7.結果よければギリセーフ。

「うーむ。また膠着だな……」


 土曜の夜のリビング。まひるもばあちゃんも寝静まった時間、キルがソファに座って、ひとりごとを洩らしていた。


「仮装パーティはもう明日だというのに。これじゃ方向性が定まらないぞ……」


「どうした? 日原院長の会食の盗聴に失敗でもしたか?」


 ちょっといじわるに声をかけてみたら、キルはフードを少し捲り、左耳のイヤーカフを指差した。


「そうなんだよ。折角無理言って盗聴器を用意して、事前に調べた会食会場の料亭に設置したのに、先回りされて破壊されたっぽい。予備は見つからずに残ってたようだが、電波の入りが悪くて音声を拾えていない」


「マジなのかよ。当てちゃった」


 キルの行動がなんとなく予測できるようになってきた自分が、暗殺者に寄ってきた感じがして嫌だ。

 盗聴器の音声をイヤーカフから聞いていたらしいキルだったが、なにも聞こえなくて諦めたようだ。改めて、俺を見上げる。


「キッチンからいい匂いがするな。なにか作ってるだろ」


「明日のケーキの練習。一回くらいは、試しにスポンジ焼いてみてから本番に行きたいなと……」


「なんだと!? ケーキが生まれようとしている!」


 キルはものすごい勢いで食いついてきた。


「私に話しかけてきたってことは、焼けたスポンジの味見をさせれくれるつもりだったんだろ? いいぜ、任せな。早く早く」


 盗聴音声を聞いていた難しい顔はどこへやら、ケーキひとつで子供みたいにはしゃぎだす。俺は、前のめりになる彼女を制した。


「まだ焼けてない。オーブンの中だから、もう少し待って」


「早く早く」


「そんなに期待するなよ。クリームは作ってないから、本当にただのスポンジだぞ」


「物足りなければトースト用のジャムでも載せるさ。たしかスイリベールのお土産のいちごジャムがまだあるだろ。ああもう、まだ焼けてないのに一丁前に匂いだけ漂ってくる。早く早く」


 キルはもう頭の中がケーキでいっぱいになってしまい、ソファに転がって悶えだした。短くて細い脚がバタバタして、俺を蹴飛ばしてくる。スポンジが焼けるまで、まだ時間がかかる。俺はソファの空き、キルが暴れる横に腰を下ろした。


「仮装パーティ、いよいよ明日だな」


 明日の夕飯のあと、そしてケーキのあと、いよいよキルは仮装パーティに出かける。フクロウの関係者たちの、情報交換と騙し合いのカオスなパーティに。

 一週間前、仮装パーティまでになにか仕掛けられる――そう警戒して、ついに一週間経った。まひるが変態に襲われかけた以外、なにも起こっていない。古賀先生とも、学校ですら会っていない。ここまでなにもないと、逆に相手の動きが読めなくて不気味だ。

 そんな中、唯一見られた動きが、日原院長と何者かの会食であった。

 ケーキにウキウキだったキルが、すっと真顔に戻る。


「会食の相手が、市議の安井だったのは特定してる。だがなんの話をしていたのか分からないから、明日のパーティでどう掻き乱すか、方向が定まらないんだ」


 キルは体を起こして座り直すと、犬柄のクッションを抱えた。


「これまでの状況のままだったら、院長が安井を裏切って、安井の出世の壁になってる現役市長に寝返ろうとしてる、とでもまことしやかに騙ってやろうと思ったんだけどね。例の会食での会話次第では、これが悪手になる可能性がある。どうしたもんかな」


「そういうもんなのか? どんな話題であったとしても、敵に寝返るつもりだっていうんなら充分相手を翻弄できると思うけど」


「そうなんだけどさ。どんなやりとりがあって、どんだけ金が動いて、どれほど関係が強固になったのか把握できない以上、下手に動けばボロが出る。こっちだけ火傷するくらいなら、いっそのこと全く違う切り口から攻めた方が……」


