9.夜道に気をつけろ。

 それから俺は、リビングのソファでニュースを眺めて過ごした。内容は、あまり頭に入ってきていない。代わりに、以前電話で話した、親父とのやりとりを思い浮かべていた。


『もしもパパの身になにかあって、この先も今までどおり仕送りができなくなっちゃっても、大丈夫だからね。咲夜とまひるが大人になるまで分くらいの預金はある』――この仮装パーティは、俺が想像している以上に、大きな意味を持つのかもしれない。あの人が、こんな発言をする程度には。


 流しっぱなしのニュースの音声を遮って、リビングの扉が開いた。テレビに顔を向けている俺の耳に、ばあちゃんの声が届く。


「それじゃあ咲夜、行ってくるわね。まひるをよろしくね」


 テレビの端に映った時計が、二十一時を少し過ぎたのを知らせている。もう、出かける時間か。そういえば、パーティは何時スタートでどこで開催されているのかすら知らない。


「行ってらっしゃい。気をつけて……」


 と、ばあちゃんの方を振り向いて、俺は絶句した。

 ふわっと巻いた茶髪に色白な肌、足首まで覆う白いスカート。二十代ほどと思われる、女子大生風のかわいいお姉さんが立っているではないか。


「え? ばあちゃん?」


「驚いた? これ、パーティの仮装。特殊メイクなんて現役の頃以来! 楽しかったわ」


 お姉さん、ことばあちゃんは、頬に手を当てて花のように笑った。その手の皺まできれいに塗り隠され、爪は抜かりなくネイルアートが施されている。信じられない若さだが、ラルがおっさんになるくらいだから、こんな仮装もありうるのだろう。


「ばあちゃんの若い頃って、こんな感じだったの?」


「ううん、全然。これは完全に架空の人物の姿よ。ただ、こういう感じの女の子ってナメられるじゃない? 『総裁』のイメージから遠い姿として、この仮装を選んだだけ」


 ばあちゃんがスカートを指で吊り上げ、裾をひらっとさせた。たしかにこの、スイーツの写真と自撮りを交互にネットに上げていそうなお姉さんは、暗殺組織の総裁には見えない。いや、普段のおばあちゃんの姿からも想像できないが。


「ところでキルは?」


 訊ねてみると、ばあちゃんはちらっと玄関の方に目をやった。


「あら? 三十分以上も前に出かけたよ。会ってないの?」


「知らなかった。あいつ、挨拶もなしに……なんだよ。どんな仮装、というか変装してるのか、見たかったのに」


 あの小さい体では、せいぜい小学生か大型の犬の仮装くらいしかできそうにない。どんな姿になったのか気になったが、早々に出かけたくらいだ、あまり見せたくもなかったのかもしれない。

 出かけようと背を向けたばあちゃんを、俺はふいに、呼び止めた。


「あのさ。この前、親父から電話があって、少しだけ仮装パーティの話をしたんだけど」


 ばあちゃんが顔だけ振り返る。顔が知らないお姉さんだから、変な感じがする。俺はその「知らない人」に訊ねた。


「キルとばあちゃんは、なにか作戦を立ててたよな。どんな作戦なんだ?」


 親父のあの言い回しが気にかかる。なにか、大きな代償を支払う気がしてならない。

 しかしばあちゃんは、にこっと微笑むだけで、教えてはくれなかった。


「人を騙すときはまず身内から。いくら咲夜相手でも、そんな重要なこと喋っちゃうほど、私も落ちぶれちゃいないわよ」


 そう言いつつも、彼女はひとつ付け足した。


「それはさておき、咲夜、今夜はもう日が昇るまで外に出ちゃだめだからね。パーティはもう始まってるんだから」


「パーティ、翌朝まで続くのかよ。ともかく、俺は会場に行かないんだから関係ないんじゃないか。俺よりばあちゃんとキルが気をつけてな」


 俺がテレビに視線を戻すと、ばあちゃんはリビングを出て行った。


 *


 その後、俺は自室の椅子に立てかけてあった鞄を見て、重大なミスに気がついた。数学のノートを、使い切ってしまったのだった。明日の授業で使う分がない。


 ばあちゃんを見送ったあと、俺はさっさと風呂に入ってしまい、あとは寝るばかりだった。だというのに、このタイミングで買い忘れに気づいたのである。

 明日の朝、登校中に急いで買おうかとも考えたが、朝はいつも遅刻しかけるし、そもそも寝て起きたらまた忘れるかもしれない。仕方がない、今からいちばん近いコンビニに買いにいくとするか。俺は部屋着に上着を羽織って、財布だけ持って外へ出た。


 玄関を出ると、真っ暗闇の中をふっと風が通り抜けた。秋から冬に変わっていく途中の冷たい空気が、風呂上りの火照った頬を冷やす。ふと、夜明けまで外へ出かけないようにと、ばあちゃんから忠告されていたのを思い出した。

 とはいえコンビニまでは、徒歩で十五分程度だ。仮装パーティの会場がどこだか知らないが、そこへ近づくわけでもない。それより明日のノートがない方が大問題なので、ばあちゃんのあれは一旦置いておき、コンビニに向かった。


 夜風を浴びながら細い月を見上げ、真っ直ぐ歩いて十五分。明かりの落ちた町の中に、二十四時間営業の店の光が見える。

 気の抜けたチャイムの音に出迎えられ、中に入る。それなりの遅い時間である今は、客はまばらだ。店員はだるそうな顔をした二十代くらいのバイトがひとり、客は作業着姿の男がひとりと、金髪をポニーテールにした女の後ろ姿があるだけだ。俺は寄り道せずに文具の棚に向かい、ノートを一冊選んでレジへ向かった。背後では、カゴにパンを詰めたポニテの女が、スイーツコーナーを凝視している。レジに並ぶ俺とは背中合わせになる形だ。

 ノートを買って、店をあとにする。家に向かって歩く俺の背中に、男の声が呼びかけてきた。


「すみませーん、ちょっと道をお聞きしたいんですが」


「はい?」


 立ち止まって振り向くと、配達業者らしき制服姿の男性が、困った顔をしていた。キャップ帽のつばを摘まんでやや上に上げ、片手には小包を抱えている。


「荷物の配達中に、道に迷いまして。朝見さんというお宅、ご存知ですか?」


「え、うち?」


 彼の口から出たのは、俺の苗字である。俺はなにも注文していないし、まひるとばあちゃんは通販は使わないが、キルがなにか頼んだのだろうか。配達員はぱっと明るい顔になった。


「お宅でしたか、ちょうどよかった! 朝見暁吾さんご本人はご在宅ですか?」


「親父は今いませんけど、なにか届けるならここで受け取りますよ」


 はっきりと親父のフルネームが出てきて、同じ苗字の他人という可能性が一気に減った。親父がサプライズにサプライズを重ねて誕生日のプレゼントを追加したのかもしれない。

 荷物を受け取ろうとすると、配達員の方も小包に伝票を載せて、ペンとともに差し出してきた。そのペンを取りかけて、俺は手を止めた。


 こんな遅い時間に配達? ありえなくはないのかもしれないが、ちょっと不自然ではないか。

 キルがよく利用するフクロウの抱きこみ業者のフクロウ便は昼夜問わず現れるが、目の前にいる男の制服はフクロウ便のものではない。

 それに荷物の宛名は親父宛。親父から俺宛でもなければ、キル宛でもない。伝票に書かれた送り主の名に目を向ける。暗くてよく見えない。コンビニの明かりを頼りに目を凝らしてみても、字が潰れていて読めない。

 いや、これは、文字ではない? わざと読めなく書いてある?

