11.青春を謳歌してやる。

 フクロウ創立記念パーティの夜以来、まだばあちゃんが帰ってきていない。

 なにやら俺が学校にいる間に一度戻ってきたようだが、まひるに「しばらくお父さんのところへ行ってるから、咲夜と仲良く、良い子でいてね」とだけ伝えてまた出かけたという。


 ばあちゃんが親父の下へ行く、これは仕事上の関係で言えば、総裁が除名されたエージェントの下へ出かけた、ということだ。

 フクロウのシステムは俺には分からないけれど、嫌な想像しかできないので、もうあまり考えたくない。ただその不安を顔に出して、まひるまで不安にさせてもいけないから、普段どおりに振る舞うしか俺にはできない。


 ばあちゃんがいなくなった二日後、文化祭の準備期間が始まった。実行委員の人たちはもっと前から働いていたらしいが、俺たちその他の生徒は、当日の三日前から、買い出しや教室の飾り付けを始める。

 ハロウィンシーズンに託けて仮装喫茶を開店する我がクラスでは、ホール係の衣装の他、インスタントとか冷凍の軽食、飲み物を用意する。


「とはいえ軽食のメニューって、カレーとオムライスとサンドイッチだけだよな。カレーはレトルトだし、オムライスは冷凍。サンドイッチも、出来合いのを用意する。これは業者が学校に配達してくれるらしいから、買いにいかなくていい」


 俺は自分と同じく調理係の陸とともに、教室で看板作りをしていた。


「これのあとは、使い捨ての食器の準備。そのあと、先生を交えて調理の講習だな」


 ダンボールにカッターを差し込んで、手持ち看板を作る。陸もガムテープで看板を補強しながら、壁の時計を見上げた。


「講習といっても、レトルト食品を効率よく作る流れ作業の確認だよな。それが終わったらまた教室の方で準備か」


 なんだかんだ、やることはある。部活でも出し物がある奴らは、そちらの準備もあるから、俺みたいな無所属は彼らまでクラスの準備に労力を注ぐ。

 無所属ではあるがいろんな部活に助っ人に行く陸は、文化祭の出し物でも助っ人扱いらしく、準備段階の今も行ったり来たり忙しそうだった。準備期間の三日間は、帰りが遅くなりそうだ。


 机と椅子が隅っこに寄せられた、いつもと違う教室。他のクラスメイトたちも各々、看板を作ったりメニュー表を書いたり、忙しそうにわいわいしている。

 ホール係の日原さんは、衣装を買いに、クラスの中心人物たちと一緒に出かけている。ラルは隣のクラスの出し物の準備に追われているし、キルは相変わらず依頼停止中で大人しくふてくされている。先生は一応キルの味方になってはいるが、自分から積極的に日原さんを殺そうとするわけではないので、なにも仕掛けてこない。

 おかげさまでなんだか平和だ。かつ、文化祭準備期間という、普段の学校生活とは違う非日常だ。くだんの仮装パーティで大変な目にあったのが、随分過去の出来事のような気がしてくる。


 諸々の出来事は陸にも話しておいた方がいいが、今は彼は文化祭を楽しみたいだろう。親父が死ぬらしいとか、そういう陰気な話題は、文化祭のあとにしようと決めた。

 親父が死ぬかもしれないと分かっていても、ばあちゃんが帰ってこなくても、自分にはどうしようもない。俺にできることといえば、こうしてクラスの出し物に客を誘致する看板を作るくらいなのだ。


 準備するものが多いので、めまぐるしく動き回っているうちに時間は刻一刻と過ぎていく。いつも間にか夕方七時を回り、教室にいる生徒の数が減ってきた。冬が近づいてきて日が暮れるのが早くなってきたこの時期、空はすっかり暗くなっている。

 俺は任されていたいちばん大きな看板作りがなかなか切り上げられず、他のクラスメイトより長めの残業になっていた。

 残りのクラスメイトも数人になったところへ、ひょこっと、ラルが顔を出しにきた。


「こんばんは、咲夜くん。はい、差し入れ。お腹空いたでしょ?」


 冷やかしにきたのかと思いきや、手にはなにか手提げ袋を持っている。俺の傍にやってきた彼女は、その袋をこちらに突き出してきた。そういえば普段なら夕飯の準備を済ませている時刻だ。遅くなるのは分かっていたから、キルとまひるには夕飯は作れないと伝えてある。自分の分は、帰りに買い食いでもしようと考えていた。