 と、途中まで話してから、キルはキッとこちらを睨んだ。


「って、なんでサクにこんなん話さなきゃなんねーんだ。聞くなよ」


「そっちが勝手に話し出したんだろ」


「サクはなにも知らない方がいい。明日にでも拉致されて、私の作戦を吐かされたりしたらと思うと、面倒だからな。一応りっくんにも言うなよ。どこから洩れるか分かんないんだからな」


 キルの言うとおり、他言はしない方がいいのだろう。いずれにせよ、喋る相手もいない。俺は明日は出かける予定がないからだ。夕飯時までにケーキを完成させるのが、明日の俺のミッションである。陸とも古賀先生とも会わないし、外を歩いて拉致されることもないだろう。

 ふいに、キッチンの方からオーブンの音がした。キルが背筋を伸ばす。


「ケーキが焼けたようだな! 早速食べるぞ」


 今にもキッチンへ飛び出してオーブンを開けそうなキルに、俺は平手を伸ばして制した。


「ステイ! 焼け具合を確認して、これから何度か火を通す。一回焼けたらできあがりじゃないんだよ」


「ぐわー! 早く早く!」


 餌を前にした空腹の犬のごとく、キルがグルグル唸る。たかが試しに焼いたスポンジケーキくらいで、よくこんなに期待できるものだ。

 俺がキッチンに向かうと、待ちきれないキルも後ろからついてきた。リビングからキッチンに近づくに連れて、匂いが強くなってくる。甘く香ばしく漂っていた匂いだったが、だんだんと焦げ臭く感じてきた。キルが怪訝な顔で鼻をすんすんいわせる。


「なんだ? 火薬のようなハードボイルドな匂いが混じってるぞ」


「嫌な予感がするな」


 オーブンの中を、扉のガラス越しに覗く。案の定だ。黄色いふっくらした生地が型から覗くはずなのに、黒い影だけが見える。両手にミトンを嵌めて、オーブンを開ける。もわっとした熱気とともに、型の中でぺしゃんこになった真っ黒な生地が姿を現した。


「思いっきり焦がした。練習でよかった、これが本番だったら立ち直れなかった」


 焦げたスポンジを取り出して、調理台で冷ます。キルはすでに手を伸ばしていて、アツアツのスポンジをちぎろうとしていた。俺はその手を押しのけて止める。


「ステイ! 熱いからもう少し待て。ていうか、こんなに焦げてるものを躊躇なく食べようとするな」


「熱いのくらい平気だし、焦げていようと苦味も硬さもアクセントとして楽しめる!」


 そういう食い意地の張り方はやめてほしいが、キルの目はらんらんと輝いていて俺の言うことなど聞きそうもない。数分前から、リビングまで届く匂いを我慢して待っていただけはある。

 焦げたスポンジを型から外して荒熱を取り、少しだけ端をちぎる。足元ではキルが、口を開けて背伸びしている。俺はそれを横目に、ちぎったスポンジを自分の口に入れた。


「苦い。けど焦げたのは表面だけだな」


 外装は真っ黒だが、中の方は柔らかな黄色で、ふわふわしている。水分が飛びすぎてパサパサしているが、味は申し分ない。

 その欠片を自分がもらえると思っていたキルは、よほどショックだったのか開けていた口をもっとあんぐりさせていた。


「なんで……ペットにくれ騙ししちゃいけないんだぞ。ストレスになって飼い主不信になるんだぞ」


「先に自分で食べるの当然だろ。見るからに失敗してるからには特に」


 焦げた面を避けて、黄色い部分だけをちぎり、少し冷ました。それをキルに差し出す。手で受け取るかと思ったら、キルは俺の手からそのまま食べた。彼女はスポンジをもぐもぐしながら、膨らんだ頬を両手で挟んだ。


