12.最終決戦はド派手にぶちかませ。

 見慣れているはずの学校も、今日はテーマパークみたいに見える。校舎の屋上辺りに赤と白の縞模様のアドバルーンが浮かび、「学園祭」と書かれた垂れ幕をふわふわ靡かせていた。

 校門の傍ではカラフルな風船で飾られて、そこかしこに並んだ屋台から売り子の声が飛び交う。いい匂いを漂わせる焼きそばの屋台の横で、着ぐるみ姿の演劇部員が昼過ぎの舞台のチラシを配る。

 他校の制服を見たかと思うと、見学に来たらしき中学生もいて、この混沌とした様子に胸がわくわくした。


 いつもより早い時間に登校してきた俺たち在校生は、自分のクラスや部活の出し物の最終確認をして、それぞれの店をオープンさせた。

 午後の調理係である俺は、すぐには仕事は始まらないが、まずは教室に出向いて喫茶メニューの準備をしていた。ホール係が仮装して現れる。かぼちゃの被り物を頭に嵌めた男子、キョンシー衣装にエプロンをかけた女子と、なかなか混沌としている。

 顔を隠したりメイクで変わっていたりしてもはや誰が誰だか分からないが、どうやらかぼちゃは出席番号でトリを務める山本で、キョンシーはその彼女の谷川さんらしい。


 文化祭の招待券は、各生徒に五枚ずつ配られている。他の学校の友達に配る人も多いが、俺はまひると、まひるの友達一家、もう一枚はキルにあげた。

 本当はまひるとばあちゃんに渡すつもりだったが、ばあちゃんはまだ帰ってこない。ちょうどまひるがよく一緒に遊んでいる子の家族が興味を持ってくれたので、そこの家族とともにまひるは遊びに来ることになった。キルはというと、早くも俺の教室に姿を現していた。


「サク、仕事午後からだよな? じゃ、早速焼きそば食べに行こう。そのために私は今日、朝ごはんを控えめにしてきたんだ」


 オープンしたての喫茶店になった、我が教室。廊下の窓から教室を覗き込んで、俺を急かしてくる。自由時間になった俺は、廊下へ出た。


「お待たせ。朝ごはん控えめって言ったって、トーストとサラダとスープがっつり食べてたじゃねえか。いつもならそこにヨーグルトがつくだけで」


「ヨーグルトを我慢してるんだぞ!? 私の熱意が伝わるだろ」


 暗殺者であることさえ忘れれば、キルは人懐っこくて食欲旺盛な同居人である。この状態のキルとなら、文化祭を、というか主に文化祭フードを、存分に楽しめそうだ。

 まずはキルの所望どおり、焼きそばの屋台へ出向く。校舎の外に大きなのぼりを出して、香ばしい匂いを広げている。サッカー部たちに混じって、陸も売り子をしていた。そしてなぜか、その横には黒い猫耳をつけたラルまでいる。


「あれ? ラル、午前中のシフトじゃなかったか? こんなとこにいていいのか?」


 焼きそばをふたり分受け取りつつ聞くと、ラルはわざとらしく陸にくっついた。


「だって、誰も来なくて暇だったんだもん。呼び込みに行くっていう口実で、教室から抜けてきちゃった。ここで陸ちゃんを構ってる方が面白いわ」


 そうだった。この学校の文化祭は、これくらい自由気ままなのだった。約束を守ってシフトどおりに出るつもりだった俺は、ラルの様子に眉を顰めた。それを見てか、今度は陸が答えた。


「口実を作ってる分、ラルちゃんは真面目な方だよ。本来ここで焼きそば売るはずだった奴、俺にこの仕事押し付けて自分は彼女とデートに行っちゃったぞ」


「そうよ、最低でしょ? でもこうして陸ちゃんを労ってる私は、その人の彼女より一億倍いい女。これで吊り合うくらいじゃない」


 その理屈はめちゃくちゃだとは思うが、今更どうにかできる秩序ではない。キルが俺の手から、焼きそばのパックを取る。


「そんじゃさ、サクも午後のシフトサボっちゃおうよ。そしたらもっといろんなものいっぱい食べられるぞ」


「俺は善良で真面目な生徒なので、そんなことしません」


「お堅い奴だな。そんなんだから『善良がすぎる』って言われるのに」


 キルは早速割り箸を割り、焼きそばを食べはじめた。俺はキルの肩を押して、屋台の脇のベンチに座らせる。


「こら、歩きながら食べるのは危ないって前にも言ったろ。ちゃんと座って、じっくり味わって食べなさい」


「お前は私のお兄ちゃんか?」


「飼い主だよ」


 キルが改めて、焼きそばに箸を突っ込む。立ち上る湯気にはふはふと息を吹きかけて、箸を口に運んだ。できたての焼きそばを口に含み、キルは頬を赤らめて仰け反った。


「んー! これよこれ。おうちで食べる焼きそばとも、お店で食べる焼きそばとも違う、この屋台の味!」


 キルの反応は、なにを食べていてもおいしそうに見える。俺も自分の分のパックを開けて、ひと口、麺を取った。

 味は、普通だ。リアクションしづらいくらい、特別おいしくもまずくもない。だが、これこそキルのいうとおり、求めていた「屋台の味」だ。甘辛いソースの匂いが、食欲を掻き立てる。端っこの紅生姜がいいアクセントになって、箸が止まらない。冬が近づいてきた冷たい空気に包まれて食べるあつあつの焼きそばは、平凡で、それなのにどことなく特別だった。