 ラルに差し出された手提げ袋の中には、蓋付きの容器が入っていた。詰まっているのは、焼いたウィンナーとおにぎり、少しの生野菜である。ラルが作ったのだろうか。少し焦げたウィンナーからは、料理に不慣れな感じが漂っている。


「ありがとう。毒とか入ってない?」


 お礼に添えるように確認すると、ラルはくすっと笑った。


「あなたを殺すメリットがない。ミスター右崎がいなくなったから、擦り寄る必要もないけどね」


 まあ、ラルは暗殺者だが、今ここで俺に毒を盛るとは考えにくい。俺は作業を止めて手を洗い、添えられていた割り箸を取った。


「夕飯作って持ってこられるってことは、ラルのクラスは準備が捗ってるんだな」


「ええ。早く帰れるから助かるわ」


「ラルのクラスは、なにやるんだっけ?」


 ラルが暗殺者であるのはさておいて、文化祭前の生徒同士っぽい世間話を振る。彼女も自然に返してきた。


「こっちはお化け屋敷。鉄板ね。私も猫の耳つけて脅かすから、遊びにきてね。午前中のシフトだから、よろしく。咲夜くん、自由時間でしょ」


「ふうん。そういやラル、仮装したくてこっちのクラスまで乗り込んできそうな勢いだったもんな。よかったな、お化け役できて」


 ウィンナーを口に入れる。すっかり冷めてしまっているうえに、油っこいし、胡椒をふりかけすぎている。濃くなりすぎた胡椒の味を、上からかけたケチャップで誤魔化している感じで、奥行きが全くない。でも、働き詰めだった俺には、この素朴な味が妙に染み渡った。

 ラルの派手な見た目とは随分イメージの離れた、シンプルな味だ。食べている俺を眺め、ラルが訊いてくる。


「おいしい?」


「ん、おいしい」


 凝った味ではないけれど、おいしいはおいしい。俺の返事を聞いて、ラルは満足そうだった。


「文化祭、キルと遊んでる暇ができて良かったわね」


「そうだな。本当は気がかりなことばっかりだけど、文化祭が楽しみな間は忘れられる」


「そうね。もしかしたら、それもミスターの計算の内なのかもしれないわね。咲夜くんが文化祭を楽しめるように、わざと、キルの仕事を停止させてるのかも」


 ラルの言葉に、俺はうーんと唸った。


「どうだか。あの人、そこまで気が利くかな。文化祭の日、知らせてないから、偶然だと思うぞ」


「うふふ。可能性の話よ。あの人、変なところで抜け目がないし、家族愛はすごいから」


 ラルは膝を抱えて微笑み、それから思い出したように言った。


「美月ちゃんは、文化祭、誰と回るのかしら」


「知らない。日原さんは友達多くて、付き合いたいと思ってる人も多いから、引く手数多だろうな」


「あら、ドライな反応するのね。文化祭って非日常的で、クラスメイトの普段とは違う姿が見られて、きゅんとしちゃうイベントよね。この雰囲気に乗っかって、カップル成立……なんて、よくある話よ? 美月ちゃんが誰かに盗られちゃってもいいの?」


 ラルの挑発的な物言いに、俺はむっとした。


「盗られるもなにも、俺のじゃないだろ」


 俺からは、日原さんに声をかけなかった。というか、俺自身が昨日まで文化祭をさして意識もしていなかったから、誘おうと考えてもいなかった。ラルがひとつまばたきをし、俺の顔を覗き込む。


「咲夜くんって、美月ちゃんのこと好きなの?」


 ラルのストレートな言葉に、ウィンナーを咀嚼する俺の動きは止まった。


「そんな……いや、そりゃあきれいだなとは思うけど、それは芸能人に対して抱くような気持ちであって、自分の手に届く相手だとは思ってない」


「じゃあ、仮に届いたら、手を伸ばすの?」


 ラルがわざとっぽくにやける。


「あなたは自己評価が低いから謙遜してるだけで、本当は彼女が好き。美月ちゃんからすれば、咲夜くんの自己評価どおり、クラスの男子のひとりくらいだったでしょうね」


 彼女はにまにまして俺の反応を見ていた。


「けれどこの頃は、キルのせいで咲夜くんの方から美月ちゃんに近づいたじゃない? それからは彼女の意識が変わった。美月ちゃん自身は友情だと思ってるかもしれないけど、あれは自分の感情の名前が分からないだけで、恋愛的な感情もあるわね。でもまだ知らないから、誰かに教えてもらわないと、恋に気づかないのよ」