「んー! ふわふわでほんのり甘くておいしいじゃんか! ちょっとばかしモソモソしてるけど、クリームと一緒に食べたらちょうどいいんじゃないか?」


「味は悪くないよな。焼き時間を調整すればもっとしっとりするかな」


「伸び代があるな。でもこれはこれで、こんがりしてておいしい。サク、もっと」


 キルが俺の腕を叩いて催促してくる。俺は促されるままにスポンジをちぎり、キルの口に運んだ。手から食べるキルを見ていると、本当にペットにおやつを与えているみたいで、ちょっと楽しい。

 キルがもっと寄越せと訴えてくる。スポンジの欠片を手に、俺はハッと気づいた。


「なんで俺の手から食べてるんだよ。切って食べやすくするから待ってろ」


 ついペット感覚で餌付けしてしまったが、こいつは人間だし、なんなら俺より歳上だ。子供ならまだしも、なぜ一個上のお姉さんに「あーん」してやらなければならないのか。

 キルからすれば、一秒でも早く食べたいだけで他意はないのだろう。包丁を持ち出す俺の横で、そわそわと待機している。

 焦げたスポンジにアスタリスク状の切れ目を入れて、それを持ってリビングに戻った。部屋の真ん中のローテーブルにスポンジを置くと、キルが冷蔵庫から持ち出したいちごジャムを隣に添えた。そのテーブルを前に、もう一度、キルと並んでソファに座る。

 キルが焦げたスポンジにジャムを載せ、頬張っている。その無邪気な横顔に向かって、俺は止めていた話題を戻した。


「そんで、明日のパーティ。どんな現場なのか俺にはあんまり分かんないけど、危ない橋は渡るなよ」


 キル同様に危険な人物たち、暗殺者やそのサポートをするヤバイ奴等のパーティに挑むのだ。安井の周辺を欺くつもりで臨んでも、彼女の方が騙されて食い物にされるかもしれない。

 それに、料理に毒を仕込まれた例もある。そのときは誰も死なずに済んだというが、そうして殲滅を目論んだ者がいるという事実は変わらない。誰が誰だか分からない現場とはいえ、誰でもいいから殺そうとする者が紛れ込めば、キルにも死の危険がある。

 心配して声をかけたが、キルは呆れ目で俺を一瞥しただけだった。


「バーカ、暗殺者が危ない橋渡んなくてどこ渡るんだよ。ケーキにみたいに甘いお前とは違って、こっちは屈強なんだ。騙し騙され壊されても、何度だって立ち直る」


「キルがヘマすると、俺とまひるとばあちゃんが迷惑被るんだよ」


「大丈夫だよ、こっちには味方にラルいるしな。あいつはここん家の親父がミスター右崎だって知ってるから、いい仕事分けてもらうために朝見家に媚びる。裏切る心配はない」


 キルは余裕の面持ちで、スポンジにぱくついている。なんだか妙に自信満々である。


「それにな、この仮装パーティ、今年はなんと」


 彼女はそこで言葉を切って、焦らして、溢れんばかりの笑顔で万歳をした。


「なんと! 初参戦! 我らが切り札、総裁が参加するぞー!」


「ばあちゃんが!?」


 驚く俺の横で、キルは万歳の勢いで後ろに倒れ、ソファに仰向けになった。


「この仮装パーティの参加者は、お互いが何者なのか分からない。そう、たとえ隣で楽しくお喋りしてる人が総裁だったとしても、分かりようがない」


 寝そべった彼女は、脱げかけたフードの中から俺を見上げる。


「総裁が総裁たるその天才的な実力で、情報を撹乱してくれるってさ。古賀ちゃんに直接手を下さない代わりに、こういう手段で、反右崎派をぶちのめしてくれるんだ。やっぱ、持つべきものは最強の後ろ盾だよな」