 食べ終わる前に、キルが背中を真っ直ぐに伸ばした。


「あ! サク! あそこにキッチンカーがいるぞ。あれはなんだ!」


「ああ、外部から委託で出店してきてるクレープの店だな」


 俺が言い終わる前に、キルは焼きそば片手にすでに走り出していた。


「早くしないと売り切れて引き上げてしまう!」


「そんなにすぐには売り切れないから! こら! 走らない!」


 暗殺者であることさえ忘れれば、キルは人懐っこくて食欲旺盛な同居人……だが、キルの動きの素早さはやはり暗殺者だ。これの飼い主は、楽ではない。


 *


 クレープを買った次はチョコバナナ、ポテト、それからたこ焼きとフランクフルトと料理研究部の手作りパンとクッキーまで制覇して、キルはご満悦だった。俺は途中からそんなに食べきれなくなり、ポテトあたりから単にキルに付き合って店を回っているだけになっている。

 パンの入った手提げ袋を片手にご満悦のキルが、廊下を軽い足取りで歩く。演劇部の気ぐるみが、劇の時間を書いた看板を持って歩いている。うちのクラス同様に仮装して出店しているクラスの生徒が、メイドの格好で宣伝して練り歩く。

 華やかに飾られた廊下、賑やかな祭りの喧騒の中では、白い犬耳フードのキルも、風景の一部としてよく馴染んでいた。


「すっげーな、文化祭」


 キルがご機嫌な声で言う。


「これなら、私が気ぐるみに入って美月に近づいて殺しても、私だと気づかれない」


「急に不穏なこと言うなよ」


「はいはい、殺んないよ。ミスターからも、引き継がれる新しいエージェントからも、なんの連絡もないし」


 キルのその投げやりな声に、俺は一瞬、心が曇った。文化祭の独特な空気と、楽しげなキルに当てられて、少し、気が紛れていたのだけれど。


「親父、どうしてるのかな」


「知らない。連絡、ないから」


「引継ぎしてるっていうなら、まだ生きてはいるのかな」


「さあ」


 生徒たちの笑い声と、呼び込みの元気な声が、廊下を満たしている。キルは手提げ袋から、メロンパンを取り出して、包みを破いた。


「そういやサクには言ってなかったけどさ。昨日、総裁から電話があってね。この件を引き継ぐ新しいエージェント、二択でどっちがいいか訊かれた。『塩谷糖次郎』って奴か、『茄子トマト』って奴か」


「……へえ」


「どっちも知らん人だったから、優秀な方がいいって答えた。総裁、『どっちも同じくらいなのよね』なんて言ってたよ」


 新しい名前を聞かされて、妙に実感した。「右崎左門」は、もういないのだと。キルが俯く。


「本当は私は、どっちも嫌だ。ミスター右崎がいい。あんなに仕事のできるエージェント、右崎の他にいないもん」


 悲しくて俯いたのかと思いきや、彼女は単に、メロンパンに口を近づけただけだった。こちらを見上げた顔は、案外、寂しそうでもなく無表情だった。


「言っても仕方ないけどな。フクロウはそういう組織だ。お互い、いついなくなるか分からない覚悟で接してる。そういう割り切った関係だからな」


「お前らはそうでも、俺からすれば、右崎は父親だから、キルのようには割り切れないかな」


「そうだな、いくら仲悪い……っていうか、サクが一方的に苦手意識持ってても、親子なんだもんね」


 キルがまたひと口、メロンパンをかじる。


「私には、そういう家族がいないけど……」


「あー……」


 そういえば、小学生くらいの歳だったキルを拾ったのは、親父だ。そしてフクロウが教育施設となり、彼女をここまで育てた。キルにとっても、右崎は父親代わりだったのかもしれない。

 だったらキルだって、俺と変わらないのではないか。同じくらい、割り切れないのではないか。

 でもきっと今、俺がそう言うのは無粋だ。冷酷な暗殺者として事実を受け入れようとしているキルに、水を差してしまう。


「って、食べ歩きは行儀が悪いからやめろ。さっきも言ったろ、食べるときはどこかに座りなさい」


 俺が注意すると、キルは口にメロンパンのクッキー生地をくっつけて言い返してきた。


「暗殺者は機動力が命。食べ歩きくらい普段からするんだよ。私はプロだから、味もしっかり楽しんでる」


「そういう話じゃない。お行儀が悪いと言っている!」


 廊下の端でギャーギャー揉めていると、ふいに、キルがはたと黙った。それから彼女は耳に手を当て、なにやら喋り出す。


「はい? ……え、マジで?」


 通信機に、誰からか連絡が入ったみたいだ。言い合いが中断され、俺は口を半開きのまま、キルの通話が終わるのを待った。今のうちにメロンパンを取り上げてやろうかなどと考えていると、後ろから同じクラスの平尾に肩を叩かれた。


「朝見! お前、暇? 今、クラスの喫茶店がハチャメチャに忙しいんだ。ヘルプに入ってくれないか?」


 エプロン姿の平尾が、早口に告げてくる。俺は困惑しつつ、揃えるみたいに早口になった。


「そんなに大盛況なのか?」


「うん。日原さんの仮装があまりにもきれいすぎて、口コミで評判が広がってな。それなのに皆、シフト無視して自由にいなくなるもんだから、人手不足でさ。すまん、朝見。お前が午後のシフトなのは分かってるんだけど、来てくれないか?」


 日原さんが呼び水になるのは仕方ないが、せめてシフトが守られていれば、ここまで窮地になることもないだろうに。

 俺はちらっと、キルの様子を確認した。約束より少し早いけれど、ここまでだと伝えたい。キルはまだ真剣な顔をして通話中で、話しかけられない。しかしキルも俺と平尾の会話が聞こえていたようで、頷いて、俺に「早く行け」と手で合図した。俺もキルに頷き、平尾を振り返った。


「分かった、行く。陸も呼ぶ? あいつ、本来出なくていい部活の屋台に借り出されてるぞ」


「そうだな、連絡してみるか」


 俺は平尾とともに、自分のクラスに向かって駆け足をした。

 そのとき、通話中のキルの声が、耳に入った。


「たしかに、今日は絶好の機会だ。私も、美月を殺すなら今日だと思っちゃいたが……そうか、いいんだな?」


 喧騒の中、断片的に拾っただけだ。でも、「美月」という名前が聞こえた気がする。

 キルが日原さんに、なにかしようとしている?