 まともに聞いたら、食事を喉に詰まらせそうだ。俺は容器の中に視線を戻す。


「お前に日原さんのなにが分かるんだよ」


「分かるわよ。一瞬だったとはいえ、私、咲夜くんのふりして美月ちゃんと手を繋いだもの」


 ラルの機嫌のいい声が、俺をそわそわさせる。


「あーあ、私ね、ずっと楽しく見てたのよ。暗殺者の女の子と一緒に暮らしてるけど、その暗殺者が好きな女の子の命を狙ってる、っていう板ばさみのラブコメディ。こういうのって、主人公の男の子はどっちを選ぶのかしら」


 多分、いや絶対、ラルは俺の反応を楽しんでいる。


「こっちは真剣に困ってるっていうのに……!」


「ふふふ! でももうこのラブコメも、もうクライマックスね。美月ちゃん、転校しちゃうんでしょ?」


 ラルに言われ、俺はハッとした。

 日原さんは、転校してしまう。安井議員の陰謀とか、日原院長の都合とか、そんな理由だ。でも今、ラルの言葉で急に気づいた。日原さんというひとりの女の子が、遠くへ行ってしまうという事実。これまで裏の事情に気をとられがちだったが、高校生の俺にとっては、身近な彼女が傍からいなくなることの方が、大きな問題のはずだ。

 ラルがじっとこちらを見ている。


「さてさて、私はこの三角関係の行く末を見守るわよ。面白い展開を見せてね、咲夜くん」


 そう言い残すと、ラルは教室を出て行った。俺は食べかけのウィンナーに視線を落とす。


「……この容器、うちにあるのと同じだな……」


 ついそんなどうでもいいことを呟いてから、ラルの差し入れを完食した。


 *


 翌日も同じように慌しかったが、教室の盛り上がりは昨日をはるかに上回った。


「美月かわいー!」


「でもこっちも捨てがたいよね」


 クラスの女子たちが、日原さんに衣装を当てて遊んでいるのだ。正面に服を突きつけられて間接的な着せ替え人形にされている日原さんは、照れくさそうに笑っていた。


「私の衣装はもう決まったんじゃなかったの?」


「決まったけど、でもこっちも似合うから一旦全部着てほしい」


 ホール係の衣装はもうとっくに決定していて、各々合ったサイズを用意している。でも日原さんはどんな衣装も着こなせるから、他の人の衣装まで体に当てられているのだ。

 実際に着ているわけではないのだが、重ねられているだけで着た姿のイメージが湧く。おかげでクラスじゅうの視線が彼女に集まってしまっていた。美人で頭が良くて穏やかな日原さんは、老若男女関係なく皆から好かれる。今もそこかしこから、「かわいい」とか「彼女にしたい」とか、そんな呟きが上がっている。俺の隣で作業している男子三人グループも、小声で話している。


「美月ちゃん、文化祭、バスケ部の部長と回るんだって」


「え、そうなのか」


「うん。なんかその部長、前から美月ちゃんに目をつけてたらしくて、この機会に告白するって噂だよ」


 聞こえてくるひそひそ話しに、俺は胸の中でふうんと相槌を打った。やはりクラスの内外から人気者の日原さんは、俺の知らない人からもアプローチされるようだ。そのバスケ部の部長とやらに告白されたら、日原さんは承諾するのだろうか。俺には関係のないことだけれど……。

 男子三人の小声の会話が続く。


「けどそのバスケ部の部長って、この前、隣のクラスの都さんに告白して振られたって話じゃなかったか? 心変わりが早すぎて、誠実さを感じないよな」


 都さん? と一瞬誰だか分からなかったが、そういえばラルのコードネームは都ルーラルである。男子三人が険しい顔になる。


「都さんはそういう奴だって分かってたのか、あっさり振ったみたいだけど。美月ちゃんは優しいから、困っちゃうかもしれないな……」


「てか都さん、昨日うちのクラスの朝見に差し入れ持ってきてたの見たぞ。都さんの本命は朝見だったとか?」


「え、なんで? 接点が見えないんだけど」


 差し入れはたしかにいただいた。でも、ラルの本命が俺というのは、明らかな見当違いである。いろいろと訂正したいところだが、向こうはひそひそ話だ、俺がここで突っ込んでいくのもおかしいので、もう放っておくことにした。