 職権濫用に当たるから、総裁が直接、私怨で暗殺者を処分することはできない。でも、この誰が誰だか分からない、「フクロウの関係者」という条件さえ満たせば参加できるパーティの中で、他の参加者と同様に嘘と真実をばら撒くのは、なんの問題もない。

 暗殺者やエージェント、彼らを統べる親玉、総裁。長年に渡り、この危険な組織の手綱をとってきたその人物が、本物のやり手であるのは間違いない。


「わあ……絶対敵に回したくない」


 その総裁は自分の祖母だけれど、こういうとき、怖いなと思う。キルが腹筋で起き上がり、手の中のスポンジを齧った。


「総裁がしてくれるのは、あくまで情報の撹乱だけ。敵が騙されてくれるとも限らないんだけどさ。でも、心強いよな」


 キルが話す横で、俺もスポンジを手に取る。口に入れるとやはり苦くて、ぱさついた。隣からは、キルの声が続く。


「私たちは殺し屋だ。同じ組織に属していようと、立場が変われば敵にも味方にもなる。ラルが急に裏切っても驚かないし、総裁が私を捨てる日もくるかもしれない。それでも、少なくとも今は、利害が一致してる」


 俺は数秒、黙ってパサパサのスポンジを口に含んでいた。それを飲み込んでから、ちらっとキルを見る。


「あのさ、俺は殺し屋じゃないから、そういう条件には当てはまらないからな」


「ん? なにが言いたい?」


 キルが目線だけこちらに向けてくる。俺は少し考えて、スポンジを口の前で止め、また数秒、言葉を探した。


「日原さん暗殺については反対だから、お前の邪魔、するけど。でも立場が変わることはないと思うから、つまり、その……」


 スポンジに口の中の水分を奪われると同時に、語彙力まで抜かれているみたいだ。上手く言えなくて、まごついていた、そのときだ。

 リビングの窓が、ミシッと鳴った。直後、ガシャーンと激しい音とともにガラスが砕け散り、カーテンが風で舞う。俺はすんでのところでクッションを盾にして身を守り、キルはスポンジの乗った皿を掲げて壁沿いのチェストへと飛びのいた。お互い、あと少し瞬発力が足りなかったら、ガラスがグサグサ刺さっているところだった。

 ガラスまみれのカーペットの上に、すたっと、ブーツを履いた足が着地する。白銀の髪が、青白く光る。


「闇夜の堕天使は透き通る羽根を散らし、再来の地へ飛来する……」


 小説か詩の一節みたいなセンテンスを口にし、モスグリーンの外套を翻す、少年。手にはアイスピック。

 俺は顔の前まで持ち上げたクッションを、ぱっと下ろした。


「おー、シエル、久しぶり。おやつ食ってく? 失敗したスポンジケーキだけど」


「ふうん、ケーキ……」


 片目を覆うほどの銀の長い前髪に、真紅の目。やや浅黒い肌をした肢体は、細くてちょっぴり頼りない。彼はふっと、ニヒルな笑みを浮かべた。


「食べてあげてもいいよ。君の作る供物は、悪くないからね」


 彼はシエル。スイリベール出身、現在フクロウ所属の新人暗殺者だ。

 キルがチェストの上から威嚇した。


「ご挨拶だな、てめー。来るなら先に連絡しろよ」


「本当だよ。なんで突然。最近はフクロウの寮に入って育成プログラムを受けてるとかで、こっち来なかったのに」


 俺はソファの上で足を畳んで、ガラスまみれになった床の惨状にげんなりしていた。改めて、シエルに向かい合う。


「なんでお前はこう、窓を割るのかな……これ通算三回目だよな」


「闇の暴走さ。堕天使がお行儀よく舞い降りると思うかい?」


 シエル十四歳、現在中二病真っ盛りである。俺はスリッパで足を保護して、ガラスの海になったカーペットをそっと歩いた。窓が閉まらない代わりに、カーテンだけきっちり閉める。