 通信の相手が誰かまでは分からないが、明らかに、なにか動いた。キルが通信を切り、ぽてぽて歩き出した。俺はキルの背中を追いかけようとしたが、その前に、平尾に急かされ、教室へと引っ張られた。


 *


 うちのクラスの喫茶店は、廊下まで人が並んでいた。日原さんがきれいなのもあるだろうが、そろそろ昼前の時刻、休憩がてらにお茶したい人が溢れる時間帯だ。

 ぱっと見ただけでも、 ホールは事前に決めたはずの人数より、明らかに少ない数のスタッフで回っていた。狼男のつもりなのか、白い狼の着ぐるみで顔まで隠したウェイターと、フランケンシュタインの怪物風に頭にネジの帽子を被ったウェイトレスと、あと数名がくるくる動き回っている。


 厨房に入ろうとしたとき、俺はホールの一角に圧倒的なオーラを見た。

 桃色の染みを散らした、破けたウェディングドレス。まとめた黒髪は陽光のようなベールに包まれ、艶やかに光る。きゅっと絞られた腰から足元にかけて広がるスカートには、赤い絵の具が染み込んだ白いバラの花の装飾が並ぶ。雪のような滑らかな頬には、火傷のあとのようなペイントが施されている。

 ゾンビの花嫁に扮した、日原さんだった。


「うわ……マジできれいだ」


 思わず陳腐な感想を洩らすと、平尾はこくこくと頷いたし、厨房に控えていた、ふたりしか残っていない調理係たちも同じく頷いた。平尾が俺にエプロンを差し出す。


「日原さん、他校の生徒二、三人からナンパされてた。全部笑ってかわしてたけど」


 日原さんはキルの攻撃を全て避けるディフェンス力の持ち主だが、ナンパもかわせるらしい。

 調理係は俺と平尾を足しても四人、ホール係は五人だった。日原さんの他には、日原さんの次によく目立つ白い狼の着ぐるみ、ネジの刺さった帽子、あとはかぼちゃの被り物がいるのと、顔をペイントしてもはや誰だか分からない、黄色いアフロのピエロがいた。


 めまぐるしく動き回る日原さんに、オーダーが入る。俺は準備したオムライスを日原さんに受け渡した。彼女の後ろを、客や別のホール係が横切る。そのとき、ふっと風が吹き、日原さんの髪を包んだベールが横に流れた。


 オムライスを載せた盆を持って、日原さんが俺に背を向ける。後ろ姿を見て、俺は彼女のベールがざっくり破けているのに気づいた。背中に垂れ下がる部分が、まるで口を開けるかのように、真っ直ぐ水平に、真ん中だけ切り裂かれている。

 彼女の衣装は、ゾンビの花嫁だ。衣装は敢えてぼろぼろになっているし、ベールが敗れていても仕様かもしれない。でも、先程見たときは、こんな破れ方はしていなかった。

 たくさん動いているから、どこかに引っ掛けて破けたのだろうか。いや、それならこんなにすっぱりと直線に切れるわけがない。

 こんな、まるで、キルのナイフで切り裂かれたみたいな。


 オムライスをテーブルに運び、日原さんは他のテーブルから空いた食器を持って厨房に向かってきた。受け取った俺は、またハッとした。今度は、彼女の腰の辺りにあったはずのバラの飾りが、明らかに減っている。それも、斜めにすぱっと切れているのだ。花の縫い付けが甘くて落ちてしまったのではない。

 衣装が徐々に壊れている。それも、なにか刃物のようなもので、少しずつ切り取られている。

 それに気づいた俺は、厨房から顔を出し、日原さんを目で追った。狼の着ぐるみが、新しい客を案内して、席に誘導する。客が日原さんの傍を横切る。ピエロのウェイターの脇で、日原さんが別の客のオーダーを取る。彼女の後ろを、かぼちゃ頭が通る。オーダーを取った日原さんが、こちらに向かってきた。


「ミックスサンドふたつと、コーヒーとオレンジジュース、お願いします!」

 そう言った彼女は、スカートの端が不自然に切れていた。

 誰だ。俺は客に目を走らせた。誰かが刃物を持ち込んでいる。少しずつ、日原さんを傷つけている奴が、この中にいる。日原さんに気づかれてはいないが。

 日原さんが行き来するテーブルにいる男の手元で、銀色の刃がきらっと光った。咄嗟にそちらを見たが、あれはメニューのパンにマーガリンを塗るバターナイフだ。その傍のテーブルには、鞄からハサミを出した中学生がいる。学校見学の資料についていたクーポンでも切り離しているのか、持ち出した紙に刃を立てている。

