうなったラルを陸が受け止めている。良い関係だな、と思っているだけ。
陸がふと、思い出したように言った。
「そういやキルはどうしてんの? あいつ、美月ちゃんを狙うために咲夜の家に潜伏してたんだろ。美月ちゃんがいなくなった今、咲夜のとこにいる意味なくない?」
「そうなんだよな。今のところ、まだうちにいるけど。そのうちいなくなるのかもな」
俺が雑に返事をすると、ラルが口を挟んだ。
「あら、本人から聞いてない? あの子、そろそろ次の仕事に出発するわよ」
「え、そうなの?」
全然知らなかった。今朝まで普段どおりだったし、なんの説明もない。だが陸は、キルより今目の前にいる女の子の方が気になるようだった。
「じゃ、ラルちゃんも? たしかキルの手伝いで来てるんだろ。キルがどっか行くなら、ラルちゃんも次の仕事に行っちゃうのか?」
「そうねえ。ん? もしかして陸ちゃん、私が他の男を誑かしに行くのが寂しいの?」
ラルはいたずらっぽく笑って、陸に擦り寄った。
「残念。私はあなただけのものじゃないの。誰にだってこうなの。そういう女よ」
「知ってる」
陸は一切の動揺も見せず、はっきりと言った。
「知ってるけど、やっぱ嫌だ。ラルちゃんが俺以外の男に擦り寄るのがって意味じゃなくて、ラルちゃんが自分を大事にしないのが」
「は?」
ラルが目をぱちくりさせる。陸は変わらず、真っ直ぐな目で言った。
「好きでやってる仕事かもしれないから、お節介だろうけどさ。ラルちゃんって相手の欲しい言葉を上手に当てて、人に優しくするだろ」
「そうね。そうするのが人の懐に入るにはいちばん都合が良いから」
「それってちゃんと周りの人をよく見てる、人の気持ちに敏感な人じゃないとできないことなんだよ。実際ラルちゃんって、仕事とか関係なく、気遣いできる人だろ?」
陸がマフィンの箱を掲げてみせる。
「折角こんなに良い子なんだから、こんな形で消耗するの、勿体ないと思う。ラルちゃんはもっと、幸せになるべきだ」
陸のそのストレートな言葉に、横で聞いているだけの俺ですら面食らった。モロに食らったラルは、数秒固まったあと、かあっと顔を赤くして、一歩後ずさりした。
「な、なによ今更。私は人を殺してるのよ。あんたたちとは違うの」
余程動揺したのか、無関係の生徒がいる教室だというのに、ラルはそんなことを口走った。周囲の生徒のうち何人かは振り向いたが、聞き間違いだと思ったのか、すぐにラルから気を逸らす。陸はラルと視線を結んだまま、やはりはっきりと返した。
「違わない。境遇は違うかもしれないけど、幸せになっちゃいけないわけじゃない。そこは同じだろ」
「な、なんね……なに言うとん?」
追い詰められたラルから、方言が漏れ出す。優しくされるのに慣れていないラルは、困るとキャラを保てなくなる。そんな彼女の赤い頬を、陸はじっと見ていた。
「こういうこと言われるの、うぜーって言ってたよな。それも知ってる。俺のことも今までどおり騙してもいい。好きなだけ見下してもいいから。でも、自分を大事にするのは、忘れないで」
陸に見つめられたラルは、耳まで真っ赤にして固まっていた。彼の視線から逃げるように少し仰け反っているけれど、もう一歩も動けなくなっている。
やがてラルは、ばっと顔を手で覆って、いきなり陸に背を向けた。
「なんなんね! あんたみたいにゃ騙くらかしてもなんのメリットもない奴、騙さんね!」
方言丸出しになったラルは、廊下へと駆け出していき、もう戻ってこなかった。陸はマフィンの箱を抱えて、真顔で廊下を見ている。俺は、その横顔に呟いた。
「かっこいい……」
「かっこつけすぎたかな?」
陸が真顔のまま問うてくる。俺はいや、と首を横に振った。
「それくらいでいいと思う。あいつ、自分ばっかり他人に対しては甘い言葉吐いてるから。たまにはラルも食らえばいい」
というのもあったし、陸の言葉には、俺も同意だったからだ。
*
学校からの帰り道、買い物をして、自宅に向かう。空気がひんやり冷たい。もうすぐ、冬が来る。
家の玄関を開けると、なにやらキルがダンボール箱を並べていた。
「お帰り。今日の夕飯、ハンバーグ?」
「うん、キルのリクエストどおり」