「あのね、アイスピックで窓を割っちゃだめ。お願いだから、常識的な時間にインターホン鳴らして玄関から入ってきて」


「随分と冷ややかじゃないか。かつてのペットが久しぶりに会いに来たのに」


 シエルは少年らしく拗ね顔を見せた。

 夏休みの間、シエルを一時的にうちに置いていた。暗殺者の多頭飼いという珍しい体験をさせられたのだが、シエルの仕事が終結後は、彼はまたこの家を出て行った。こうして会うのは、大体一ヶ月ぶりくらいだ。

 キルがチェストからソファの淵へと飛び移った。


「んで、なにしに来たんだ。私とサクのおやつタイムを邪魔してまで現れたんだ、よほどの理由がないかぎり、そのかわいい顔を原型なくなるまでボコボコにするぞ」


「相変わらず食べ物への執着がすごいな、キル先輩」


 シエルはブーツでカーペットを踏み抜き、キルの持つ皿からひとつ、焦げたスポンジを手に取った。


「今日は結構、重要なお知ら……苦あ!」


 焦げたスポンジを口に入れるなり、シエルは格好つけた態度を保てなくなって、口を押さえた。


「苦い! 焦げてる! ケーキって言ったのに、騙したな」


「だから、『失敗した』って先に言っただろ。ジャムつけると食べやすくなるぞ。ほらこれ、スイリベールのお土産のジャム」


 ギャンギャン吠えるシエルに、俺はジャムの瓶を差し出してを宥める。シエルは中二病だし格好つけたがりだが、こういうどん臭いところが目立つ。そこが庇護欲を掻き立てるので、憎めないというか、放っておけないというか。

 シエルはジャムをスポンジに載せると、改めて口に入れた。まだ表面の苦味に慣れない様子だったが、内側は食べやすい味だと気づき、もくもくと齧っている。そんなシエルをソファの淵から見下ろし、キルが問う。


「それで、なにか言いかけてたよな。重要なお知らせだっけ」


「あ、うん。実はね、フクロウに所属して初めて、狩りに成功したんだ。その成果を、飼い主である咲夜さんにも報告しておこうとね」


 シエルが俺を見上げる。なんだか、ヤモリを仕留めた猫が飼い主に見せに来る、なんて話を思い出した。とはいえこのペットは猫や犬ではないのだから、彼らの言う「狩り」は暗殺業のことである。


「……ん? てことはシエル、人を殺したのか?」


 あまりにカジュアルに報告されたので実感がなかったが、つまりそういうことだ。

 シエルは暗殺者ではあるが、生まれてこの方人を殺したことがない。暗殺の仕事を命じられてはいたようだが、いまひとつどん臭くて、なかなか成功に至らなかったのだ。

 しかしそれはどうやら外套の中に武器を隠し持ちすぎていて、重くて動きが制限されていただけ。本来は天才的な身体能力を持ち主であり、身軽になれば目にも止まらない速さで動く。まだ一度も人を殺めてはいなかったシエル。それがついに、一線を越えたか。

 俺より大きな反応を見せたのは、先輩ペットのキルである。


「なんだと! お前、フクロウに入ってまだひと月くらいだろ。なんか仕事を貰ったって言ってたのは聞いたけど、初期の調査からだったんだろ? そんでもう成功したのか?」


「まあね! キル先輩とはキャリアが違うんだよ」


 したり顔で胸を反らすシエルに、キルはむすっと顔を顰め、それからソファに座り直した。


「当然か。お前、フクロウに所属する前から暗殺者業やってたんだもんな。その頃はとろ臭すぎて成果ゼロ。長い下積み時代を考えれば、今になって初めて成功じゃ、充分遅咲きだな」


