6.極刑ですらまだぬるい。
翌朝、俺はランドセルを背負ったまひるの前にしゃがみ、彼女の肩を掴んで言い聞かせた。
「いいかまひる。知らない人についていっちゃだめだぞ。どんなに優しそうな人でもだめだ。それと人どおりの少ない道は通らないこと。あと、知らない人がついてきてたら大声で叫んで助けを呼ぶように」
「もう、分かってるよ! お兄ちゃん、今日だけでそれ五回目だよ」
朝起きてから、朝ごはん中、歯磨き中、出かける準備中、そして登校直前の今と、繰り返し唱えたせいだ。まひるは俺のしつこさに辟易していた。
気持ちは分かるが、陸やキルと話した仮説が頭を渦巻く限り、俺の不安は拭えない。まひるの身になにかあったらと思うと、気が気ではないのだ。
「本当に大丈夫? いいか? 知らない人に……」
「分かったってば! もう放してよ、遅刻しちゃう」
まひるが俺の手を払い除け、玄関のドアを開けた。俺がまひるの背中から目を離せずにいると、まひるはちょっとうんざりした顔でこちらを振り向いた。
「心配してくれてありがと。この近くで不審者が出たから気をつけるようにって、学校でも言われたよ。お兄ちゃんも不安なのは分かるけど、まひる、それくらい自分で分かるよ」
「え? 不審者?」
「じゃあね、行ってきます。お兄ちゃんも、学校、遅刻しないようにね!」
パタンと、ドアが閉まった。一瞬、不穏で胡乱なワードが聞こえた気がする。
「なんだって!? 不審者!? まひる! まひる!」
まひるを追ってドアを開けて、六回目の説教をしようとしたのだが、そうする前に後ろから来たキルに止められた。
「いい加減にしろ! 取り乱しすぎ。てか時計見ろ。まひるの言うとおり、サクも遅刻しそうだぞ」
「キル、大変だ。不審者が出たらしい。やっぱ陸が言ってたとおり、まひるを拉致するつもりでなんか変な奴がうろついてるんだ。キル、まひるの護衛に当たってくれ」
「はいはい。午後からはちょっと仕事なんだが、とりあえず登校は見守るわ」
キルは気だるそうに頷いて、俺の代わりにまひるを追いかけていった。キルも暗殺者だし大概不審者だと気づいたのは、自分も家を出てからだった。
*
まひるが気がかりでぼうっとしているうちに、帰りのホームルームが始まった。
「文化祭の仮装喫茶、それぞれの持ち場を決めます。まずホール係、やりたい人いますか?」
クラスの文化祭の実行委員が、黒板にチョークを当てている。この頃いろいろあってぼけっとしていたが、どうも俺が話を聞いていないうちに、文化祭の出し物が決まったらしい。
なにかと緩いうちの学校は、文化祭が一日しかないし、準備が始まるのもかなり当日ギリギリまで迫ってからである。シフトは出し物によって違うから、クラスごとまちまちだが、内のクラスは午前か午後のどちらか出ればあとは自由時間だ。クラスの出し物の他に部活の出し物と兼業している人は、シフトが短かったり、クラスの出し物の方には参加しない場合もある。
……というのは、形式上、決めているだけだ。実際は、うちの学校の文化祭はもっとフリーダムで、決められた時間に働いていないのは当たり前、他のクラスの出し物が気に入ればそちらに飛び入り参加する奴もいるし、一日じゅう図書室でサボる奴も毎年十人くらいいるらしい。
去年、その様相を見て俺も驚いた。真面目な俺は、決められた時間どおりにきっちりシフトをこなしたが、それが少数派だった。
喫茶店のホールのような花形は、クラスの中心にいる元気な奴らで埋まっていく。日原さんの仮装が見たい奴らが日原さんを推薦し、日原さんは苦笑いしつつも乗ってあげていた。彼女は午前のホール係に配属された。
俺はというと、特になにをしたいという希望もないし、なにより面倒なので、なりゆきに任せる。
「仮装」という言葉を聞いて、フクロウの仮装パーティを思う出す。あれば文化祭の楽しい仮装とは違い、高度な情報戦の現場だという。キルはここでなんらか、敵対勢力……すなわち日原さんを駒にする政治家や、そこに癒着する暴力団らを混乱させようとしている。どんな戦略があるのか、素人の俺には到底想像もできない。