 日原さんのファッションショーはいつの間にか終わり、それぞれ仕事に戻っている。普段の日常より、時間の流れが速い。いつの間にやら夕方になっていて、この日も昨日と同じく、ラルが差し入れの容器を持ってやってきた。


「残業お疲れ様。今日のメニューは……なにかしらね、これは。ポテトとベーコンにチーズ絡めてフライパンで焼いたやつよ」


 持ってきておいて、ラルでも料理名が分からないようだが、ひとまず、間違いなくおいしそうな組み合わせではある。


「それ、俺も似たようなの時々作る。俺はオーブンで焼くんだけどね」


「ああ、そうなの。どうりで……」


 ラルはなにか納得したようだったが、そのまま続きは言わなかった。それにしても、今日も持ってきてくれたのか。洗った容器、持ってくればよかった。


「どうも。いただきます」


 クラスメイトたちは、帰ってしまったり別の場所に出払っていて、教室には今、俺とラルしかいない。


「ラル、バスケ部の部長に告白されて、振ったんだって?」


 容器の蓋を開ける。ラルが形容していたとおり、輪切りのポテトと大きさがばらばらのベーコンに、とろけたチーズが載っている。

 ひと口食べてみると、胡椒が効き過ぎていてちょっと塩辛いうえに、それをやはりケチャップで誤魔化している味がした。お世辞にも整っている味とは言えないが、料理に不慣れな人が一生懸命作った感じが伝わってきて、こういう味は嫌いではない。ラルは俺の横に座って、俺の様子を眺めていた。


「そうよ。顔はなかなかだったけど、全然知らない人だから断っちゃった。私、きれいだからすぐ男が寄ってくるのよ。殺すメリットもない人に構うほど暇じゃないのに」


 バスケ部の部長も、ラルの性根がこんなだと知っていたら、告白なんかしなかっただろうに。


「クラスの奴らが、ラルの本命は朝見じゃないか、なんて噂してたぞ。差し入れはありがたいんだけど、誤解を招いてるかもな」


「あら。羨ましがられてるのね。私はただ、お腹空かせてる咲夜くんを労いたいだけなのになあ」


「うん、俺としても助かる」


 それからふと、外した容器の蓋を見て、気づく。


「あ、これもうちにあるやつと同じだ。昨日のもそうだったな。ラルも同じメーカーのを使ってるんだ?」


 俺の何気ない問いかけに、ラルは身を強ばらせた。なんだ。触れてはいけない質問をしただろうか。

 と、そこへ、半開きの教室の戸から、元気な声が飛び込んできた。


「お、まだ残ってたか、咲夜!」


「お疲れ様、朝見くん! 買い出しのついでにお菓子買ってきちゃった!」


 入ってきたのは、陸と日原さんだった。ベーコンを口に運んでいた俺は、思わず飛び上がった。陸と日原さんが、ラルに気づく。


「あ、ラルちゃんもいたのか。ちょうどよかった、一緒にお菓子……ん?」


「朝見くん、なんか食べてる」


 日原さんが覗き込んできた。途端に、昨日のラルの「三角関係」の話と、昼間の男子三人のひしひそ話が同時に脳裏に蘇り、急激に焦りが生じた。

 ラルと俺の間に特別な関係など決してないが、日原さんも誤解してしまうかもしれない。いや、俺と日原さんも特別なにというわけでもないが。


「これはその……ラルが持ってきてくれた差し入れ……。いや、俺から頼んだんじゃなくて」


 悪いことはしていないはずなのに、どこか言い訳じみた口調になる。日原さんはしばし、憮然として俺の手元の容器を眺めていた。ラルもばつが悪そうな顔をしているし、陸はぽかんとしている。