「で、でも成功は成功だ。未だに日原美月を仕留められないキル先輩には言われたくない」


 キルに呆れられたシエルは彼女に喧嘩腰になり、キルもその喧嘩を買う。


「いろいろあるんだよ! シエルには到底できない仕事だ。先輩を敬え」


「敬えって先輩側が言うことじゃないんだよ、後輩が敬いたいと思える人を後輩の方から敬うもので、先輩の立場から強要するものじゃなんだよ!」


「生意気だなもう! スポンジ分けてやんねーぞ!」


「こらこら、今のはキルが悪い。大人げないぞ」


 俺が仲裁に入ると、暗殺者二名は口喧嘩をやめた。シエルがキルの横に座り、改めて切り出す。


「とある組織から、敵対する同業の組織の親玉を潰せと依頼があってね。この僕が闇の裁きを下したのさ」


 俺は座っていた場所をシエルにとられてしまったので、キルがいる側の肘掛に腰を下ろした。シエルが意気揚々と話す。


「この数週間、ターゲットの組織の動きを入念に調査し続けた。どことどこが繋がってるのか、今後どう行動するつもりなのか。時に、建物への侵入がバレて捕らえられたりもしたが、僕の天才的策略でターゲットを闇の狭間の地獄の果てに叩き込んでやったのさ」


 キルが面倒くさそうに要約する。


「なかなか実行に移せず数週間もかかってターゲットの様子を見計らって、ようやく進入したと思ったら捕まって、なんやかんやあって運よく切り抜けてきた、と」


「ち、違うもん、戦略だもん!」


「はいはい。具体的にはどういった戦略だよ?」


 キルに意地悪く問われ、シエルは決まり悪そうに下を向いた。


「それは……その、自分が誰の差し金で訪れたか、敢えて発言することで、依頼者とターゲット両勢力を正面衝突させてだな……」


「なんだって! ターゲットに依頼者を吐いたのか!?」


 キルが血相を変えた。


「依頼者については、たとえ拷問されたって吐いてはならない。暗殺者なら当然だろ。そもそも捕まるの自体論外だけど! お前それでも暗殺者かよ!」


「でも、でも! それで依頼者の組織とターゲットの組織、お互いに事務所で大乱闘して、ターゲットの親玉含めて全滅した! 結果オーライだ!」


「依頼者も死んでるじゃねーか! なんも結果オーライじゃない。報酬支払われないぞ、それ」


 キルがシエルの肩を掴み、揺する。それまで依頼達成を心地よく自慢していたシエルは、今や泣きそうな顔になっていた。


「だって、だって、怖いおじさんに囲まれて怖かったんだもん! 処刑されるのは覚悟できるけど、なにされるか分かんないのは覚悟できないじゃん!」


「まあ分かんないから覚悟できないよな! ってそういう問題じゃない! プライドってもんがないのか、貴様!」


 喚くふたりを眺めていた俺は、皿からスポンジをふた切れ取り、それぞれキルとシエルの口に突っ込んだ。


「夜だし、シエルのせいで窓開いてるから、静かに」


 口に栓をされた暗殺者たちは、ぱさついたスポンジをもぐもぐして、しばらく静かになった。

 ついにシエルが、暗殺に成功した……かと思いきや、やはり彼自身の手は汚れていないようだ。組織同士の直接対決になって、シエルを介さず当人同士で勝手に殺し合った、という結末だ。シエルのターゲットが死んだのには間違いないが、これは依頼達成といっていいのだろうか。

 キルがスポンジを食べ終わり、つまらなそうに欠伸をした。


「シエル。自分の実録情けない失敗談を、活躍劇を装ってを語るためだけに、窓を割ったのか?」


「失敗談じゃないし。成功だもん……」


 シエルは食べかけのスポンジを口から話し、むっとしてキルを睨んだ。そしてひとつ、大きく息をつく。


「まあいい。キル先輩が『マテ』のできない犬なのはよく知ってる。本題に入ろう」


 キルに精一杯の嫌味を言ってから、シエルは言った。


「月綴会病院院長、日原篤影。あいつ、とんでもない強欲の悪魔だよ」


 突如出てきたその名前に、俺もキルも、一瞬、体が固まった。日原院長、すなわち日原美月さんのお父さん。キルの仕事の元凶のひとつだ。

 シエルが細い脚を組み直す。


「ターゲットについて調べているうちに、院長の情報も小耳に挟んだんだ。市議の安井議員と金で繋がっていて、安井が次期市長に当選したら不正に補助金を受け取る流れを作ってる。でも院長は嫌々で、娘の美月を人質に取られて仕方なく交流を続けているそうだ」