 心臓がどくどくしている。どいつもこいつも怪しく見える。

 調理係のクラスメイトが、俺の背後で笑う。


「朝見、日原さん見すぎ!」


 こちらはそれどころではない。頭の中に蘇る、別れる直前のキルの通話。


『たしかに、今日は絶好の機会だ。私も、美月を殺すなら今日だと思っちゃいたが……そうか、いいんだな?』


 キルはこれまで、日原さん暗殺の業務を停止させられていた。だから安心していたが、もしかしてあの電話が、再開のサインだったのか。

 店内を見渡しても、客の中にキルはいない。協力者になりそうなラルや古賀先生、シエルも見当たらない。

 厨房に陸が入ってきた。


「よう、大忙しだな。なんだ咲夜、美月ちゃんに見とれてる?」


 陸の他にも、同じクラスの仲間がふたりと、なぜかサッカー部の先輩も援軍に来ている。これで四人補充された。厨房とホールにふたりずつ増やせる。


「先輩、協力ありがとうっす」


 陸がサッカー部の先輩にお礼を言うと、コーヒーの仕度をしていた平尾が、先輩を横目に言った。


「こうやって別のクラスと学年からも協力者が来るんだもん、うちの学校の文化祭、カオスだよな。ホール手伝ってるやってるかぼちゃ頭の奴、うちの後輩だし」


「マジ? あのかぼちゃ、山本のじゃなかった?」


 陸がホールを一瞥する。平尾はため息混じりに頷いた。


「そうなんだけど、山本は早々にどっか行ったから、代わりにあいつが被ってるんだよ」


 この学校の自由な校風のせいだ。本来はクラスの山本の仮装だったはずのかぼちゃを、全く別の人が被って、ホールを手伝っている。陸がグラスを用意しつつ笑う。


「へえ、じゃ、あのピエロメイクは誰? もはや誰だか分かんないんだけど」


「ああ、誰だろうな? 俺が来たときにはすでにいたから分からないな」


 平尾が雑に返事をする。俺はそれを聞いて、再びホールに目をやった。

 かぼちゃ頭の中身が、本来いるべきクラスメイトではない。顔が見えなければ、誰だか分からない。考えてみたら、狼の着ぐるみも、ピエロも、顔が見えない。

 変装マスクや、フクロウの仮装パーティを想起させる。なにが潜んでいても、おかしくない。

 日原さんのウェディングドレスがひらりと揺れる。彼女の横を通った狼の爪が、光った。しかしその瞬間、遠くのテーブルで、若い男性客が手を上げた。


「すみませーん、オーダーお願いします」


「はーい!」


 日原さんがくるっと向きを変えると、触れそうだった狼の爪の先がスカッと宙を掻いた。日原さんは呼ぶ客の席へと向かっていく。彼女の傍を、食器を回収したピエロが通り過ぎる。そいつが手に束ねて持っていたバターナイフが、日原さんに掠りそうになる。いや、あれはバターナイフではない。一瞬見間違えたが、キルが携帯しているようなダガーナイフだ。

 日原さんをオーダーに呼んだ客が、彼女の手首を掴んだ。


「君、かわいいね。もっとよく顔を見せてよ」


 強引に引き寄せられた日原さんが、びくっと身じろぎする。


「えっ、ごめんなさい、困ります。やめてください」


 客に掴まれて動けない彼女を、狼とピエロがちらっと見た。厨房もざわつく。


「うわ、迷惑な客! あれは流石の日原さんでも笑って流せないだろ」


「俺、注意してくる」


 陸が用意していた料理を途中で放棄して、ホールへ出ようとする。背が高くて筋肉質な陸が行けば、迷惑客も怯むだろう。

 だが、陸より先にホールへ飛び出していたのは、俺だった。

 陸の脇をすり抜けた俺の背中に、陸の声が響く。


「咲夜!?」


 ここは危険すぎる。日原さんの命を狙う輩が、確実に潜んでいる。顔を見せない狼も、ピエロも、あの迷惑客も、グルだ。

 日原さんが引き止められている、若い男のテーブルに駆けつける。日原さんが泣きそうな顔で俺を振り返った。俺は、客の顔もろくに見ず、声もかけず、日原さんの腕を掴んだ。


「ひゃっ……」


 日原さんの短い悲鳴を聞いた気がした。

 彼女の腕を取った瞬間、俺は廊下に向かって走り出した。勢いに弾かれて、客の男が手を離す。日原さんは、長いドレスの裾を引きずって、もつれた足で俺に引っ張られた。


「朝見くん!? 待って!」


 日原さんが叫んでも、店内の客の視線が集中しても、厨房の調理担当たちが絶句しても、気にしない。俺は日原さんの腕を引いて教室を飛び出し、相変わらず賑やかな廊下を一気に駆け抜けた。


「朝見くん!」


 困惑した日原さんが俺を呼ぶ。そして直後、彼女はきゃっと悲鳴を上げた。


「追ってきてる」


 その言葉に、俺もちらっと後ろを振り向いた。

 俺たちが飛び出した教室から、狼の着ぐるみとピエロと、それからいくつかのテーブルにばらばらに座っていた客が数人、こちらに向かってくる。

 俺は再び前を向いて、ただ廊下を走った。


「あんなにいたのかよ……!」


 やっぱりだ。あの喫茶店の中には、日原さんの命を狙う暗殺者が潜んでいた。しかもちょっと、想定より多い。

 ぼろぼろのウェディングドレスからちぎれた花を散らし、廊下を駆け抜ける美少女。その手を引くのは、制服にエプロン姿の平凡な男子生徒。謎の追手。夢中で走る俺たちを見て、廊下ですれ違う人々が、目を丸くする。


「なになに? イベント?」


「あっちの喫茶店からだ。行ってみよ」


 混沌とした文化祭の風景の中では、一種の催し物に見えるのかもしれない。

 行く手にピンクのウサギの着ぐるみがいる。演劇部の看板を携えているが、そいつは日原さんの姿を見るなり、看板をすっと下げた。

 生気のないボタンの目でこちらを見据え、ウサギの手の形をした手袋を外す。このウサギとすれ違う瞬間、俺は日原さんの腕を強く引いて、自分の方へ抱き寄せた。日原さんの短い悲鳴とともに、頭のベールが引き裂かれる。ウサギの手には、細身のナイフが握られていた。