「えっへへ。楽しみ」
キルがにこっと笑う。吊り上がった口角から、尖った犬歯が覗いた。俺は彼女が手をつく箱に目をやった。
「その箱は? 巣立ちの荷造りか?」
「そうだよ。次の仕事はなんと北海道だ。これからの季節、寒そうだな。でも、おいしいものいっぱいありそう」
しれっと答えられた。そうか、やはりラルが言っていたとおり、キルは次の仕事に向かうのか。俺になにも伝えてないあたり、こいつは結構ドライだ。でもそれに大して驚かない俺も、大概だろう。
玄関を上がってキッチンに向かうと、キルもついてきた。
「そうだサク、さっきラルに会ったら、なんか変になってたんだけど。お前、りっくんがラルになにしたか知ってる?」
「え……」
説明しようとしたが、陸の台詞を真似するのはちょっと恥ずかしくて、言えなかった。
「俺の口から言うのも憚られるようなことをしていた」
「なんだって! あの超絶ハンター肉食女が、おぼこい生娘のようになり果てた……りっくん、恐ろしい奴だ。やっぱりあいつはスイリベールの刺客に違いない」
「それは違うけど」
買ってきた食材を冷蔵庫に突っ込む。キルは俺の足元で、こちらを見上げていた。
「ラル、今後もバリバリ仕事をこなしつつも、ちょっと身の振り考えようかなとか言ってんの。あいつらしくもない」
「ふうん。でも、それならそれで良いよな。俺もラルには無理しないでほしい」
「まあ、それはそう」
ちょっと不服そうだったキルも、それは認めた。こいつもちゃんとラルを心配するくらいの友情があるんだなあと、今更ながら思った。
「俺は人殺しには反対だけど、陸とラルみたいな距離感、アリかもしれないな」
「というと?」
「なんだろう。協力はしないけど否定もしない、個人の尊厳は尊重する、みたいな」
俺が徐ろに言うと、キルは不思議そうにはあ、と相槌を打った。
「サクと私だって、そうじゃん」
「え……あ、たしかに」
言われて気づいたが、そういえば俺とキルは、お互いの足を引っ張り合いつつも、仲良く暮らしている。こいつの仕事は大嫌いだが、キルそのものは嫌いではない。キルも多分、俺に対してそう思っている。
客観的に見て良いなと感じた、陸とラルの関係。知らないうちに、俺もキルとそうなっていたのか。キルが荷物をまとめた日に気づくなんて、皮肉なものだ。
俺が冷蔵庫に入れるひき肉を見て、キルがぴんと背筋を伸ばした。
「お? なんか今日、お肉多め?」
「普通に五人分だよ」
「五人? ミスターならもういないぞ」
キルに告げられ、俺は彼女の顔を二度見した。
「は!? 親父、いないの?」
「うん。サクが学校行ってる間に次の仕事で、どこだかの国へ」
「急だな。材料多く用意しちゃったよ」
全く、夕飯の仕度をする俺の身にもなってほしい。ため息をつくと、キルはにんまり笑った。
「じゃあ、ミスターの分まで私が食べる。それで解決だろ」
「よく食べるなあ、お前は」
冷蔵庫をぱたんと閉じる。リビングに向かう俺に、キルはぴょこぴょこついてきた。
「あのな、ミスター、今度の仕事には古賀ちゃん連れてったんだよ」
「そうなの?」
びっくりして振り返ると、キルはうんうんと繰り返し頷いた。
「文化祭の一件以来、すっかり古賀ちゃんを気に入ったみたい。単にあの諜報能力を高く評価してるのもあるんでしょうけど。次の仕事で、自分が情報収集しなきゃならないとこで古賀ちゃんを使って、効率を試すんだって。上手くいくようなら、そのまま右腕にしちゃおうくらい言ってたぞ」
「ええ……でも先生って、反右崎派から急に寝返った立場だよな?」
「ね。そんなの傍に置いとくなんて、私がミスターの立場だったらしないけど。けどミスターの勘は鋭いからな。古賀ちゃんはもう自分の手札として置いても問題ないって判断したんでしょうね」
キルがぽすっと、ソファに腰を下ろす。俺は先生に同情した。
「これからはカウンセラー業メインで平和に生きていくって……夢を語ってたのに。そうでなくてもあの個性の親父と同行なんて、息子の俺でも絶対に嫌だ」
「かわいそうだよな。カウンセリングルームから引きずり出すときも、すんごい抵抗したそうだ」