 配達員の男が目をぱちくりさせる。


「ここの、受領印って欄にサインをお願いします」


 俺はまだ、ペンを取れなかった。


「あの、これ、どこからの荷物ですか?」


 直球に訊ねる。配達員の男は、それまで見せていた穏やかな表情から、すっと無表情になった。帽子で翳ったその顔に、ぞっと背筋があわ立つ。

 と、そのときだ。


「やあ、朝見くん。奇遇だねー」


 背後からぐいっと、腕を引っ張られた。引き寄せられるまま、俺は声の主を見上げた。ウサギのプリントがなされた黒いTシャツにパーカーを羽織った、癖っ毛に眼鏡の男。にっこり微笑む彼に、俺はぽかんとした。


「古賀先生……」


「あんまり遅くに出歩いてると、補導されちゃうよ? 俺、別に学校の先生じゃないけど、関係者ではあるからほっとけないな」


 そうして古賀先生は、俺を強引に引っ張って、配達員から引き剥がした。有無を言わさない強い力で引き寄せられ、俺はもたついた足取りで先生についていく。

 配達員も追いかけてくる。その男の顔は帽子で殆ど見えないが、先程一瞬見せた無表情が頭にこびりついて、どうにもぞわっとする。配達員が寄ってくると、先生の足も加速し、俺も引きずられた。


 コンビニを離れ、街灯の消えた商店街へと連れ込まれていく。ノートの入った袋が、提げた腕でカシャカシャと音を立てる。先生は俺の手を引いて、古びた豆腐店の脇、建物と建物の隙間、三十センチほどの隘路に俺を押し込んだ。蓋をするかのように自分も滑り込んでくると、彼はぴたっと動きを止め、そのまま一切音を立てなくなった。

 まるで石像になったかのように動かない先生の横顔が、通りを見つめている。俺も息を潜め、風で音が鳴らないよう、ノートを胸に抱えた。心臓がばくばく跳ねている。鼓動でノートの袋が揺れて、音に鳴りそうなくらいだ。


 先生越しに、配達員らしき男の姿が見えた。周囲を見回しながら、先生の前を通り過ぎていく。

 先生はまだ、微動だにしない。それからどれくらいの時間が経っただろう。何時間もそうしていたような気分だが、恐らく五分くらいしか経過していない。先生がふう、とため息をついた。


「行ったかな。全くもう、野蛮で嫌だねえ」


「ええと、先生……? 状況がよく分かんないんですが」


 なにからなにまで唐突で、整理が追いつかない。困惑する俺に、先生はやっと顔を向けた。


「どこから説明しようかな。まず、さっきの荷物の中身は……分からないけど、自然に考えたら爆発物」


 さらっと言われ、俺は息を呑んだ。先生は変わらない口調で続けた。


「君も違和を感じたとおり、あの配達員は配達員ではない。配達員の仮装をしてる、フクロウの暗殺者。特に反右崎の何者かだね。今夜はフクロウ創立記念の仮装パーティだから、そういうのがいるんだよ。君もおうちの人に、外出しないように言われなかった?」


「言われました……けど、情報戦だか殲滅戦だか知らないけど、そういうのは仮装パーティの会場でやるんじゃないんですか?」


 フクロウの暗殺者が配達員の仮装をしているのはまだ分かるが、今はまさにパーティの真っ最中で、こんなところをうろついているとは考えにくいのだが。疑問符を浮かべる俺に、先生は言った。


「君、パーティ会場がどこかに設けられて、フクロウの会員が一箇所に集まるとでも思ってるの? パーティの会場はこの地球全土だよ?」


「はい?」


「当たり前じゃないか、フクロウの暗殺者は世界各地で活動してる。仕事中で現地を離れられない人もいるんだ、自分のいる場所がパーティ会場だよ」


 俺は数秒、言葉を失った。パーティの物理的規模が想定外だし規格外だ。


「そんなわけ……だって、みんなでわいわいおいしいもの食べるとか、その食べ物に毒が仕込まれてたとか聞きましたよ」


「それはほら、他人同士が出会う場面なんて、だいたい食事の場でしょ。フクロウの暗殺者同士が同じ店に合流して情報交換をしたり、その情報を察知した仲間じゃない暗殺者が紛れ込んだり、全然別件の暗殺者がナンパを装って毒入りのカクテルを送ったり、そういうこと」


 ますます驚愕だ。俺がイメージしていた仮装パーティと、全く違った。先生がぽんと、自分の胸を叩く。


「俺も参加中だよ。これは休日のスクールカウンセラーの仮装」


「仮装ですか、それは」


「正直、単に面倒だっただけ。でも俺が普段どおりの姿じゃなかったら、こうして朝見くんを助けてあげることもできなかった」


「あ、はい。それはありがとうございます」


 もしもあの場で先生が先生として現れてくれなかったら、俺は先生に従って逃げてはこられなかっただろう。先生がため息をつく。


「君ねえ、もう少し危機感持った方がいいよ。殺されても仕方ないんだからね?」


 恐ろしい切り出し方をしてから、先生は話し出した。


「このパーティがフクロウ身内同士の情報戦であることは知ってるよね。そんな情報交換の中、エージェント右崎左門の本名が『朝見暁吾』であるという話が出回ってるんだ。かねてから右崎に敵意を持っていた他のエージェントや暗殺者は、右崎を失脚させようと動いてる」


「え……親父の本名が?」


 俺はつい、はっきりとそう言った。先生にはまだ、親父の正体について核心をつくような発言はしないつもりだったのに、あっさり言ってしまった。でも先生ももう分かっているようで、頷いただけだった。


「さっきの配達員風の暗殺者も、右崎の活動拠点がこの辺りであると推察してここに現れ、配達員を装って住所を特定しようとしていたんだよ」


 親父との電話がまた、脳裏に蘇る。


『もしもパパの身になにかあって』――親父は今夜、自分の正体がバレてしまうのを、分かっていたのだろうか。腹を括ったような態度だったのは、その覚悟を決めていたから。

 しばし呆然としていた俺は、配達員風の男との会話を反芻した。あの男も親父の本名を聞きつけて、拠点、すなわち我が家を探していた。


「それで、話しかけた相手がたまたま俺だった、と」


「そう。君は愚かにも、自分が右崎の息子であると自白したようなものだ。今この路地裏から出てしまえば、囲まれるかもね。あの配達員風の男が、同じ反右崎派の仲間に君の情報を流してる頃だろうから」


 ひゅっと、冷たい風が建物の隙間を通り抜けた。これは困ったことになった。親父の身元がバレて、繋がりのある俺まで見つかった。

 外を歩いてはいけない……ばあちゃんの忠告は、こういうことだったのだ。


「ここまでバレちゃったら、もうパーティが終わっても嗅ぎ回られるだろうねえ。気の毒」


 怯える俺を面白そうに見て、先生がにまっと目を細めた。


「なんてね、ちょっと脅かしたよ。大丈夫、君はこれといって目立つ方でもないでしょ。包囲しようにも説明できるほど特徴のある顔じゃないから平気平気。次に声をかけられたときに他人のふりすればなんとかなるよ」