 ナイフは深めに掠ったらしい。日原さんのベールがはらっと舞い、まとめていた髪が解けた。長い黒髪が広がり、廊下に差す陽光を受けて煌めく。

 流石の日原さんも、もう自分が狙われている現実に気づいている。不安げな声で、俺に尋ねてきた。


「今の……なに?」


「日原さんの命を狙ってる奴ら」


 俺ももう、濁すのはやめた。


「文化祭を利用してあちこちに紛れてる。逃げるぞ」


 どこまで逃げれば安全かなんて、分からない。でも、後ろから追いかけられている以上は、立ち止まれない。

 日原さんも時々つんのめりながら、それでも足を止めずに走った。いつの間にか靴が脱げてしまったようで、彼女は裸足で走っていた。


 廊下を突き当たりまで走ると、奥の階段が見えてきた。学校の外へ逃げたくて、下へ降りようとしたのだが、下からはぞろぞろと集団が上ってきている。紙袋を被ってチェーンソーを抱えた男や、フードも目深に被って手にメリケンサックをつけた女も混じっている。どこかのクラスの仮装かもしれないが、本物かもしれない。いずれにせよ、上に逃げるしかない。

 日原さんは息を切らしながらも、抵抗せず俺についてきた。


「朝見くん、私、昨日、朝見くんに話したいことがあるって言ったでしょ?」


「今?」


 それどころではないのだが、日原さんは掠れた声で続けた。


「前に朝見くん、何度か、キルちゃんが私を狙う暗殺者だって、話してくれたよね。それを聞くたびに、私、『そういう遊び』って受け止めてたけど……実はもしかしたら、本当なのかもって思ってたの」


 廊下を駆け上がると、日原さんの長いドレスが鬱陶しく広がる。歩いていた生徒たちは、驚いて端に寄り、道を空けた。


「だって、私のお父さんは、そういう人だから。たくさんの恨みを買って、たくさんの人から攻撃される人だから。やけにセキュリティの厚い家も、決められた交友関係も、全部、おかしい。娘の私は関係ないなんて、ありえないって……本当はちゃんと分かってた」


 日原さんの声が、荒い息遣いの合間、途切れ途切れに俺に訴えてくる。


「でも、怖かったの。認めてしまったら、もう全てに怯えて生きていかなくちゃならないから。目を瞑っていれば、気づかないふりをしていれば、私は悪くないって思えたから」


「日原さんは悪くないんだ。悪いのは全部、日原さんを利用する悪い大人たちで、日原さんはなにひとつ悪くない。だから、逃げ切らなくちゃいけないんだ!」


 階段に、日原さんのドレスから落ちた花が点々としている。追ってきたピエロがその花を踏んで足を滑らせ、階段から落ち、後ろにいた別の追手を下敷きにした。白い狼の着ぐるみは、仲間の怪我を心配する素振りすらなく、花を身軽にかわして階段を駆け上がる。

 俺はただ、上を目指すしかなかった。動きにくい格好の日原さんは、もう限界なのだろう。喉をひゅうひゅう鳴らし、脚をよろめかせている。苦しそうなのは分かっているのに、止まれない。


 階段を駆け上がっていくと、屋上へ続く踊り場が見えてきた。このまま屋上へ出るしかない。でも鍵がかかっていたら、この狭い踊り場に追い詰められる。

 と、その屋上の扉の脇から、白い犬耳がひょこっと顔を出した。


「よお、サク。ご苦労さん」


 屋上の扉の擦りガラスから、弱い光が差し込む。それを背負って逆光になった彼女の笑顔は、フードの中で翳っていた。


「キル……!」


 まさか、ここでこいつに迎え撃たれるとは。全身の血の気が引く。日原さんも、ひっと、悲鳴にならない音で喉を鳴らした。

 でも、俺はキルの指の中で煌めくそれを、見逃さなかった。

 俺が迷わずキルの方へ上ってくるのを見て、キルがニッと笑う。そして彼女は、勢いよく、扉を開けた。


「鍵、開けといたぜ」


 開け放たれた屋上の扉から、外の光が飛び込む。キルの指の隙間では、屋上の鍵がきらっと光っていた。

 俺は日原さんを一層強く引いて、屋上へと飛び出す。

 ワンテンポ遅れて追いかけてきた狼の着ぐるみも、続こうとする。しかしその首を、キルが捕らえた。


「おいお前。白いワンちゃんは私の専売特許だ」


 いつの間にやら手にしていたナイフの先で、キルは狼の鼻面をくいっと突き上げる。


「面、拝ませな」


 着ぐるみの頭が引き剥がされる。中からまろび出たのは、顔を真っ赤にして息を切らす、中年のおじさんだった。


「マジで誰?」


 俺は思わず、月並みな反応をした。クラスメイトに混じって、知らないおっさんが文化祭で給仕していたとか、怖い。狼の中身のおじさんは、被り物なんかして走ったせいか、声も出せないほど息を荒げていた。


 追いついてきたピエロは、汗でメイクが取れてどろどろになっていた。被っていたアフロの鬘もどこかに落としたらしく、汗ばんだバーコード頭がむき出しになっている。客に混じっていた奴らも、全員知らない人だ。

 束でかかってくるそいつらを、キルがナイフを振り回して薙ぎ払う。俺は日原さんを支えつつ、キルと謎の集団の様子を眺めていた。


「誰なんだ、この変な奴ら。全部フクロウ?」


 俺が困惑していると、背後から鼻にかかった猫撫で声が降ってきた。


「フクロウも混じっちゃいるでしょうけど、違うのもいるかな。寄せ集めだねえ」


 咄嗟に日原さんを抱き寄せて、振り返る。しかしそこにいたスーツの男を見て、俺は口をあんぐりさせた。


「お、親父?」


 海外にいたはずの、親父だ。すなわち、殺されたかもしれなかったミスター右崎。

 親父はにこーっと笑い、両手を広げてこちらへ駆け寄ってきた。


「咲夜ー! 元気いっぱいで良い子でちゅね! プリンセス美月ちゃんをここまで連れ出してくれてありがとにゃん!」


 俺を日原さんごと抱きしめようとしてきたので、俺は日原さんを引き寄せて横に素早くかわした。


「そういうのやめろ。それより、これ、どういう状況?」


 怖がっている日原さんを、そっと背中に隠して、親父を睨む。親父は微笑ましそうに俺と日原さんを見つめていた。


「美月ちゃんは分かってるんじゃない? 君のお父さん、日原院長の大大大特大失敗」


 それを聞いて、日原さんがびくっと身を縮める。俺は彼女を振り返ってから、再度親父に顔を向けた。親父がにっこり笑う。


「説明はあとにしよっか。それより今は……」


 親父がひょいと、俺になにか投げてきた。咄嗟にキャッチしたそれは、キルが持っているのと同じダガーナイフだった。


「危ねー! なんてもん投げてくるんだよ」


 柄をキャッチできたから良かったものの、下手したら俺か日原さんに刺さっていた。親父に腹が立ったが、直後、俺は背後に気配を感じた。即座に日原さんを引き寄せ、その何者かの気配に向けてナイフを突き出す。