親父は、なにか覚悟を決めている様子だった。喧嘩というものは、勝ち負けはあれどお互い無傷では済まされない。キルと親父に勝算があったとしても、少なくとも、なにかを犠牲にする。
教室は和気藹々と盛り上がっている。
「美月は魔女がいいよー」
「それか、美月はうちの店の看板娘だし、お色直しで何回か着替えるとか」
「やめてよー! なんで私ばっかり」
日原さんが笑いながら首を振る。
そういえば、文化祭は、キルからすれば日原さん暗殺のチャンスかもしれない。招待券さえあれば学校の外の部外者でも侵入し放題、生徒も先生も浮かれているか疲れているかで注意散漫、そして人混み。悪い人間なら招待券くらい余裕で偽造する。暗殺にはもってこいの環境だ。
暗殺者は人目につく場所では目立つことはしないが、逆に多すぎる場所では、どさくさに紛れて仕事に及ぶ。夏の花火大会でもそうだったが、見つかりにくい場所から毒針で攻撃してきた。人が多すぎて救急車が通りづらい状況であれば、体に充分毒を回せるのだろう。攻撃に気づいて逃げようにも、人が多いと身動きを取りにくく、人の少ない場所へ行けば追い詰められたも同然、折角あった人目は見世物に集中していて、泣こうが叫ぼうが届かなくなる。
でもこの様子なら、日原さんは注目の的だし、大丈夫だろう。
ホームルームが終わりの時間を迎えた。俺は空いている枠、午後の調理係に配属されていた。調理と聞いて、ちょっとわくわくした。
*
その後、陸と雑談しながら下校する。
「調理係って、出来合いの冷凍食品を解凍したり、レトルトを盛り付けるだけなの?」
あんまり話を聞いていなかったせいで自分の仕事を把握していなかった俺は、陸から聞いて初めて、「調理係」の意味を知った。陸が苦笑する。
「学校の文化祭なんだからそんなもんだろ。まあ咲夜を調理場に置いておいて、それは勿体ないだろと俺も思うけど」
「マジかよ、オムライスとか作れるの楽しみだったのに」
「家でやれ」
なんて全うなことを言うのだろう。今夜はオムライスを作ろう。ソースにこだわってやる。
「ああでも、俺は家族分の家庭料理を作るくらいで、お客さん相手にたくさん作った経験はない。そう思うとこれくらいがちょうどいいのかも」
そんなことを呟くと、陸が妙に納得した。
「たしかに咲夜って、『店の料理人』っていうより、『家で料理を作って迎えてくれる人』ってニュアンスある。知ってるか? 店の料理人は、ブレない同じ味をずっと作り続けるのが得意な人に向いていて、家庭の料理は毎日のように食べるから飽きないように微妙にブレる方が向いてるらしい」
「へえ、そうなんだ」
文化祭の喫茶店で出す味に、ムラがあってがいけない。誰が作っても同じになる、完全な再現性を持った冷凍食品やレトルト食品は、料理でありサイエンスだ。
商店街までもう少し。俺たちは、幹線道路の脇の歩道を歩いていた。上空では秋の空が澄み渡っている。いつの間にか蝉の声も聞こえなくなったし、ほんの少し、涼しくなってきた。陸の横顔がアンニュイな声を出す。
「美月ちゃん、なんの仮装するのかな」
「真顔で言うことがそれかよ」
「クラスでも意見が割れてたよな。なんでも似合いそう。あ、美月ちゃんのお父さんお医者さんだし、ゾンビナースもいいかも」
いろんな事情を知った上でも、陸は相変わらず能天気だ。なにも知らなかった頃と変わらないので、もしかしてなにも分かっていないのではないかとさえ思えてくる。
「あ、でもそのお父さんが金を政治家に流してたから、美月ちゃんが命狙われてるのか! そう思うとやっぱ微妙だな」
……なにも分かっていないかのように振る舞っておきながら、ちゃんと分かっている。懐の広い奴である。
なんて話をしていたら、急に陸がつんのめった。
「わっ!」
「うふっ。背中ががら空きよ」
見ると、陸の背中を押すラルがいる。珍しく、学校の制服姿だ。陸は彼女を振り向き、パチパチと拍手した。
「あ、ラルちゃん。流石は暗殺者だな。気配もなく忍び寄る」
「王朝SPともあろう陸ちゃんが、私ごときに背後を取られるとはね」