「無個性で助かった……」


「ははは。遺伝子に感謝だね」


 先生が悠長に笑う。俺はハッと、先生を見上げた。


「先生も反右崎派でしたよね? それこそまさに、俺をカウンセリングルームに引きずり込んで、親父の情報を吐かせようとするほど」


「そうだね。だからまあ、俺が他の反右崎派に『朝見咲夜』の情報をリークしてやってもいいし、なんならここにいるぞって呼び寄せてやってもいいんだけど」


 そうなのだ。先生は親父と敵対していて、そのために俺やキルを殺そうとした。それなのにどうして、今、俺を庇ってくれたのだろう。


「先生、右崎の本名が『朝見暁吾』かもしれないという可能性に辿り着くまでに、何年もかかったって言ってましたよね」


「うん」


「その情報が今、他の暗殺者にもバレてるのは、先生がリークしたんですか?」


「違うよ。全くの別口から。酷いもんだよ、俺がこんなに頑張って見つけた秘密を、どっかの誰かがあっさりぶちまけるんだもん。やる気なくす」


 やっぱり、と思った。先生は俺を助けてくれたし、他の反右崎派にバラしてもいいと言いつつそうしない。この人はもしかして、敵ではないのかもしれない。


「……右崎の正体を確信してる今、先生は俺を揺する必要がない。むしろ右崎を引きずり出すために、俺を殺してもおかしくない頃合だと思いますが」


 どうして、そうしないのか。先生は目をぱちぱちさせて、小首を傾げた。


「殺してほしいの?」


「いえ、全然」


「じゃあそういうこと言わないの」


 目的が見えなくて怖いけれど、少なくとも今は、この人は俺を殺さない。そう考えてよさそうだ。

 俺は先生を押しのけて通りへ出ようとした。あの配達員風の暗殺者やその仲間に、家まで特定されたらと思うと、いてもたってもいられない。家にはまひるがいる。鍵はかけてあるが、シエルのように窓を割る奴もいるだろう。まひるをひとりにはさせられない。

 しかし、先生が俺の腕を掴んだ。


「どこ行くの?」


「家に戻るんです」


「顔に特徴がないとは言ったけど、さっきの配達員風の人がまだこの辺りで君を捜してるかもしれないよ。もしもあとをつけられたら、敵を自宅に案内するようなものだ」


 全身の血の気が引いた。だったら、どうしたらいいのか。先生が意地悪くにやにやする。


「困ったねえ。まあ君が迂闊だったのが悪いんだけど」


「そうですけど……」


「助けてほしいかい?」


「助けてくれるんですか?」


「交渉次第だね」


 暗闇の中、慣れてきた目に先生の不敵な笑みが映る。俺はひとつ呼吸を置いて、訊ねた。


「なにが望みですか?」


 以前、先生から取引を持ちかけられた。俺がキルの動きを先生にリークする代わりに、先生が日原さんを守るというものだ。ただあのときは、先生がキルを殺すつもりなのだと気づいて、俺は条件を呑まなかった。

 今回はあのとき以上に、切羽詰った状況だ。どんな不利な条件を出されるか分からない。

 先生は俺やキルを殺そうとしている人だし、親父を敵視しているしで、信用に値する人ではない。それでも、今は先生しか頼れない。まひるに危険が及ぶくらいなら、腹を括る。

 先生は、にこっと穏やかに笑って答えた。


「これからも、カウンセリングルームに遊びにきてほしいな」


「はい」


 俺は頷いて、彼の次の言葉を待って、返した。


「まさかそれだけですか?」


「それだけ」


 そんなはずない。カウンセリングルームに俺を呼び出し、なにか聞き出すのが目的のはずだ。


「回りくどいことしないで、はっきり訊いてください。今の俺、慌ててますよ。重要な秘密も喋るかもしれないじゃないですか」


 騙されるみたいに聞き出されるより、堂々と質疑応答の方がまだマシだ。こちらも先生の本性を知っているのだから、こそこそされる意味もない。


「でもこれ以上、俺、なにも知らないですよ。親父が具体的になにしてる人なのか分かってないし、キルも俺に詳しい作戦話さないし」


「うんうん、分かってる。俺も君にそこまで期待してない」


 先生は腕を組み、眼鏡の奥で微笑んだ。


「ただ退屈だから、遊びにきてほしいだけ。陸くんも一緒に。ゲームとかトランプとか用意しておくから」


「え、本当に遊びにいくだけ?」


 二度目だが、そんなはずない。しかし先生は、どんなに訊ねてももうそれ以上の条件を出してこない。代わりに、この状況を打破する戦略を具体的に話しはじめた。


「君、今、携帯持ってる?」


「持ってないです」


「バカだねえ。まあ仕方ない。ひとまず君は、あと五分ここで待機していて。俺は反右崎派の暗殺者に連絡を取って、朝見暁吾の息子は俺が殺したと話しておく」


 先生はそう言うと、俺の上着の袖を引っ張った。


「その証拠品として、腕の一本でも捥がせてもらわないと説得力に欠ける。でも切り落とすと騒ぎそうだから、この上着だけで勘弁してあげる」


 先生に促されるまま、俺は上着を脱いだ。少し肌寒い。先生は上着を受け取って、こちらに背を向けた。


「これをトマトジュースで汚して、いちばんバカそうな暗殺者に見せればコロッと騙される。バカじゃない奴はそんなのじゃ騙せないけど、あとは『右崎の息子は死んだ』というデマさえ広まればいいからね。最初のひとりを騙せれば、時間稼ぎくらいにはなる。幸い今夜は、そういう情報戦の夜。常時の数倍の速さで広がっていく」


「は、はあ」


「でもこんなのはその場しのぎでしかないからね。君が生きてる可能性にかけて嗅ぎ回る奴は、何年も付きまとう。名前でバレてしまえば同姓同名の他人のふりで誤魔化しきれるものでもない。そこまでは俺も面倒見きれないから、自分でなんとかしてよね」


 先生はそう言って、上着を小脇に抱えて俺に背を向けた。そのまま立ち去ろうとする背中に、咄嗟に声をかける。


「あの……」


「まだなにか?」


「どうして助けてくれたんですか?」


 ストレートに訊いてみた。先生はちらっと顔だけ振り向き、柔らかに微笑む。


「友達だから。正確には、友達になりたいから」


 それだけ言い残し、先生は店の隙間を出て行った。先生の本音が見えなくて、まだまだ聞きたい事だらけだったが、あと五分くらいは待機しないといけないらしいから追いかけられない。俺は薄着の体を腕に抱いて、息を潜めた。

 無言でじっとするだけの五分は長い。頃合を見計らって、狭い隙間から這い出る。冷たい夜の町が、静まり返っていた。腕にノートをぶら下げて、足音を潜めて帰路につく。


 コンビニの前まで戻ると、暗闇に慣れた目には店先の光がやけに眩しかった。通り過ぎようとした矢先、ギャーッと悲鳴が聞こえた。女性の声だった。

 コンビニの裏の路地からだ。俺は一秒立ち止まり、すぐにコンビニ裏へと駆け出した。自分の置かれた状況はよく分かっている。しかしなにか事件が起きているのなら、女の人が叫んで助けを求めているのなら、善良な市民として無視はできない。


 路地の暗がりを覗き込むと、背の高い男性と、華奢な女性と思しきシルエットが見えた。俺の足音が聞こえたのだろう、ふたりともこちらに気づいたようで、影が動いた。

 女の方がこちらに走ってくる。影しか見えないが、ポニーテールがぴょこぴょこ揺れているのは分かる。だんだん近づいてくると、その顔まで徐々に見えてきた。


「サク!」


 俺を呼んだ、その女性は。


「き、キル!?」


 金髪のポニーテールに、ぷにっとした童顔。間違いなく、俺が毎日目にしている暗殺者の顔だ。声だって間違いなく彼女のものだ。だが走ってくるその少女は、俺の胸の高さに顔があるくらいの身長だし、あのアホみたいな犬のフードも被っていない。普段の小学生のような姿ではなく、まさに十七歳くらいの、キルが順調に発育していたらこうなっていたであろう容姿をしている。