 ナイフの先には、狼だった中年の男が仰け反っていた。手には、狼の爪に見立てた鋭い錐を握っている。その切っ先が、日原さんの首筋ギリギリを掠めていた。

 親父が暢気に手を叩く。


「すごーい。咲夜、今こっち向いてたから、そのおじさん見えてなかったでしょ? よくそんなに素早く動けるね。流石パパとママの息子!」


「うるせー!」


 親父への苛立ちの八つ当たりだ。俺は目の前の男の錐にナイフを翳し、彼の手から吹っ飛ばした。

 息を呑んで身を引っ込めたその男に代わって、今度は脇から拳銃を持った男が現れた。俺は日原さんの肩を突き飛ばして彼女を親父に預け、拳銃男の懐に突っ込む。男が発砲したが、照準が合っていない。大きく逸れた弾は、俺を通り越して、浮かんでいたアドバルーンに直撃した。派手な破裂音をかまして、紅白の破片が飛び散る。

 日原さんの追手も、日原さんも、音に身を縮こませる。「学園祭」の文字が書かれた垂れ幕が、落下していく。校舎の外からも悲鳴が上がった。


 俺は男の手から拳銃を奪い、投げ捨てる。拳銃を手放した男が、わたわたと腰に手を翳し、次の武器を手にしようとしたが、彼の目の前にふわっと、白い影が降り立った。


「遅い」


 男の首筋にナイフを突き立てる、キルがいた。

 あれだけいた追手は、いつの間にか屋上の端で横たわって動かなくなっていた。一部立っている人もまだいてどきっとしたが、顔を見て、俺はもう一度驚いた。


「あれ……先生? シエル?」


 張り倒されている奴らの手を縄で縛っている、古賀先生とシエルだ。あとから、校舎の中から、猫耳ラルも現れた。

 校舎の下ではまだ、アドバルーン落下の騒ぎが続いている。でも、ここはもうすっかり静かだ。

 日原さんは、親父にそっと肩を抱かれ、青い顔で石になっていた。


 *


 それから、数分後。文化祭はまだ途中だったけれど、俺たちは家に帰ってきていた。

 親父も、日原さんも一緒だ。

 リビングのソファで脚を折りたたみ、キルが言う。


「日本に帰ってきてるの、知らなかった」


 犬耳フードの外套は、激戦に揉まれてぼろぼろになっていた。親父はにっこりと微笑んで、キッチンから運んだお茶をリビングのテーブルに並べた。


「安井が暴れ出したからね。緊急事態だから、パパ急いで帰ってきちゃった」


「そもそも生きてたんだな、ミスター右崎」


 キルはそう言ってから、言い直した。


「いや……今の名前は、『塩谷糖次郎』だっけか?」


「うん。右崎は死んだからね」


 親父がにっこり微笑む。俺はそのほんわかした笑顔に、苛立ちを覚えていた。


「除名だとかイコール死だとか、そのために新しいエージェントに引き継ぐとか言っておいて……」


 目の前の親父を、キッと睨む。


「活動名を変えただけじゃねえかよ!」


「だから言ったじゃーん、心配ないよって」


 親父は全く悪びれる様子はなく、へらへらしていた。

 俺もキルも、仮装パーティの作戦の時点から、総裁と親父に化かされていたのだ。「右崎左門」が除名され死亡したことにより、その家族の安全を確保、そして全くの別人のふりをして活動を再開する……これが、真の筋書きだったのだ。

 キルも苛ついた顔で親父を見上げている。


「だったらせめて、私くらいには話してくれたっていいだろ」


「仕方ないじゃん、敵を騙すなら、まずは身内から」


 とかなんとか言っているが、多分こいつは、俺とキルが心を痛めているのを楽しんでいたのだと思う。作戦だったという理由もたしかにそうだろうが、少なからず、面白がっていたに違いない。ついでに、ばあちゃんを通じてキルに名前を選ばせていたようだし、新しい名前に変わるのも楽しんでいたのだろう。そういう人だ。


「ふたりとも、パパの心配してくれてありがとね」


 親父が笑う。俺とキルは親父をただ睨み、もうなにも言い返さなかった。代わりに、キルが別の話題を切り出す。


「で。名前を変えただけだったなら、新任というのも同一人物。引き継ぎをする必要もなかったわけだろ。なんで私の仕事を止めてたんだ」


 キルはちらっと、隣に座る日原さんに目をやった。ウェディングドレスから制服姿に着替えた日原さんは、メイクも落として、普段どおりの彼女に戻っていた。ただし、その表情にいつもの明るさはなく、憂いを帯びた目で床を見つめている。キルが親父に目を戻す。


「通話では簡単な説明しか受けてない。詳しく聞かせてもらおうか」


 数時間前。キルの通信機に、親父から着信が入った。それはキルへの仕事開始の合図……もっとも、「日原美月暗殺」ではなく、「日原美月を守り抜け」という、新たなミッションの。