 やがて日原さんが、口を開いた。


「……ラルちゃんにお弁当、作ってもらってたんだ」


「ええと……」


 なんだこの、浮気が見つかったみたいな空気は。誰とも付き合っていないのに。

 かと思いきや、日原さんはぱっと目を輝かせた。


「いいなー! 私も食べたい!」


「は!?」


 ラルが身を仰け反らせて、低い声を出す。それでも、日原さんは純粋無垢な目をきらきらさせていた。


「ラルちゃんのお料理、おいしそう! 朝見くんばっかりずるい。私もお腹空かせてるのに」


「は、あんた、なに言って……悔しくないの?」


 ラルが素の反応をしても、日原さんは全く驚かない。


「いいな、いいな。ねえ朝見くん、ひと口頂戴」


 そこへ陸まで参加してくる。


「俺も食べたい。ラルちゃんの料理、食べたことないんだよなあ。料理上手な咲夜に持ってくるくらいだから、相当自信あるんだろ?」


 修羅場を回避したのはよかったが、意外な展開になった。ベーコンポテトを分け合うのは、俺としても喜んでお受けしたい。


「もちろん。食べかけで申し訳ないんだけど……」


 しかし、俺の返事をラルが遮った。


「だめ! それおいしくないから!」


「なんだと! 俺に食べさせておいてそういうこと言う!?」


 俺が困惑するのをよそに、ラルは容器の前に手を翳して、日原さんと陸の視界から料理を隠した。


「胡椒が効きすぎなのをケチャップで誤魔化してるのよ。具の大きさも揃ってない。ジャガイモなんか大きすぎて火が通ってないとこあるのよ。こんなのあなたたちに食べさせて、私が料理下手だと思われたらたまったもんじゃないわ」


「おいラル! 俺はいいのかよ」


 ラルは自分の料理を貶しまくったあと、日原さんと陸に改めて向き直った。


「明日、あなたたちの分を作ってきてあげる。今日のところは、そのお菓子でお腹を満たしなさい」


「やったー!」


 日原さんが手を振り上げて無邪気に喜ぶ。高く手を上げる日原さんと、低めに屈む陸がハイタッチしている姿を、ラルはつまらなそうに見ていた。


「この子、プライドってもんがないのかしら……それとも本当に、ただの友愛なの?」


 この混沌とした光景を眺めていた俺は、そっとラルに話しかけた。


「ええと、ラル。この料理、たしかに味が濃いけど、そんなに言うほどまずくないぞ。俺はむしろ好きだな、これ」


「いや、そんなフォロー求めてないわよ」


 ラルはじろっと俺を睨むと、教室を出て行った。


 *


 八時過ぎに、帰宅した。学校で予洗いしておいたラルの容器を、キッチンで洗う。食器乾燥機には、大皿が一枚と、その他いくつか食器が並んでいる。フライパンも洗った形跡があり、淵に小さく雫が残っていた。俺が夕飯を作れないから、ばあちゃんが一瞬戻ってきたときに、作りおきしてくれたのだろう。

 容器を洗う俺のところへ、キルがやってきた。


「お、サクがキッチンにいる! なんか作ってるのか?」


「残念、洗ってるだけ」


「なんだ。明日の分の夕飯、作り置きしてくれてるのかと思ったのに」


 分かりやすく落胆するキルに、俺はつい、ふっと笑った。


「それでもいいんだけど、俺も文化祭準備で疲れてるからさ。いつもと違う日常って、それだけで疲れるんだよな」


「そうだよな。逆に私は暇で仕方ない。美月殺しちゃだめって言われたら、武器のメンテくらいしかすることないんだよな」


 キルがナチュラルに物騒な世間話をぶっ込んできた。


「あれっきりミスターと連絡つかないし、総裁も帰ってこないし……」


「そうだな」


 俺もキルと同じく、親父がどうなったのか知らない。ばあちゃんももう三日も家を空けている。本当は気がかりな俺も、「文化祭で忙しい」を言い訳にして、目を背けているというのが現状だ。