 彼女は俺のすぐ傍まで駆けつけてきたかと思うと、なにもないところで突然つんのめり、俺の胸元にダイブしてきた。あまりの勢いに俺は後ろに突き飛ばされ、ふたりして路上に倒れこむ。思い切り頭を打った俺は、しばらく悶絶していた。

 だというのに、俺をクッションにしたおかげで無傷のキルは、俺の胸ぐらを掴んで容赦なく揺すってくる。


「聞けサク! まずいことになった! サクが死んだー!」


「やめろ! 振るな! 死ぬ!」


 頭をぶつけた衝撃でただでさえ目が回っているのに、ぐわんぐわんとシェイクされて意識が吹っ飛びそうだ。

 俺は頭を抱えて、キルに訊ねた。


「お前、キルだよな? なんかスタイル良くなった?」


「そうだ私はキルだ。そしてこれは『背が伸びた生島キル』の仮装だ」


「はい?」


「そんなことは今はどうでもいいだろ。それより緊急事態だ。サクが死んだ」


 キルは今度は俺の肩に手を置き、がっしり力をこめてきた。


「総裁とラルとミスター右崎と相談して、ミスターの正体を明かしたまでは計算どおりだった。しかし次の一手を打つ前に反右崎派がサクを見つけてしまって、古賀ちゃんがサクを殺しちゃったんだ。どうしようサク。作戦が乱れた!」


 喋りながらまた高揚してきて、彼女は俺の肩をガタガタ揺さぶった。


「どうしよう、サクが死んだら、サクが死んじゃったら、私は、私は……!」


「落ち着け、お前は俺に俺が死んだ報告をしておかしいと思わないのか」


 俺に言われて、ハッとしたのだろう。キルは揺さぶるのをやめて、俺の顔を見た。丸い目をぱちくりさせて、数秒呆然とし、小さい手で俺の頬を触る。


「は? 生きてやがる」


「生きてるよ」


「へ? でも死んだって……」


 俺の腹に乗っかったままで、キルはまだ抜けたことを言っている。不思議そうにまばたきするキルの背後に、もうひとつの人影……背の高い男が歩み寄ってきた。


「うん……いちばんバカそうな奴から騙そうとは思ったけど、まさかこれほどまでだったとは」


 姿を現したのは、つい先程まで一緒にいた古賀先生である。ただし、手には真っ赤に汚れた俺の上着を携えている。先生自身も顔や手や服にべったりと赤い液体を伸ばしていて、その上着の主を殺してきた直後のように見えた。思わず、俺でさえびっくりした。


「うわああ!」


「いや、これ君のでしょ。なんで驚いてるの」


 先生が呆れ顔で上着を吊り上げる。


「トマトジュースだってネタバレまでしたでしょうが」


「だって、先生が人を殺してる姿をリアルに想像してしまって……」


 先生は暗殺者だから、人を殺したことくらい当たり前にあるのだろうが、これほどまで生々しく実感したのは初めてだった。キルが俺と先生とを交互に見回す。


「は!? どういうことだ。あんたらグルなのか?」


「グルというか、さっき助けてもらって……」


 俺が説明しようとすると、先生がため息まじりに言った。


「キルちゃんを騙したまでは完璧だったんだけどな。こっちの想定以上に動揺して、右崎の息子が死んだと触れ回りそうないい反応をした。だというのに、それを最初に報告する相手が朝見くんとは……。朝見くんも、最悪なタイミングで出てこないでよ」


 先生の言葉で諸々を察したらしく、キルははあ、と感嘆した。


「そういうことか。サクを死んだ設定にして、追っ手を撒こうと……」


 そしてくわっと牙を剥く。


「いや、それ私がやる予定だったんだよ! 作戦では、もうバレかかってたミスターの正体をこっちからバラして、そんな機密情報も守れないミスターに幻滅した私がミスターと決裂し、カッとなってミスターの息子を殺した、というシナリオになるはずだった! サクを殺すのは私だ!」


「だめでーす。もう俺が殺しました!」


 先生がわざとらしく、血塗れ風の上着をキルに見せつける。キルはその上着にしがみつき、なおも先生に噛みついた。


「違う! 私が殺すんだもん。私のだもん!」


「どっちでもいいだろ! 誰がやったという設定だったとしても、とりあえず俺が死んだことになってればいいんじゃないの!?」


 くだらない喧嘩を仲裁し、俺は腹に乗ったキルを手で追い払った。


「とりあえず、キルは俺から降りて。重い」


「チッ。私が殺した設定の方が、右崎周辺がごたついてる感を出せてよかったのに」


 キルがようやく俺から降りた。黒いスキニーパンツに包まれたすらっとした長い脚が、アスファルトに放り出される。顔も声も言動もキルなのに、体だけは大人だ。見下ろしていた先生も、しゃがんでこちらに目の高さを合わせる。


「いいじゃないか、反右崎派が殺した設定なら、反右崎派が勢力を強めているニュアンスまで含んでいるよ。君の作戦とやらは、右崎が弱体化していると見せかけるのが目的なんでしょ」


「そこまで見抜いたか」


「君、さっき俺に向かってはっきり作戦の内容喋ってたでしょ。正直者すぎて心配になってきたよ。今までどうやって暗殺者やってきてたの?」


 先生はもう呆れを通り越して不安げに言い、俺とキルを見比べた。


「さしずめ右崎派の混乱を演出して、キルちゃんが美月ちゃん暗殺どころじゃない騒ぎを起こしているように見せかけ、安井議員と日原院長が油断して無常組関連の処理に集中している隙に美月ちゃんを殺そうとしてたんでしょ。俺がじっくり時間をかけて右崎に近づいて正体を突き止めたのすら利用するなんて、強かだね」


「バレちまったからには見苦しい言い訳はしない。そのとおりだ」


 キルはすんなり開き直った。それならそれで俺にもその作戦を教えてくれれば、コンビニになんて出かけなかったのに……と一瞬思ったが、相手の隙をついて日原さんを殺すのが目的なのなら素直に言うことを聞く自分ではない。ばあちゃんからただ「出かけるな」とだけ言われた意味が、少し分かった気がした。

 と、思った次の瞬間には、俺の横にいたキルは姿を消していた。いつの間にか先生の肩を掴んでいて、彼の喉にナイフの先を当てている。

 その一瞬の出来事に、俺は息を呑んだ。

 キルの背中が、静かに言う。


「バレちまったからには、生かしてはおけない」


 しかし先生も、キルの動きに反応していた。喉に突きつけられたナイフを取り押さえ、押し返している。


「そっちから話しておいて、そりゃないよ」


 声には笑いさえ含まれていて、余裕が窺えた。キルが声のトーンを落とす。


「右崎の息子を殺したお前を、生島キルが怨恨で殺害。なんて、シナリオはどうだ。サクとは違って、お前の死体はリアルに残るから説得力も抜群だろ」


「いいね。不自然じゃないし、右崎派の混乱をより演出できる。シナリオはいいけど、残念なところがひとつ」


 先生がキルの腕を押しのける。カランと、アスファルトにナイフが落ちる音がした。


「俺はその程度で死んであげられるほど、優しくない」


「知るか。お前の優しさライセンスに拘わらず、私が殺すっつったらお前は死ぬんだよ」


 ナイフを捨てられても、腕を掴まれて身動きが取れなくても、キルは強気に言い返す。先生はため息混じりに苦笑いした。


「話の分からない奴だな。君がその気でも、俺が死んでやらないって言ってるの」


「うるせえ、殺す」


「ちょっと、ふたりとも、やめろ」


 両方一歩も譲らなくて話が進展しないので、俺が間に割って入った。


「キルは一旦落ち着け。先生は、話を聞かせてください」


 俺がキルの腕を引っ張ると、先生は呆気なくキルを放した。キルがこれ以上暴れないよう、俺は彼女の首の辺りに両腕を巻きつけて押さえる。キルは俺の腕に爪を立てていたが、息を荒くしているだけで抜け出そうとはしなかった。