「だから、それ冗談だって。俺がそんなすごい役職持ってるわけないじゃん」
ラルはキル同様、いまだに陸を王朝SPだと思っている。無理もない、陸はキルの猛攻を無効化できる身体能力の持ち主だ。それにくわえ、日原さんの周辺の事情を知っても落ち着いていられる大らかさだ。この頃はもう、特殊な訓練でも受けているのではないかと、俺ですら錯覚する。
ついてくるラルに、俺は問いかけた。
「ラル、制服着てるの珍しいな。最近、学校サボってたのに」
「うん。文化祭があるって聞いて、様子見ておこうかと。あなたたちのクラス、仮装喫茶なんでしょ? 私はなに着ようかな」
「お前、隣のクラスだろ」
「いいじゃない。おたくの文化祭、クラスも学年も飛び越えて自由にしてるって聞いたわよ。うちのクラスの出し物が面白くなかったら、そっちへお邪魔するわ」
ラルがこんな動きをしているのならば、やはりキルは文化祭の日に日原さんになにか仕掛けるつもりなのだろうか。今は古賀先生が警戒しているから近づけないみたいだが、油断は禁物である。
「ところでさっき、あなたたち、日原院長の話してた?」
ラルが顔を近づけてくる。陸が目をぱちくりさせた。
「日原院長……ああ、美月ちゃんのお父さんがお医者さんだから、美月ちゃんはゾンビナースの仮装はどうかって話はしてた。それがどうした?」
「なんだ、そんなこと。てっきり今夜の会食の情報をいち早く掴んだのかと思ったわ」
ラルは唇を尖らせ、肩に乗った長い髪を払い除けた。陸が興味津々に食いつく。
「なにそれ! 怪しい取引が行われるのか?」
「あら、なんにも知らないって顔しちゃって、かわいいわね。本当は知ってたんじゃないの? 私よりあなたの方が情報収集、早いでしょ?」
ラルに頬を撫でられ、陸がびくっとする。
「いや、だから俺は王朝SPとかスパイとかじゃないし……それより会食って? 日原院長が? 誰と?」
「本当に知らないの? だとしても、ただでは教えなーい。陸ちゃんが私のおもちゃになってくれるなら、考えてあげる」
ラルはいたずらっぽく言って、俺らの少し手前を歩いた。日原院長が、誰かと会食。ラルがこうして嗅ぎつけているのを見ると、単なる食事会ではなさそうだ。嫌な予感がする。
陸が笑いながらラルを追いかける。
「おもちゃってなんだよ。俺、充分ラルちゃんに遊ばれたと思うけど? 儚げなキャラで俺を困らせて、からかってたじゃん」
「あら、そんなの遊んだうちに入らないわよ。構ってあげてもなんの成果も得られなかったじゃない。もっと密に、協力しあいましょ?」
「だからあ、俺はなんも知らないんだって」
ぶりっこしているときのラルと陸のやりとりにはひやひやさせられたが、素のラルと陸のやりとりは、ちょっと面白い。俺がいつもラルにされているのと同じものを客観的に見ている状態だから、感情移入できる。
幹線道路から脇の道に入って、商店街へと近づいていく。まひるの通う小学校の学区に入ると、一気に生活圏内の空気になる。
「酷いわ! 私はもうありのままをさらけ出してるのに、陸ちゃんはまだ私に隠し事するのね。こっちは恥ずかしい姿まで見られてる。それでもあなたは、まだなにも教えてくれない……!」
「恥ずかしい姿って、あの方言のこと? 別にいいだろ、かわいいじゃん。あと俺ははじめからずっとありのままだよ」
ラルがわざと芝居がかった大袈裟な所作を見せ、陸が落ち着いた口調で返している。ふたりの会話を聞き流しつつ、近道の公園へと向かう。ここを突っ切ると、ちょうど陸の惣菜屋の裏に出る。
ラルは必死になると、矯正された言葉遣いを忘れ、なにを言っているのか分からないほど癖の強い方言を出してしまう。それを陸に聞かれたために、作戦失敗とみなして一時は陸に近づくのをやめていた……というくらいには、ラルにとってのコンプレックスである。
見慣れた公園に足を踏み入れる。滑り台とシーソー、あとは小さな砂場があるだけの、小さな公園だ。周囲は閑散としていて、遊んでいる子供の姿などはない。夏休みの間はそれなりに盛り上がっていたものだったが、学校が始まれば、こんな遊具の少ない公園で遊ぶ子もあまりいないのだろう。