「ああもう……美月が転校するから、文化祭がラストチャンスだってのに。引継ぎとやらはどうなってるんだ。もう命令無視して殺しちゃおうかな」


 キルが壁に凭れてため息をつく。と、キルの視線がふいに、乾燥機の中の容器に動いた。


「その容器……」


「これ? ラルのだよ。俺が遅くまで作業してるからって、差し入れ持ってきてくれるんだ」


「ラルが?」


 キルは心底意外そうに、目を剥いた。驚くのも無理もない。俺も、ラルがわざわざ料理を作って届けてくれるとは、考えてもみなかった。


「この容器、うちにも全く同じのがあるから、間違えないようにしないとな。全く同じだから、入れ替わっても変わらないか」


 手についた雫をタオルで拭いて、俺はキルの脇を通り抜けた。自分の部屋に向かっていく俺を、キルは黙って見つめていた。



 翌日、ついに文化祭準備最後の日。いよいよ明日に迫った文化祭のため、どこの出し物も準備は大詰めだった。机と椅子が整列していたはずの教室も、今ではすっかり喫茶店らしい姿に変わっている。

 くっつけた机に白いクロスをかけて、真ん中にメニューが置いてある。隣のクラスのお化け屋敷も、演劇部と映画鑑賞同好会の指導が入ったかなり本格的なものに仕上がっているそうだ。

 そんな隣のクラスも、今日は最後のリハーサルで忙しいのだろうか。七時を回っても、今日はラルが来ない。そうこうしているうちに、我がクラスの喫茶店は最後の点検を終え、明日に備えて下校する流れになった。


 とうとう、ラルは来なかった。こちらから頼んだわけではないし、ラルが厚意で持ってきてくれるものだから、こちらから催促するつもりはない。でも昨日あんなことを言っていたのだから、このまま帰るのも忍びない。

 待っていた方がいいのだろうか、などと考えて教室の窓辺にいると、日原さんがこちらにやってきた。


「朝見くん、帰らないの?」


「ん、ラルがさ……」


 その名前を耳にした日原さんは、勢いよく食いついてきた。


「ああ、ラルちゃん! ラルちゃんの手作りキッシュ、おいしかったね!」


「……え?」


 キッシュ? 全く心当たりがない。しかし日原さんは、うっとりと虚空を見上げている。


「陸くんも言ってたんだけど、ふわっふわなのに具がぎっしりで、ぺろっといけちゃうのに結構お腹に溜まる満足感があったよね。あんなにおいしい料理が作れるなんて、すごい。私はたまにお菓子作りするくらいであんまり料理はできないから、尊敬しちゃう」


「日原さん、ラルの差し入れ、貰ったの?」


「うん。七時くらいだったかな。外で飾り付けの手伝いをしてるところに、持ってきてくれたよ」


 窓から微風が入ってきた。俺の顔の横で、白いカーテンが揺れる。

 どうやら、ラルの差し入れを貰えなかったのは俺だけのようだ。俺だけたまたま会えなかったとは、考えにくい。ラルが教室に来ていれば、たとえ俺が席を外していたとしても他のクラスメイトが気づいているはずだ。

 日原さんがちらっと、壁を見る。


「ラルちゃんに改めてお礼を言おうと思ったんだけど、隣のクラス、もう解散してるみたい」


 しかももう、帰ったというのか。

 あいつ、俺にばかり味付けに失敗した料理を持ってきていたかと思えば、今度は俺だけ、おいしいキッシュをお預けか。どういうつもりだ。気まぐれな奴なのは知っているが、それにしたって行動が読めない。日原さんが時計に目をやる。


「私ももう帰らないと。運転手さん、待ってるかも」


「うん、また明日な」


 ラルの件は日原さんには言わず、俺は手を振った。冷えた風が頬を撫でる。カーテンがまた、パタパタと音を立てた。

 日原さんは踵を返そうとして一旦立ち止まり、再び俺に目を合わせる。


「文化祭、楽しみだね」


「うん」


「私ね、バスケ部の部長と一緒に回るんだ」


「……うん」


 日原さんが転校する。この文化祭を楽しんで、青春の思い出を作ったら、彼女はついにキルから逃げ切る。これでいい。いちばん望んだ結末だ。これでいい、はずだ。

 もちろん俺は、寂しいけれど。

 日原さんは数秒俯いたのち、なにか言おうとして、やめた。それから再び唇を開く。


「ううん、やっぱ、今言うのはやめた」


 なにか勿体つけて、日原さんはにこりと相好を崩す。


「君にずっと、言おうとしてたことがあるの。でも今はやめとく。文化祭のあと、言えそうだったら言う」


「え」


「あ、そうだ。これ」


 日原さんが、鞄から文庫本を取り出した。


「これ、映画の原作小説。貸すって言ってたのに、すっかり忘れてた」


「え、あ、ありがとう」


 手渡されるまま、俺は本を受け取った。日原さんは満足げに微笑む。


「じゃあ、また明日ね!」


 そう言うと彼女は、駆け足で教室を出て行った。


「え、……え?」


 カーテンが風で揺れる。胸に手を当てなくても、心臓が飛び跳ねているが自分で分かる。かといって彼女を追いかけられるでもない俺は、ただこのいつもと違う教室で、ひとり呆然としていた。