 俺は改めて、先生を見上げた。


「先生、さっき、なんで俺を助けてくれたんですか? 友達になりたいとか言ってたけど、そんだけじゃないでしょ」


 一緒に隠れていた時点では、気にはなったけれど答えを聞き出せなかった。


「配達員風の奴に話しかけられたときも、俺を見殺しにしたって良かったはずだし、そのあと俺を逃がすメリットも、先生にはないじゃないですが。むしろ俺は、本当に先生に殺されてもおかしくなかったと思ってます。それなのに、どうして? 先生は俺の敵じゃないんですか?」


 先程は濁されたが、改めて尋ねた。先生はしばし面倒くさそうに俺を見つめ、キルにも一瞥をくれ、やがて大きくため息をついた。


「言いたくないんだけど、今言っておかないと後々繰り返しその犬が噛みにきそうだしな。俺の安寧のためにも、話しておくよ」


 先生が上着のポケットから煙草とライターを取り出し、徐ろに火をつける。周囲がぽっと、明るくなった。


「俺の雇い主だった暴力団が、壊滅しちゃってね。現状、俺に与えられてた仕事が宙に浮いちゃってるんだよ」


「……あ」


 そうだった、先生の「日原美月を守るため、キルを暗殺する」という仕事は、無常組から依頼されていた……と、俺たちも推測していたのだった。無常組がなくなった今、先生の事情も変わる。

 先生が煙草を口に咥えた。煙が漂ってくる。先生は煙草から口を離し、小さく息をついた。


「このところ散々な目に遭ってばかりだよ。右崎の息子は生意気だわ、ホー・カードは割られるわ、挙句の果てに依頼者が死ぬわ。情報収集とか根回しとかいろいろやってきたのに、全部無駄になった。やってらんねえわクソが」


 この人、もしかしてかなり不憫なのではないか。なんだか、かわいそうになってきた。興奮していたキルも、今ではちょっと同情した顔で先生を眺めている。先生の死んだ目がこちらを向く。


「でね。その暗殺業のために費やして無駄に浪費した時間を、カウンセラー業の方に充てた方が儲かるって気づいてさ」


「そうかもな」


 キルが相槌を打つと、先生はへにゃっと力の抜けた笑みで言った。


「もう暗殺業はやめて、のんびりカウンセラー生活したいな……って思いはじめてるんだ。ゆくゆくは自分のクリニックを持ちたい」


「聞いたかサク。こいつ、人殺しのくせに全うな夢を語ってやがる」


 先生の言葉に、キルは怪訝な顔をした。先生はそれを無視して続けた。


「けど暗殺業を廃業すると、フクロウ除名になる。機密情報を持ってる以上除名イコール死だから、籍だけは残す。かといって籍はあるのに仕事してなければ事実上の廃業だから、それでも殺されるでしょ。てなわけで、廃業扱いにならない程度に、気が向いたときちょろっと人を殺すくらいにしようと思ってる。カウンセリングもできる暗殺者から、人も殺せるカウンセラーに転身するんだ」


 そういえば過去に、一度フクロウに身を置いたら、除名となれば口封じに殺されると聞いた。辞めたくなってもきっぱり辞められるわけではないのだ。先生の言うような手段で、距離を置く方法はあるようだが。


「そんなわけで、守ったところで報酬が出ないから美月ちゃんはもうどうでもいいし、右崎を正体は分かったから追いかける必要もないし、仕事に対する意欲もない。だから君らにいじわるする必要もなくなっちゃったんだよ」


「なるほど。でもだからって、わざわざ俺を助けます? せいぜい関わらないで放っておくくらいが妥当じゃないですか」


 俺が突っ込むと、先生はまた煙草を咥え、息を吐いた。


「言ったでしょ、君とは友達になりたいから。仕事に関係なければ、かわいがる以上のことはしないよ」


「嘘くさい」


「ははは。まあ本音を言うと、今までみたく仕事を頑張らなくなると条件のいい仕事を他の優秀な連中に取られちゃうから、ちょっとでも右崎に擦り寄っておこうかなっていう魂胆もあり……」


 暗い路地裏では、煙草の先の光が煌々として眩しい。キルはその光をしばらく睨み、小声で俺に言った。


「怪しいな。こいつの言うことなんぞひとつも信用ならねえぞ。殊に今夜は、創立記念仮装パーティだ。誰もが嘘をつく。なんならこいつ、古賀ちゃんの仮装をしてる全くの別人かもしれない」


「いや……仕事内容を含め先生の事情を事細かに知ってるし、声が先生だし、先生であるのは間違いないと思う。暗殺業にやる気なくしてるっていうのも、多分……」


 俺が言いかけるも、キルは被せる勢いで否定した。


「甘い。こいつが仮装でなく本物なら、ますます嘘をつく」


「でも、考えてもみろよ。先生が暗殺業よりカウンセラーに集中した方がいいの、紛れもなく事実だろ」


「それはもっともなんだよな。折角殺し以外の特技があって、人間関係もちゃんと構築できる性格してるんだから、暗殺者やらんでもいいんだよな」


 暗殺者であるキルですらそう思うようだ。人を暗殺できるスキルはなかなか持てるものではないだろうが、わざわざ活かす必要もない。実際、俺がそうだ。キルに才能を認められているが、殺しの仕事をするつもりはない。

 先生の発言が本当ならば、先生が俺を助けた辻褄も合う。俺を助ける条件が「カウンセリングルームに遊びにいく」だけだったのも、合点がいく。気が向いたときだけ暗殺業をするなら、右崎の息子の俺と接点を持っておきたいのだ。

 ひそひそと会議する俺たちを眺め、先生が微笑む。


「納得してくれた?」


「八……七割くらいは」


 俺の返事は曖昧だったが、先生には充分だったようだ。彼は満足げに頷いた。


「こんなのいちいち教えたくないのに話したんだよ? 分かってるね、キルちゃん?」


「チッ。まあ様子見てやるよ。妙な動きがあったら言い訳する間もやらずに殺すからな」


 キルが先生を強気に睨む。俺が腕を解いても、もう先生にナイフを向けようとはしなかった。先生はにこにこした表情が、煙草の火に照らされている。


「信用に足るかどうかは、今後の行動で判断してもらって構わない。その第一歩として、朝見くんを助けてあげたい。ひとまず俺が朝見くんを殺した設定でキルちゃんには口裏合わせてもらって、朝見くんは家で大人しくしててくれるかな」


 先生に指示され、キルが不快そうに眉を寄せる。


「あんたの戦略に乗るのは癪だが、まあ当初の作戦からそうするつもりだったしな。サク、さっさと帰れ」


 俺はただ、明日のノートが欲しかっただけなのに、どうしてこんなことに。文句を言いたい部分はたくさんあるが、言ったところでこの暗殺者どもには通用しないので、素直に言うことを聞く。