キルでさえ、気の毒そうに顔を顰める。あの人、とことん不憫だ。先生には酷い目にも遭わされたが、罰にしては厳しすぎる。
彼を巻き添えにした、親父の行動の突飛さには驚いた。でも、その突飛に見える振る舞いを、理解できなくもない。
古賀先生はかつて俺とキルを殺そうとしていた人だ。親父はあえて自分の傍に先生を拘束して、俺やキルに近づけさせないようにしている……のかもしれない。この頃はなんとなく、親父の「そういうところ」が分かるようになってきた。かといって、好きには全然ならないけれど。
キルに並んでソファに座った俺は、鞄から一枚のプリントを取り出した。
「親父がいるうちに相談しようと思ってたんだけど、いないならもういいや。ばあちゃんと話そう」
「なになに?」
キルが俺の肩に手を乗せ、プリントを覗き込んでくる。頬同士が触れそうなくらいの距離だ。人懐っこい犬みたいである。
「進路希望調査? なに? 高校卒業後にどうするかって話?」
肩に置かれた手が温かい。いつも嵌めている絶縁手袋をつけていないせいか、キルの手がやけに小さく、柔らかく感じる。
「そう。どうしよっかな。一応、進学のつもりではいるけど」
プリントの真ん中辺りに並ぶ、「進学」と「就職」の文字を眺め、考えているふりをする。キルには相談していないのに、彼女は案を出しはじめた。
「就職もアリじゃないか? 学校に通いながらできる仕事もあるぞ」
「ほう」
「活動時間は自分の都合で好きにしてよしのフレキシブル。軽い運動にもなるし、サクの特技も活かせる。暗殺者という仕事なんだけど」
そんなことだろうと思った。
「やるわけねーだろ」
「あーあ、そうやってお前は霧雨サニの遺伝子を無駄にする」
肩に乗せたキルの手に、ぎゅっと力が入る。小さい手のくせに、俺の肩をボキボキ言わせた。
「いててて。けど俺はその霧雨サニの言いつけを守って、命を慈しんでるだよ。暗殺者の才能は無駄にしても、母さんが遺してくれたこの精神は生涯大事にするつもりだ」
はっきり言うと、キルは攻撃をやめてふうんと鼻を鳴らした。
「まあ、サクはサニじゃなくてサクだもんな。その方がサクらしいよな。ていうか、サクがお母さんとの約束破って暗殺始めたら、なんか幻滅するわ」
「どっちなんだよ、お前」
あんなに俺を暗殺者にしたがっていたくせに、急に気が変わったのか、キルは妙に納得していた。
俺は再び、改めて、プリントに向き直る。
「就職もいいんだけど、家から通える大学に行きたいなとは思ってる」
キルも同じく、プリントに目を戻した。
「それ、前にも言ってたな。けど、ミスターも総裁も、まひるをおばあちゃんに任せて上京しても大丈夫だって言ってた。家のことなら心配しなくてもいいんじゃないか?」
「そうじゃなくて。俺がここにいないと、キルが帰ってきたとき、ごはん用意してやれないだろ」
「はあ、うん。うん?」
キルが一旦頷いてから、首を傾げる。俺はプリントを半分に折り畳んだ。
「俺はここにいるからさ。だから、どこに行っても、たまには飯食べにでも帰ってこい。ここ、お前ん家なんだから」
「お?」
俺の言葉が意外だったのか、キルはきょとんとしていた。
「私の、家」
「だって、キルはうちのペットだろ」
肩に乗った小さな手の体温が、少し上がった。俺はちらっと、彼女の目を覗き込む。
「家族という枠組みでいうと、ペット以外に枠がないから、ペットでいいよな。血縁があるわけでも、正式に扶養に入ってるわけでもないんだから」
「あー、うん」
キルの横顔が、少し赤く色づく。彼女はふにゃっと、照れくさそうに笑った。
「そうだな、うん。しょうがないな。ごはん食べに、帰ってきてやるよ」
そんな顔をされたら、なんだか俺まで頬が熱くなってくる。家族に対して、帰る家があるのだから帰ってこいと、普通のことを言っただけなのに。
俺、朝見咲夜は、善良な高校二年生である。ただし、自宅で暗殺者を飼っている。
多分、この先も。高校生ではなくなっても、もう少し大人になっても。こいつがどこかへ行っても、帰ってきてくれるかぎりは。
俺は、暗殺者を飼っている。
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