 頬に触れる風が、やけに冷たく感じる。俺はしばし立ち尽くしていたが、だんだん冷静になってきた。そのうち先生が施錠に来るだろう、ラルももう来ないようだし、帰ろう。

 一歩踏み出そうとした瞬間、後ろからぐいっと、腕を掴まれた。


「うわあ!」


 突然のことに、別の意味で心臓が飛び跳ねた。振り向くと、窓の柵にキルが座っていた。


「美月に夢中で私の気配に気づかないとは。この腑抜け」


「びっくりした! いつからそこに!」


 暗殺者のこいつは、唐突に、どこからでも現れる。こうやって高い建物の窓から入ってくるのも日常茶飯事なのだけれど、だからといって慣れるものではない。


「日原さんに気を取られてなくても、暗殺者の気配には気づけないだろ! それは俺がサニの息子とか関係なく、キルが優秀なのであって……」


 俺が今になって言い返しはじめるも、キルは全然取り合わなかった。代わりに、ずいっと、俺の鼻先に小さなバッグを差し出してくる。


「ん!」


「なに、これ」


 突き出されるそのバッグの中には、見覚えのある容器が入っていた。我が家で大活躍している容器だ。


「なにこれ? ラルに返すやつ? ん、なんか入ってる」


 バッグを受け取って、中の容器を取り出す、半透明の容器の中に、茶色いものが透けている。

 開けてみると、焦げ付いたハンバーグと白米とたまご焼きが、ぎゅっと雑に詰め込まれていた。どういうことだろう。しばし思考が停止する。キルは窓の柵に乗って膝を丸め、俺を見下ろしていた。


「聞いて驚け。サクが昨日までラルの手料理だと思っていた差し入れは、あれはうちの夕飯の残りだ」


「そうだったの!?」


 言われてみれば、ラルは「差し入れ」と渡してきただけで、自分が作ったとはひと言も言っていない。キルは鬱陶しげにため息を洩らした。


「昨日、一昨日と。ラルはうちに飯をたかりに来てな。大皿の料理を持ち帰ると言うから、容器に詰めて持たせてやったの」


「へ、へえ……」


「私はてっきり、ラルが料理を気に入ったんだと思ってたんだが」


 あとはもう、聞かなくても分かった。ラルは料理を持ち帰るふりをして、俺への差し入れにしていた。

 昨日の夜、俺が容器を洗っているのを見て、キルはその事実に気づいたのだ。


「あれ? でもばあちゃん帰ってきてないよな?」


 俺がいなければ調理をするならばあちゃんのはずだ。いや、どちらにせよ昨日までのあの料理は、ばあちゃんの作る味ではなかった。この頃は俺が料理担当だったとはいえ、ばあちゃんの作る料理は幼い頃から慣れ親しんでいる。素朴ながらも深みがある、奥ゆかしい味付けだったはずだ。

 キルがちらっと、じと目を向けてくる。


「てことは、つまり?」


「まひるが作った?」


「私だよ!」


 キルの手のひらがパンッと俺の頭をはたいた。俺は叩かれた即頭部を手で押さえつつ、キルの顔を見る。


「え……えー! お前、食べる専門じゃなかったの!?」


「食べる専門だよ! これは暇つぶしだ。仕事がなくて暇だったから、作ってもいいかなと思っただけ!」


 キルはわっと大声を出した。


「おばあちゃんが帰ってこない上にサクまで帰りが遅くて、まひるが寂しそうだったから、暇つぶしついでにまひるに構いたかっただけ!」


「あっ……」


 そのとき初めて、俺はまひるを放っておいていた自分に気づいた。キルの言うとおりだ。今はばあちゃんも俺もいなくて、夕飯が寂しくなる。まひるはもう自分で買い物に行けるからと、特に心配もしていなかったが、寂しい思いをしているかもしれないとまでは、気が回らなかった。