 ノートを抱えて、キルと先生に背を向ける。コンビニの裏の路地から大通りへ出る前に、周囲を見回した。妙な配達員とか、そいつでなくとも怪しい奴がいないのを確認し、家の方へと足を踏み出す。コンビニの照明や、少ないながらに道を照らす街灯のおかげで、路地裏よりは明るい。


 ふいに背後に気配を察知し、振り返る。こちらをつけてくる女がいる、と思ったら、やけに背が伸びたキルだった。手に提げたコンビニの袋の口から、スイーツが覗いている。


「古賀ちゃんがサク殺したって言うからびっくりして、折角買ったスイーツ落としちゃった。袋に入ってるし、パッケージの蓋が外れたわけでもないから、食べてもいいよね?」


 平然と話しかけてくるキルに、俺も普段どおりに返事をする。


「汚れてなければセーフ、かなあ。落とした場所にもよる」


「砂利とかついてないし、いいかな。ぐちゃぐちゃになっちゃったけど、仕方ない」


 路地裏では、ここより暗かったししゃがんでいたしでしっかり見ていなかったが、今こうして改めて見ると、やはり不思議な感じだ。本来十七歳だそうだからこの方が自然なのかもしれないが、普段の子供みたいな姿のキルが急に大人になったみたいだ。小さいからまひると変わらない扱いをしてしまいがちだが、そういえば俺とあんまり歳が変わらないのだった、と、実感させられる。


「それ、仮装だっけか……」


「ん。ミスターのせいで『生島キルの容姿は、子供と見間違えるような低身長に童顔』と知れ渡ってるからな。こうなっていれば、逆に私がキルだとは思われにくい。……というラルの発案」


「そうだな。キルの顔しか知らずにキルの仮装してる他の誰かだって言われたら、信じる」


 不思議がる俺の隣に、キルが肩を並べた。身長は日原さんくらいで、体つきは日原さんよりややほっそりしている。スキニーパンツで隠しているが、シークレットブーツでも履いて身長を稼いでいるのだろう。

 いつもはもっと低い位置にある顔がこれだけ近くにあると、なぜだろう、胸がざわざわする。キルがちらっと、こちらを見上げた。


「なんだ、私がこの姿だと緊張するのか?」


「別に緊張はしないけど……」


 答えながら、先程の路地裏でのやりとりが頭に浮かんだ。キルが暴れるのを取り押さえるため、腕で抱きとめた。十七歳の女の子を後ろから抱きしめていたのだと、今更ながら実感してしまって、また胸がざわっとした。

 キルを捕まえるのなんか日常茶飯事なのに、ちょっと背が伸びただけでこんなに意識が変わるのは我ながらどうかしている。

「しないけど」の続きが出ずに無言になった俺を窺い、キルはにやっとした。


「思春期ボーイには刺激が強すぎたかな。もっとメリハリボディにしておけばよかったぜ」


「うるせえ、なんか身長だけみゅっと伸びてて、変な虫みたいで気持ち悪いなと思ってるだけだ」


 キルの煽りにむっとして、咄嗟に幼稚なあまのじゃくで返してしまった。正直者なキルはストレートに受け取って、俺の胸ぐらを掴んできた。


「なんだとコラ! お前も虫けらみたいに潰してやろうか」


「なに!? 意味分かんなくて怖い」


 見た目は大人でも、喋るといつものキルだ。おかげでだんだん、妙などぎまぎが落ち着いてきた。

 キルが手を離し、再び歩き出す。


「サクに褒められても、それはそれで気持ち悪いからいいけど。折角自宅まで警護してやろうと思ってついてきてやってるんだぞ、こっちは」


「それはどうも」


 今夜は仮装パーティ、という名目で、変装した暗殺者やら諜報員やらが潜んでいる。右崎の息子であり、ついでに古賀先生に殺された設定になっている俺は、外を歩いているだけでも危ない立場だ。キルが周囲を警戒してくれるのは、素直にありがたい。


「親父の本名を流出させたの、キルの作戦の内なんだっけか」


 改めて確認する。キルの金髪が街灯の光を受けてきらっと艶めく。


「正確には、総裁の案。ミスターにも事前に許可とって、今夜バラすって決めた。どっちにせよ古賀ちゃんが確信に迫ってきてたから、もう潮時だったんだよ」


 あの電話のとき、親父が悟っていたのはこういう理由だったか。正体が明るみになったエージェントはどうなるのか。俺には想像もできない世界だ。


「俺、死んだことにされるんだよな? 明日、以降普通に生活できるの?」


 聞いてみると、キルはああ、と生返事をした。


「そこまで計算されてる。死んだはずのサクが『やっぱ生きてた』ことになって、明日騒ぎが大きくなるまでがセットだ」


「なんだそりゃ」


「右崎の本名流出、右崎派の揺らぎ、右崎の息子の死亡、からのやっぱり生きてた、まで情報が動く。このめまぐるしく更新される情報についてこられないようなノロマは、フクロウにはいらない。これを逆手に取って話を錯綜させ、安井陣営が情報処理に追われてる隙に美月を討つ」


 キルがしれっと話す。暗殺者でもフクロウ所属でもない俺は、厄介な世界だなくらいの感想しか持てない。が、聞き流しそうになった最後のひと言にハッとする。


「いやいや、日原さん殺すのはナシ!」


「言うと思った。美月を殺さないなら、なんのためにミスターの身を削ったんだよ。古賀ちゃんだって協力してくれてんだぞ」


「そうだった、先生はもう日原さんを守ってくれないんだった! そこは頼りにしてたのに」


 今更気づかされた。キルから聞いた流れだと、騒ぎが大きくなった明日が、日原さん殺害の決行日になりそうだ。俺を横目に、キルがにんまりする。


「残念だったな、私の勝ちだ」


 キルは勝ち誇ったように言うと、俺より一歩前へと踏み出した。少し先を行ってこちらを振り返る彼女を、俺も追いかける。キルの金髪がすいすいと先を急ぎ、角を曲がって、暗い道へと消えていく。その足取りを追いつつ、俺は一瞬、足を止めた。

 そっちは家じゃない。

 しかしキルを呼び止めるのはやめて、俺も彼女の行った方へと足を向けた。キルは角の向こうで俺を待っていて、俺と目が合うとにやっと笑ってさらに先へと駆けていった。


 周囲は住宅街。両側を塀で囲まれた道は、車が二台ぎりぎりすれ違えるくらいの狭さだ。街灯が減って、暗くなっていく。キルの姿も暗闇の中へ溶けて、見えにくくなる。姿が見えなくなりかけても、彼女の腕に提がったコンビニスイーツの袋の音が、俺を誘導する。

 月が雲に隠れ、うっすらとした月明かりさえもが遠のく。俺の腕の中で、ノートの入った袋がカシュッと静かな音を立てた。ひんやりした空気が頬を冷やす。


 やがて、キルが立ち止まった。目の前には、民家の壁がある。左右は塀、完全な袋小路だ。

 雲が流れ、月が顔を出す。一瞬、振り向いたキルの表情が微かに照らされた。


「私の勝ち、だ」


 にやりと目を細めた彼女が、先程と同じ言葉を繰り返す。

 俺はそっと、背後を振り向いた。電柱の影に、月の光がほんのりと、人の輪郭を描いている。キルの言葉を受けてか、その人影が堂々と姿を現した。帽子のつばを指に挟み、反対の手には小包。あの配達員……の仮装の男だ。