「うん、それは知ってる」


 キルに言われ、シエルはぎょっと目を剥いた。


「知ってる!? 美月さん暗殺に有用な情報だと思って伝えにきたのに」


「補助金云々は知らんけど、安井と金で仲良しごっこしてるのは知ってるよ。そこの関係をぶっ壊すために人質の機能を奪う……それが美月暗殺なんだろ」


「じゃ、もしかしてそこに、暴力団の無常組が関わってるのも知ってる?」


「知ってる。美月の様子を若頭にチクッてるのがサクのクラスメイトなのも、その様子を見計らって遣わされた暗殺者が古賀ちゃんなのも知ってる」


 キルが容赦なく言い切る。シエルは手のひらを顔につけ、長い前髪の中でわなわなさせた。


「なぜだ! 神のみぞ知る暗黒の黙示録を、なぜキル先輩が……まさか、先輩はダークフェンリル……!?」


「訳の分からん中二語はやめろ。自分の邪魔をするために襲われたりもすれば、相手を調べるくらいするだろ」


 ノリの悪いキルはシエルをあしらい、ソファの上で胡坐をかく。


「今ちょうど、そっからどうするかって話してたとこだよ。明日の仮装パーティで、安井が仲間内と疑心暗鬼に陥るようなネタを吹っかけてやりたいんだが、これがどうにも……」


「ほー、なるほど。でももう無常組が解散した時点で、向こうはキル先輩どころじゃないんじゃない?」


 シエルがしれっと言い、キルが首を捻る。


「やはり全く別の手段で……ん?」


 キルの大きな目が、ぱちっとまばたきをした。横でスポンジを齧るシエルに、くるりと顔を向ける。


「無常組がなんだって?」


「だから、解散。というか、全滅」


「は?」


 キルが頭上に疑問符を並べる。俺も、呆然としてただシエルの顔を見ていた。シエルが不思議そうに俺とキルを見比べ、首を傾げた。


「だから、僕は無常組の依頼で、この頃この町を乗っ取ろうとしていた横取組の事務所に侵入して、結局無常組と横取組が直に殺し合って、全滅したんだよ」


 あっさりと告げられたその事実に、俺もキルも、しばらく言葉が出なかった。数秒後、キルが火がついたみたいにシエルの肩を掴む。


「お前の依頼者って無常組だったのかよ! それを早く言え!」


「言わなかったっけ」


「言ってない! 『とある組織』としか言ってない!」


 キルはシエルを突き飛ばす勢いで手を離し、今度は俺の方を振り向いた。


「聞いたかサク。無常組が全滅した。安井と手を組んでいた無常組が!」


 もしかして、と、俺は思った。ここ数日、俺や家族は無常組に襲われてもおかしくなかったのに、なんの襲撃も受けなかった。それは他所の暴力団との縄張り争いが起きていたせいで、そちらが喫緊の課題になっていたからだったのか。そして無常組は、古賀先生と同じようにフクロウに依頼して、他所の組を追い払おうとした。だが配属されたのは、運悪くポンコツ暗殺者のシエルだった。そしてこの状況に至る。