「急に今までと正反対に、命を守れ、なんて。暗殺者に依頼する仕事じゃねーだろ。ま、私くらいの天才なら、できなくはないけどな」


「ごめんごめん。急いでたから、説明は省いちゃった」


 親父がテーブルの前に置いたクッションに、腰を下ろす。


「美月ちゃん。今から話すことは、君は聞かない方がいいかも。ちょっと咲夜の部屋で、咲夜と一緒にキャッキャしててくれる?」


 冗談まじりに言う親父に、日原さんは、真面目な顔で返した。


「いえ。私にも聞かせてください。知りたいんです、全部」


 彼女の目は悲しげではあったが、迷いはなかった。


「今まで目を逸らしてきていた真実……私も、向き合いたいんです」


「かなりきついことも言うよ?」


 親父が最終確認をする。日原さんは、こっくり頷いた。彼女の意思を受け止めた親父は、改めて切り出した。


「簡単に言うと、日原院長と安井議員が金で揉めて、結果、安井は報復のために、美月ちゃん殺害を計画した、って話」


 親父は日原さんの目を見て言った。


「美月ちゃんは賢い子だし、なんとなく察してるでしょ? 君のお父さんのド借金」


「え? 借金?」


 俺はつい、口を挟んだ。


「そんな……だって日原院長って、大病院の院長で、金持ちなんだろ」


「それが、私もお母さんもこの間知ったんだけど……お父さん、すごい借金を抱えていたらしくて。それでも今までどおりの生活を維持するために、病院のお金を着服してたの」


 日原さんが一層俯く。


「そのうち首が回らなくなって、知り合いの政治家先生……安井さんに相談して、お金を支援してもらおうとした。でも病院の経営状態を知った安井さんは、お父さんを切り捨てることにしたの」


 それが、キルが警戒していた例の会食の中での会話だろう。


「私が知ってるのは、そこまで。あとはなにも分からない」


 日原さんが言うと、お茶を運んできた親父があれっと素っ頓狂な声を出した。


「そこまでしか知らない? そうか、娘には言わないよね。君のお父ちゃん……院長が、『金で助けてくれないなら今までの悪事をバラす』って安井を脅したのは知らないか。そんで安井が口封じのために『それをするならお宅の娘を殺す』って脅し返したのも」


「え!? そうなんですか?」


 日原さんが目を丸くする。日原院長と安井の決裂。会食以降の動きのなさは、無常組の崩壊以上に、こちらが原因だったようだ。

 親父は話題にそぐわず軽やかに頷いた。


「美月ちゃんのお父ちゃんは、それを聞いて安井の言いなりになる判断をした。でもタイミング悪く、無常組の騒ぎからギリ逃げ切った若頭の枯野が、全てを失った怒りに任せて安井を裏切って、安井のアレコレを新聞社に売っちゃったんだよ。で、枯野は妻と娘を連れてさっさと逃亡した」


 それを聞いて、キルが眉を寄せた。


「それで、安井は院長がバラしたと思って、約束どおり美月を殺すことにした、と」


「うん。新聞社には圧力をかけて黙らせていたけど」


 親父が頷くと、日原さんは一層顔を青白くした。

 日原さんが今の学校にいるのは、安井議員の息がかかった教育委員会や、無常組の監視下に置くためだった。このままこの学校にいたら、娘を殺される。だから日原院長は、慌てて引越しと転校の準備を始めたのだ。

 キイ、とリビングの扉が開いた。


「これまでは美月ちゃんに死なれちゃ困る立場だった安井が、今度は命を狙う立場になった」


 入ってきたのは、ばあちゃんだった。仮装で女子大生風の姿を見たのが最後だった俺は、久々に会ったばあちゃんにびっくりした。


「わあ! お帰り」


「うふ、ただいま咲夜。長く留守にしていてごめんね」


 そうだ、ばあちゃんは親父といたのだから、親父がここにいるなら一緒に帰ってきていても不思議ではない。親父とばあちゃんが合流していたのも、除名云々ではなく、むしろこの切羽詰った状況を切り抜けるために力を合わせていたからだったのだ。

 ばあちゃんがテーブルにクッキーを置く。


「楽しそうな話してるんだもの。私も混ぜて。ほら、文化祭で買ってきたクッキーあるわよ」


 俺はそれを横目に、ばあちゃんに尋ねる。


「文化祭……ばあちゃんも紛れてたんだ。チケット渡せなかったのに」


「あら、あんなの余裕で侵入できるわ。ね、右崎」


 ばあちゃんに微笑まれ、親父も「ねー!」と笑う。そういえば親父も、チケットがないはずなのに文化祭の学校に入り込んでいた。我が身内ながら、恐ろしい人たちだ。

 ばあちゃんが親父の隣に腰を下ろす。


「キルの依頼人からしたら、日原の娘が生きていようと死んでいようと関係なかったんだけどね。ちょっと事情が変わったの」


 柔らかな声が、静かなリビングにまったりと響く。


「キルちゃんの依頼人、外務省の草壁大臣にとってね」


「総裁、それ言っちゃって大丈夫です?」


 親父が苦笑するも、ばあちゃんはほんわか笑って受け流した。


「暗殺外交上、重要な位置にいる某国と、この話題になったみたいでね。その際、相手の国から『日原美月を守れ』と釘を刺されたの。今後の国際関係のためにも、美月ちゃんに死なれるとまずい」


「その国って……」


 俺が呟くと、キルも同じ想像をしたようで、繋げるように言った。


「スイリベール、か」


「ええ。スイリベールの国王は、美月ちゃんに恩があるからね」


 スイリベールの国王、アンフェールは、この夏、日原さんの家で世話になっていた。アンフェール自身も暗殺者に狙われていた身だから、余計に日原さんを放っておけなかったのだろう。