 牙を剥いたのち、キルはぷいっとそっぽを向いた。


「料理してみるのは構わないけど、サクに食べさせたくなかった。だから、ちょうどサクがいない文化祭準備の期間に作ったのに」


「なにそれ、酷い」


「だってサクは料理が上手だから、私の作ったのなんか食べさせるの、恥ずかしい」


 顔を背けたまま、キルはこちらを向かない。


「もっと上手になるまで、サクには食べさせないつもりだった」


 キルの声は徐々に細っていった。


「ポテトとベーコンのも、まひるのリクエストだった。サクが作るのを真似してみたけど、なんか全然違うのができた」


 昨日のラルの反応を思い出す。俺がフライパンでなくオーブンで焼くと言ったら、なんだか納得していた。あれは、キルが焼く手段を間違えたから別のものになったのだと、ラルの中で結びついていたからのリアクションだったのだ。


「だというのに、ラルが俺に持ってきちゃったと」


 俺が言うと、キルはぶんとこちらに顔を向けた。


「そうなんだよ! 全くあのアバズレ悪魔! 私が作ったってのは一応伏せてくれたみたいだが、あいつ面白がってんだよ。私の地道な努力をからかってる!」


「ラルってそういう意地悪なとこあるよなあ」


「なー! 性格悪いよな」


 キルはそう言うが、俺は苦笑するだけで肯定はしなかった。

 ラルがそういう性格なのは否定しないが、多分ラルは、折角キルが作った料理だから俺にも食べてほしかったのだと思う。キルが作ったのだとは明かしてこなかったし、俺が酷評しないかチェックも兼ねていたのだろう。日原さんが現れて修羅場になりかけたのは計算外だったみたいだが、慌てながらもきちんと場を丸く治めていた。

 キルが膝に顎を乗せる。


「まあ、そんなこんなで。どうせサクには食べられちゃったし、そのうちバレるだろうと思ったから、今日はラルに持たせず直接私が持ってきた」


 絶縁手袋を嵌めたキルの指が、容器を指差す。


「夕飯の残り」


「そりゃどうも」


 俺は改めて、容器の中に目を落とした。歪な形の焦げたハンバーグには、やはり多めのケチャップ。また胡椒を入れすぎたのだろうと、容易に想像できる。


「ハンバーグってさ」


 俺は添えられた箸を手に取った。


「取り分ける大皿料理ではなくて、人数分作るものじゃん」


「うん。そうだな」


 キルが壁を見つめて、おざなりに返事をする。ウィンナーとサラダ、おにぎり、それからポテトとベーコンの料理。あれは皆でつつく皿の一部を容器に詰めたものだっただろう。でも、これは。


「ハンバーグ、わざわざ俺の分焼いてくれたんだ」


「ん……? あ」


 キルは急にハッとしてこちらを向いたかと思うと、再びさっと顔を背けた。


「別に……ついでだよ。成形してるときに、上手く分配できなくて余ったから、ついでに焼いただけ」


 キルはかわいげがないようでいて、たまにちょっと、かわいい。


「俺がいない間に、まひるの面倒見てくれて、ありがとな」


「別に。まひるは私の恩人だから、ちゃんと恩返ししようってずっと思ってたし」


 キルが素っ気ない素振りをする。俺はキルがまひるに拾われたばかりの頃を思い起こした。


「そういえば、元はといえばキルがうちに居ついた理由、まひるに恩返ししたいからだったよな」


「うん」


「もう充分じゃないか? まひるもキルに感謝してると思うぞ」


 キルはまひるをかわいがってくれている。こういうときだって、俺には気が回らなかったまひるの気持ちに寄り添って、慣れない料理を頑張ってくれたのだ。


「料理、勉強したいなら、今度は俺と一緒に作ろうよ。教えるぞ」


「やだ。サクが作ってくれるなら私は食べる専門になる」


「かわいくねー」


 文化祭を控えた、いつもと違う景色の教室。他に誰もいない静かな空間で食べたハンバーグは、火が通りすぎていてぱさついていて、やっぱり胡椒が強くて、ケチャップで誤魔化した味がした。

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