「ってことは、枯野さんのお父さん、死んじゃったのか」


 俺が呟くと、キルが苦い顔をした。


「お前な、それ自分の命を狙って古賀ちゃん差し向けた小悪党だぞ。そんなもんにまで同情するのか?」


「自分にとって都合の悪い人だったとしても、同じ人間だ、生きてる命だよ」


「気持ち悪。生きとし生けるものみんないつかは死ぬんだから、タイミングの違いだけだろうが。で、その枯野の父ちゃんは今だった。そんだけだろ」


 同級生の父の死を悼む俺を、キルは白い目で見た。生憎俺は善良な高校生だから、そんなにあっさり割り切れないのだが。


「院長と安井議員の会食、それに関する話題だったのかもな」


 先程盗聴器が使えないと唸っていたキルを思い出し、言ってみた。キルがニッと肩頬を吊り上げる。


「見えてきたな」


 そしてぽかんとするシエルに向き直り、彼の頭をくしゃくしゃに撫でた。


「やるじゃねえか。これに関しては、褒めてやってもいいぞ」


「くはは! これが深淵から舞い降りた堕天使の実力さ。もっと褒めてもいいんだぞ」


「まあお前、仕事はなんにもできてないけどな!」


 またひとつ、俺の知らない裏の社会で、大きな変動が起きた。自分の見ている世界の狭さを実感すると同時に、知りたくない世界だなとも思う。

 シエルは手に持っていたスポンジを食べきるなり、ソファを飛び降りた。


「さて、僕はもう行くとするよ」


「え、帰るのか? 泊まっていけばいいのに」


 俺が呼び止めるも、シエルは割った窓に足をかけ、立ち去ろうとする。


「僕は忙しいんだ。仕事の報告書を上げなくちゃならない。報酬、出ないかもしれないけど……なんとか出るように書き方を工夫してだな」


 そんなシエルに、キルが顔を顰める。


「改竄はやめとけよ。なんにせよ、依頼人が死んでれば報酬は出ないだろ」


「僕に突っかかるのは、美月さんを殺してからにして」


 最後にひと言キルを煽ってから、シエルは夜の闇の向こうへと消えた。喧嘩を売られっぱなしになったキルが、窓の向こうを睨んでいる。


「生意気な奴だ。あーあ、またフクロウの抱きこみ業者呼んで窓の修理しないと」


 キルは不機嫌顔でソファの背もたれに寄りかかった。


「サクと半分このつもりだったスポンジも、あいつが三分の一食べちゃうから減っちゃったし」


「そのくらい譲ってやれよ」


 だいたい、あのスポンジは失敗作だ。そんなものを食べさせて、シエルには申し訳ないくらいである。

 俺は皿に残っていたスポンジケーキの最後のひと切れを手に取った。配分的にこれは俺の分になるはずだが、キルが口を開けて待っている。このスポンジをキルに向ければ、キッチンでもそうだったように、手から食べるのだろう。まあ、これは俺の分だから俺が食べるのだが。そんなに欲しそうな顔で口を開けて待っていようと、俺の分なのだ。スポンジを自分の口に運ぼうとしたとき、キルが声をかけてきた。


「ねえ、サク」


「やらんぞ」


「誕生日、おめでとう」


「ん」


 思わず、スポンジを持った手が止まった。壁掛けの時計を見ると、ちょうど零時を回っている。

 そちらを見上げているうちに、キルが俺の膝に手を乗せた。そしてぱくっと、俺の手にあったスポンジに食いつく。ソファに立ち膝になったキルと目が合う。キルはスポンジをもぐもぐ咀嚼し、ニッと、舌を覗かせて笑った。


「うっし、いちばん乗り。最初に祝ってやったぞ」


 手には、横から食べられて欠けた、焦げたスポンジ。俺はつい、笑えてきて顔を伏せた。


「お前……祝うなら人のを食べるなよ」


「私の誕生日でもあるからいいんだよ」


「そうだったな。おめでとう」


 半ばなげやりに返したが、キルは満足げに目を細めた。


「ふふ。いちばんに祝わせてやった」


 そしてもうひと口、俺の手からスポンジケーキを奪った。

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