そんな公園を突っ切ろうとして、俺はふいに、足を止めた。
公園の脇で、植え込みに駆け込んでいく男の背中が見えた。その男に手を引かれている、小さな女の子の後ろ姿。丸っこい頭に肩までの髪、ランドセル。今朝見送った背中が、そこにある。
どくんと、心臓が大きく脈を打った。
「まひ……」
息を抜くだけの無声音が、喉から漏れ出す。陸は俺の様子に気づいて、ラルとの会話を止めた。
「どうした?」
きょとんとする彼に、俺は無言で鞄を押し付けた。弾かれたように駆け出し、男が消えた植え込みへと突っ込む。葉っぱの影の中に、スーツ姿の男とまひるが並んでいる。男に腕を引っ張られるまひるが、必死に首を振って足を踏ん張っていた。でも、小さな体は簡単に引きずられ、なすすべもなくもがいている。
俺は考えもなく男の背後を取り、後ろから首根っこを掴んだ。俺よりやや背の高い男が、膝を折って姿勢を崩す。俺は男の喉に腕を回し、ぐっと締め付けた。
喉を押さえられた男が、苦しそうに喘ぐ。
「く、はっ……」
俺はただ無言で、ぎりぎりと、その首を絞めていた。腕に、男が爪を立てる。まひるの手はとっくに離していて、自分の生命の維持に意識が切り替わっている。もうまひるどころではない。自分が死ぬかどうかの瀬戸際なのだ。そんな状況を、俺は妙に冷静に分析していた。
抵抗してくる男の手から、力が抜けてきた。このまま絞め殺してしまえそうだ、と、思ったときだった。
「お兄ちゃん……」
まひるの声で、我に返った。
まひるは地面に尻餅をついて、泣きそうな顔で俺を見上げている。そのいたいけな瞳を見た瞬間、俺は全身の力が抜けた。
締め付けていた男を放って、まひるに駆け寄る。縮こまっているまひるに合わせてしゃがみ、細い腕を取る。
「まひる! 大丈夫だったか? 怪我はないか!?」
「だい、じょぶ」
まひるは途中でしゃくりあげ、目に涙を溜めはじめ、やがてそれをぼろぼろと零した。
「おにいちゃ……」
小さい手を伸ばしてきて、俺の胸に倒れこんできた。
「ふあああ!」
よほど怖かったのだろう。怖くて今まで声も出せなかったのだろう。まひるは俺にしがみついて、大声で泣き叫んだ。俺は泣き崩れるまひるの背中を撫でて、声をかけ続ける。
「怖かったな。よしよし。よく頑張ったな」
俺も心臓が止まりそうだった。もしも今、俺がここを通らなかったら、まひるが連れて行かれても誰も気がつかなかった。この子はひとりで怯えながら、圧倒的な力に押し負けて、わけも分からずどこかへ連れ去られた。どれほどの恐怖だっただろう。想像しただけでも、胸が張り裂けそうだ。
あのスーツの男は、無常組の構成員だろうか。政治献金も暗殺もなにも分かっていないまひるが、こんなことに巻き込まれたというのか。可能性は考えてはいたが、実際に起こると、怒りや空しさや、その他のよく分からないけれど堪えきれないなにか、様々な感情が渦巻く。この「よく分からない感情」はなんだろう。男の背後を取ったとき、たしか自分の中の感情は「それ」に一本化されていた気がするが……。
横からラルの声がした。
「ええ、そうです。そこの公園……はい、お願いします」
振り向くと、スマホを耳に当てたラルがいて、その横には伸びているスーツの男を取り押さえている陸がいた。ラルが俺と目を合わせる。
「警察に連絡しておいたわ。近くの交番からすぐに来てくれる」
「ありがとう」
ラルは冷静だし、陸も、すぐに行動してくれた。
「なんか縛っとけるものねえかな。ネクタイでいっか」
陸はスーツの男のネクタイを解くと、男の腕を縛り上げた。突っ伏していた男は、青い顔で言葉をなくしている。弱そうな子供に声をかけたつもりが、三人がかりで取り押さえられたのだ。この世の終わりみたいな顔をして、情けなく震えている。
さっと周りを見渡したが、この男以外に怪しい人影はなかった。キルと親父を陥れようとする輩がまひるを襲ったのだとしたら、周囲に仲間がいてもおかしくはないのだが。