 いつからつけられていたのか、彼は俺を見つけて追ってきていたのだ。この先は行き止まりで、道を戻るにはこの男の脇を抜けなくてはならない。そしてこうなるように俺を誘導したのは、キルだ。

 配達員風の男が、こちらに向かってきた。動きは大きくないのに、猛獣が近づいてきたかのような緊張感が走る。蛇に睨まれた蛙の如く動かない俺に、男は小包を差し出した。


「受け取りのサインをください」


 帽子の影で顔が殆ど見えない。でも、にやりと裂けた口元だけは、はっきりと見えた。

 俺は荷物の方へ手を伸ばす。ペンに手を翳したその直後、小包を抱えた男の手首を引っ掴んだ。男を強引に引き寄せて、彼の体がバランスを崩したら、キルの方へと突き飛ばす。


「キル!」


「はいよ」


 キルは素早く動き、男の襟首を掴んだ。と、そのままつんのめってすっ転び、男の上に倒れこむ。


「うわああ」


「ひっ!」


 急に掴まれた上にキルにのしかかられ、男は短く悲鳴を上げた。帽子が外れて、アスファルトに落ちる。小包も吹っ飛んで、ペンとともに道の脇に転がっていた。キルは男に馬乗りのまま、苛立ちながら自身の足を掴んだ。


「ったく、これ動きづらいったらありゃしない! 身長なんか伸ばすもんじゃねえな」


 やけに長いブーツが、スキニーパンツから引きずり出される。そういえば俺も、なにもないところで転んだキルに下敷きにされた。ブーツを放り投げるなり、キルは踏みつけた男の喉にナイフを突きつけた。


「サクという餌に釣られて、こんな行き止まりまで尾行、ご苦労様。さしずめ私を、『生島キルの仮装をした自分の仲間』とでも思ったか?」


 ナイフの先が、月の光で白く光る。


「そう思うのも無理もない。作戦内容を喋りながら、サクをこんなとこまで連れ込むんだもんな。尾行している自分に気づいて、サクを挟み撃ちにしようとする仲間だと思っちゃうよな」


 キルが可笑しそうに言う。男がキルからナイフを奪おうと、身じろぎした。体の軽いキルは、簡単に転げ落ちそうになる。それを見ていた俺は、反射的に男の肩を踏んで地面に押し付けた。人を足蹴にしたのは初めてだ。自分の足の真横に、蒼白になって怯える知らない男の顔がある。

 そしてその男の腹には、元の身長に戻ったキル。


「残念、深読みしすぎたな。私は本物の生島キルだ」


 なんとなく、状況は把握した。

 どの時点でかは分からないが、キルは俺を尾行する配達員男に気づいた。俺に付き添い、敢えて家に戻らず、俺をこの袋小路に誘導し、配達員男に自分を仲間だと誤認させる。

 そうしてキルが追い詰めたのは、俺ではなく、この配達員男の方なのだ。キルが俺を見上げた。


「サクもご苦労だったな。私が変な方向かっていって、怖くなかった?」


「怖いというか、困惑はした。なんの説明もなく巻き込まれたから」


 キルが行き止まりの方へ入っていったとき、違和感を覚えた。こいつは俺をどこへ連れて行こうとしているのだろう、と、ひやっとしたものだ。もしかしたら、キルの仮装をした別人で、俺を追い詰めて殺す気なのかと、考えなかったわけではない。

 でも、彼女がキル本人である確信があった。声がそうだし、「総裁」を知っている。そしてなにより、俺との接し方。これまで一緒に暮らしてきたから間違いない。他人が簡単に真似できる距離感ではない。そんないろんな要素が根拠だった。

 だったら、彼女についていって問題ない。キルは日原さんを殺すつもりの暗殺者ではあるが、俺を売るような真似はしない。これもやはり、確信していた。ただ、これに根拠はない。キルならなにか作戦があるのだろうと、身を委ねたまでだ。

 そしてやっぱり、キルは俺を裏切らなかった。

 キルが男の首根っこを押さえる。


「数責めを警戒したけど、どんなに周囲を見てもお前しかいなかった。手柄を独り占めしたかった気持ちは分かるが、デカイ獲物を狙うなら、報酬を分けてでも他人を協力させた方が成功するぜ」


 キルの嘆息に、男は捨て台詞を吐く。


「……こんなガキごときに、そんな手間取るかよ」


「獲物の大きさを見誤ったか。お前の獲物は朝見咲夜だぞ? ひとりで狩れる相手じゃない。詳しくは話せないけどこいつは血統書付きだし、それよりなによりヤバイのは」


 男の肩を踏んだ俺の爪先を、キルが一瞥した。


「こいつ、自宅で暗殺者飼ってるんだよ」


「すげえ獰猛な奴をな」


 俺もつい、ひと言つけ足した。

 そこへ、すたっと軽やかな着地音がして、聞き覚えのある声がした。


「月夜に舞い降りる白銀の堕天使……傷を負ってもそのさだめに抗えない」


「おうシエル、遅いぞ」


 キルの口にした名前を受け、俺は後ろを振り向いた。シエルの声だったし、キルもその名前を呼んだが、そこにいたのは黒髪に眼鏡の大人しそうな青年である。見た感じ大学生くらいの風貌だが、よく見ると背が低くて、ちょうどシエルくらいだ。


「仮装か。ややこしいな」


 とはいえ、ばあちゃんにもラルにもキルにも驚かされたから、もうあまりびっくりしない。キルが俺に目をやった。


「これも作戦の内のひとつでな。私かラルかシエルの誰かが、反右崎派をひとりでも捕まえて、こいつらの内情を暴く運びになってるんだ。てかシエル、お前今、『傷を負って』って言った? どこか負傷したのか」


 途中からは、キルの視線はシエルに移っていた。シエルはよたよたと、こちらに近づいてくる。


「塀から飛び降りて着地するとき、足を捻った……」


「そういう奴だよ、お前は。この配達員、運べるのか?」


「うん、道の入り口にコンテナと荷台持ってきた。こいつ、縄でぐるぐる巻きにしてコンテナに突っ込めば運べる」


 大学生風シエルは、背中に背負ったリュックサックから、太い縄を引きずり出した。

 三人もの敵に囲まれ、配達員男は言葉を失っていた。流石にちょっと、俺でも同情する。

 キルがナイフを突きつけたまま、楽しげに笑った。


「よし、運んだら楽しい拷も……じゃなかった、お喋りの時間だ」


 *


「ったく。ノートの買い忘れなんてポカやらかして、総裁の言いつけを守らないだなんて」


 リビングでキルが不機嫌顔をする。俺は大人しく頭を垂れていた。


「それは本当にすみませんでした」


「まあでも、配達員男を誘導するにはちょうどいい餌になってくれた。おかげさまでラルの仕事が捗ってる」


 そう言いながらもやはりどこか不機嫌そうな顔なのは、俺の行動に怒っているから、ではない。折角捕まえた捕虜の取調べに、キルだけ参加させてもらえなかったからである。

 あのあと、キルとシエルに捕まった配達員風の男は、荷台に乗せられてシエルに運ばれてどこかへ連れて行かれた。俺とキルは家に帰り、いつの間にか中で待機していた知らないおっさん……の姿をしたラルと合流した。どうやらキルから、俺が外出したと連絡を受けて、まひるを保護するために家にいてくれたらしい。