 キルははあ、とため息をつき、隣に座る日原さんを一瞥した。


「結局、人情話か。美月がかつて徳を積んだおかげで、美月には守られる理由ができた」


「相手も相手だったしね。なんせ国王」


 親父が脚を組み直して笑う。


「んで、スイリベールとの調整やら安井の出方やらで様子見の期間が必要だったから、『右崎』から『塩谷』への引き継ぎという名目で、キルの動きを制限する必要があった。安井は美月ちゃん殺害を企てながらも、なかなか行動しなかった。もしかしたら安井が誤解に気づいて、美月ちゃん殺すのやめたかもしれない。だからパパたちも、ちょっと慎重になってたの」


 親父はふうと息をつき、お茶をひと口飲んだ。


「そんな中、文化祭をエンジョイ中だった古賀先生が、客の中に反右崎派の暗殺者を発見、フクロウ本部に事情を問い合わせてきた。おかげでパパは安井が送り込んだ刺客に気づいて、緊急で草壁大臣に最終決定を仰ぎ、そして」


 親父の目線、それからばあちゃんとキルと俺の目が、日原さんに集中した。日原さんがぱち、と大きな目でまばたきをする。


「私を守るように、キルちゃんに指示が下った……」


 俺もキルも日原さんも知らないところで、いろんな人がいろんな思いで、せわしなく動き回っていた。なんでもないように見える、平和な日常の裏で。

 キルがクッキーに手を伸ばした。


「安井が雇った殺し屋たちからしても、文化祭は絶好の機会だったんだろうな。私もそう思ったし。でもまさかこれまで標的だった美月を『守れ』って言われるなんて、耳を疑った」


 そういえば、親父からの着信を受けたキルは、「いいんだな?」と不思議そうに承っていた。犬の形のクッキーを取り、キルはそれを口の運んだ。


「けど、美月を殺すために雇った殺し屋たちは、寄せ集め。数は多かったけど大したことなかったな。一応一般人であるサクが、違和に気づいて咄嗟に行動できるくらいだ」


 キルの目が俺に向くと、日原さんもこちらを見た。俺は、つい下を向いた。


「だんだん衣装が壊れていくからな……直前のキルも不穏だったし」


 考えてみたら、あんな目立つ姿の日原さんの手を強引に引いて、廊下を駆け抜けるなんて、かなり目立つ振る舞いをしてしまった。今更ながら、恥ずかしくなってきた。

 キルがクッキーをかじる。


「美月を連れ出してくれたのは良い判断だったが、サク、後先なんも考えてなかっただろ。どこに逃げるかとかさ」


「とにかくあの場から逃げないと、としか……」


「やっぱり。私が携帯鳴らしても気づかないから、焦ったんだぞ。外には他の追手もいたから、なんとしてでも屋上に誘導しなくちゃならなくて」


 キルはうんざりした顔でため息をついた。


「下から迫ってきた集団、あれ、ラルとシエルが集めたんだぞ。お前が下に行かないように」


「あ、そうだったんだ」


「ふたりがサクを誘導しながらついでに追手を減らして、ミスターに恩を売りたい古賀ちゃんが屋上の鍵を調達してくれて、私とミスターが先回りして屋上を開けて、迎え撃つ準備をして……ってな。私ら暗殺者なのに、美月のために皆で見事なチームワークを見せたってわけよ」


 屋上に辿り着こうとしたとき、そこに待機していたキルを見て、俺は一瞬、警戒した。けれど鍵に気づいたから、彼女を信頼できた。あのとき判断を誤って足を止めていたらと思うと、ぞっとする。

 ふいに、日原さんが、ぽろっと涙を零した。無言で泣きはじめた彼女に、俺もキルもぎょっとする。


「わ! 日原さん、どうした?」


「父親とその交友関係にショックが強すぎたか?」


 キルが追い討ちをかけるも、日原さんは首を横に振った。


「それもそうだけど、皆に申し訳なくて。ごめんなさい。私、なんにも知らないで、能天気に暮らして、こんなに迷惑かけてた」


 日原さんの涙が、彼女のスカートに落ちて、丸い跡をつける。


「朝見くんはちゃんと、教えてくれてたのに。目を逸らして、ずっと……守ってもらうばかりで。本当にごめんなさい」


「いや、それ言ったら……」


 俺は横に座るキルを引き寄せ、首を固めた。


「今日はさておき、今までは、うちのキルが日原さんを危険な目に遭わせてた。本当にごめん!」


「でもそれだって、元はといえば私のお父さんのせいで……」


「それだって日原さんのお父さんと、絡んでた政治家とかのせいであって、日原さんのせいではないだろ。こっちなんか、そのなにも悪くない日原さんにナイフ飛ばしてたんだぞ。実害あるんだぞ」


 キルの首をぎゅっと絞めると、キルはクッキーを持った手で必死に抵抗してきた。


「痛い痛い! 離せサク!」


「たしかに、俺が何度説明してもちゃんと聞いてくれなかったのは、きつかったよ。でもしょうがなくない!? 普通、暗殺者に狙われてるとか言われても実感湧かないじゃん。すぐ呑み込める方が不思議なくらいであって」


「サク! サク! クッキー零しちゃう」


「だから日原さんは悪くないんだよ。これからも胸張って生きていい。もしかしたら誰かが君を白い目で見るかもしれないけど、『だからなんだ』って言ってやれ」


「サクー! 離せー!」


 捲くし立てる俺と、俺の腕の中でもがくキルを見て、日原さんは数秒黙っていた。涙の玉が数粒頬を伝ったのち、やがて、彼女はふっと噴き出した。

 キルがもがくのをやめる。


「なんだこいつ、泣いたり笑ったり忙しい奴だな」


「ごめん……朝見くんとキルちゃんが面白くって、つい」


 日原さんは涙ぐんだ目で笑い、睫毛に残った涙を指で拭った。


「うん、ありがとう。朝見くんたちが守ってくれた私の命、大事にする。誰になんて言われたって、強く生きていく」

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