「さあラル! 捕虜から全部搾り取るぞ!」


 キルがうきうきして誘っていたが、ラルはあっさりと首を横に振った。


「キルはここで待機よ?」


「なんでだよ! 私が捕まえたんだぞ」


 キルが目を見開いて怒るも、ラルは頷かない。


「キルは直情的すぎて、相手の発言に翻弄されちゃうじゃない。興奮して自分の方から余計なこと喋ったら最悪だわ。こういうのは私が適任だから、任せなさい」


「とか言って、おもちゃ横取りしたいだけじゃねえか!」


 キルは最後まで粘り強く抵抗していたが、すやすや眠るまひるを守るためと言いくるめられて、こうして家で待機している。

 時刻は深夜一時を回っていた。俺の誕生日とキルの誕生日とフクロウの創立記念日は、いつの間にか終わっていた。壮絶な一日だったな、なんて口の中で呟いて、リビングの天井を見上げる。


「さっきの配達員風の人、どこへ連れてかれたんだ?」


 知るのも怖いが訊いてみると、キルはソファにもたれて答えた。


「学校の裏の山に半壊の納屋があっただろ。あそこを使ってる」


「あったなあ、そんなとこ……」


「爆発物とか持ってそうだから、住宅地は避けたくてな。もちろん爆発させる前に回収するし、武器の類いはシエルが処分する運びになってるけどな」


 しれっと説明されるが、なかなか酷い仕打ちだ。正義の勇者か悪の魔王かでいえば、魔王側に近い。


「あの人、同じフクロウの所属なんだろ? そんなに厳しくしなくても」


 俺が眉を寄せると、キルはじろっとこちらを睨んできた。


「前にも言ったろ、フクロウは同盟じゃない。あくまで暗殺者が動きやすくあるためのシステムであって、ひとりひとりはフリーランスの暗殺者だ。殊に、上手く回ってる組織を引っ掻き回そうとするなら敵みたいなものでしょうが」


 同業者だからといって、仲間ではない。キルからそう聞いている。


「たとえ協力関係にあるラルやシエル、ばあちゃんであっても、利害が一致しなければ敵に回る……だっけか」


「そう。で、逆もある。敵だった奴でも立場が変わればあっさり味方になる。今回のあの伊達眼鏡ウサギがそれだ」


 キルが脚を組み直す。


「古賀ちゃんが味方についた。これは大きい収穫だ」


 雇い主がいなくなって仕事がなくなった、古賀先生。急な手のひら返しには訝ったが、事情次第で立場が変わるというフクロウの暗殺者ならこういうことも自然に起こるのだろう。キルが両拳を突き上げて気合を入れる。


「よーっし! 古賀ちゃんと協力して美月を殺すぞ! やっと片がつくぜ」


「いやいやいや! やめろ! 夕飯のリクエストなるべく聞くから……」


 無駄と分かりつつも交渉しようとしたのだが、その前にキルは耳に手を当てて俺の言葉を遮った。


「はい。ふうん、そんなあっさり口割ったか。かなり下っ端だったのかな」


 どうやら通信機に着信が入ったようだ。相手は多分、ラルである。


「ああ、安井とは無関係か。その辺は古賀ちゃんから聞くか。反右崎派関連については?」


 捕虜が喋った内容を共有しているのだ。俺も聞き耳を立てたいところだが、キルの通信機は携帯のように音漏れしないので全く聞こえない。ただ、キルの神妙な顔つきが、諸々を物語る。


「そうか。ミスター、結構追い込まれてるんだ。そうだよな、本名を晒すなんて捨て身の作戦を取ったくらいだ。自分でも、総裁も、分かってるんだろうな」


 キルは真顔でそう言ってから、改めて顔を上げた。


「思ったより状況が悪い。でもまだそいつが嘘をついてる可能性も捨てきれないからな。反右崎派の件も、古賀ちゃんに聞いて裏を取る。まだ完全には信用できない奴だけど、実力は一流なんだし……」


 聞きながら、俺は自分の心音が早くなっていくのを感じていた。

 エージェントミスター右崎、すなわち俺の親父。親父のことは大嫌いだが、どうでもいいわけではない。飄々としていて緊張感のない人だから伝わってこないが、多分あの人は、俺が知っている以上に危険な立場にいる。キッチンに並んだ「世界の塩セット」を思い浮かべる。一緒に添えられていたメッセージカードの、親父の肉筆。「大好きなパパより」――それは思い出すとイラッとするので一旦頭から追い払い、思考回路を軌道修正する。

 なにやらピンチなのは伝わってくるのに、具体的にどうなっているのかが全然見えてこない。もどかしくなって、俺はソファを立ち上がった。リビングにキルを残して階段を上り、自室のドアを開ける。ベッドの上に、充電器に繋がれたスマホが寝そべっている。

 それを手にとって、俺は着信拒否していた番号をタップした。着信拒否を解除する。一時的に、一時的にだ。またウザい態度で来られたら、すぐに着拒する。頭の中で言い訳して、その番号にかけた。

 向こうとは時差があるから、夜中ではないのだろう。電話の向こうからすぐに、元気な声で応答があった。


「咲夜! どったのー?」


 猫撫で声に、一気に精神力を吸い取られる。なんだか大変なときらしいのに、調子が変わらない。俺は辟易のため息を洩らした。


「なんか知らんけどやべえことになってるっぽいから、詳しく聞きたくて連絡した。大丈夫なのかよ」


「心配してくれてありがと! なに、ちょーっとパパを嫉妬してる奴らが徒党を組んで、フクロウの実権を乗っ取ろうとしてるだけさ。そのためにパパを陥れようと、足元崩されてるってだけ。そろそろ潮時なのは分かってたから、総裁と話し合って本名もバラしたしね」


 本人はあっけらかんとしているが、こちらとしては気が気ではない。親父は、はははと豪快に笑った。


「こんなの覚悟の上で仕事してるんだからパパなら大丈夫だよ。明子さんと約束してるんだ。咲夜とまひるのためなら、なんでもするって。公序良俗に反することでもする」


 親父は明るく弾んだ声で言った。


「この世から消える覚悟だって、とっくにできてる」


「……は?」


 スマホが手から滑り落ちそうになった。聞き間違えかと思った。でも、たしかに聞こえた言葉が、頭から離れない。

 綿菓子よりも軽やかに、なんてことを言うのだろう、この人は。


「なに、言ってんだよ」


『もしもパパの身になにかあって、この先も今までどおり仕送りができなくなっちゃっても、大丈夫だからね』


 嫌な言葉が、頭を巡る。


「母さんが言ってただろ、命を粗末にしたらいけないんだよ。暗殺者集団のエージェントにこんなこと言うのも今更だけど、でも」


 言葉が上手く出てこない。言いたいことが喉で絡まって、声をつっかえさせる。


「俺は母さんの言いつけ、守ってきたよ。あんただって母さんが大事なんだろ。だったら、そんなこと言っちゃだめだ」


「あはは、きゃわいー」


 こちらは真剣に説得しているのに、親父は全然、真面目に取り合ってくれない。キャッキャと笑ったあと、親父が言う。


「というわけで、ミスター右崎、フクロウ辞めたから!」


「え!?」


 俺はスマホをぎゅっと耳に押し付けて、大声を出した。同時に、部屋のドアがノックされ、開く。


「おー、サク。入るぞ。あのな……」


 入ってきたキルが話しかけてきたが、俺は電話の向こうの親父に向かって叫んでいた。


「フクロウ……辞めた!?」


「うん。除名。もう総裁とも話はついてる。エージェント右崎はもういません。よろしくちゃん!」


 親父の明るい声が元気に響く。絶句する俺とキルは、互いにその場に凍り付いていた。

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