やがて、商店街の傍の交番からパトカーがやってきた。スーツの男は、おまわりさんに囲まれてすごすごとパトカーに乗せられていった。
*
「え!? あれ、マジでただの変質者だったの?」
後日、ばあちゃんを経由して、警察からの報告を聞いた。学校から帰ってきた俺に、リビングで待っていたばあちゃんが話す。
「そうみたいね。キルちゃんと右崎の失脚を狙う、政治家の回し者……なんかじゃなかったわ」
例のスーツの男は、この頃この辺りをうろつく不審者だった。小学生の下校の時間帯や、友達と遊んで帰る頃合に現れ、ひとりでいる女の子に声をかけていたらしい。まひるまでに三人の女の子が被害にあっており、脚を触られたという子もいたそうだ。
まひるも同様で、友達の家から帰ってくる途中だった。あの公園を突っ切って家まで近道しようとしたところ、男から声をかけられたという。
「飼い犬が具合を悪くしてしまって、動物病院に行きたいんだけれど、この辺りに土地勘がない。一緒に地図を見てくれないか」
そう言ってまひるを傍まで寄せて、スマホの地図を見せる素振りで、彼女に触れる……という手口らしい。しかし途中で陸とラルの声がして、人がいると気づいた男は、まひるを強引に草陰へと連れ込もうとした。そこを俺に見つかったわけだ。
おかげで俺と陸とラルは、犯人を捕まえたお手柄高校生になってしまい、管轄の警察署から感謝状が贈られる運びになった。
「キルも親父も関係ない、ただの変態だったのか。それは肩透かしくらった気分だけど……」
事情を説明してくれたばあちゃんに、俺は尋ねた。
「今の日本の法律で、死刑より重い罰ってある?」
「そうねえ、あったとしても、この罪状だと適用されないかも」
命を軽んじるつもりはないから、軽々しく死刑にしろとは言わないが、それ以上の罰を望んでしまう。ペットが病気と聞いて放っておけなかった、まひるのそういう気持ちを利用した卑劣な行為だ。憤懣やるかたない。
「ともかく咲夜、頑張ったわね。よく取り押さえたわ」
ばあちゃんがのほほんと笑う。俺は当時を振り返った。
「まひるが誰かに連れて行かれるって思ったら、咄嗟に体が動いてた」
「犯人の男、憔悴しきった顔で『殺されると思った』って言ってたそうよ」
ばあちゃんがにこにこ顔のまま言う。
「殺すつもりだったの?」
「まさか……。まひるから引き剥がすだけ、だよ」
言いながら、俺は少し、自分を疑った。本当に、あいつがまひるを離せば、手を緩めただろうか? そんなことはない。まひるはとっくに逃れていたのに、俺はしばらく、男の首を押さえていた。腕の中で、男が弱っていくのも感じていた。その感覚をじっくり、確認するように、絞め続けた。
と、そこへリビングのドアが全開まで開いた。
「そんな生やさしいわけがあるか! サクは最強の暗殺者の血が流れてるんだぞ」
二階にいたキルが下りてきたのだ。こちらに駆け寄ってきて、会話に割り込んでくる。
「気配もなく相手の背後を取る俊敏な動き、咄嗟に最適な手段を取る判断の速さ。暗殺者に必要なスキルが揃ってる」
「やめろやめろ。俺は人殺し予備軍じゃない」
俺が首を振っても、キルはやめてくれなかった。
「いや、サクは素質あるよ。だって考えてごらん? そのときたまたま武器がなかったから絞殺を選んだだけで、ナイフがあったら首をかっ裂いてただろ」
「そんなこと……!」
ない、と、言いたかった。でもどうだろうか。一瞬、「そのときになってみないと分からない」と思った。男の力が抜けていくのに、なんの感情も動かなかった。まひるが呼んでくれなかったら、あのまま息の根を止めていたかもしれない。
言葉に詰まる俺を見上げ、キルはにやりとした。
「お前が良心を殺したとき、暗殺者の自我が芽生える。私は楽しみだよ、サクが私の同業者、そしてライバルとなる日が」
「な、なんねえし」
俺はキルのフードの犬耳を掴んだ。
「ていうか、キル! お前がまひるのボディガードしててくれれば、まひるはこんな怖い目に遭わなくて済んだんだぞ! 頼んだのに、お前って奴は」
「それは申し訳なかったけど、私、あの日は午後は仕事だって先に言った!」
掴んだはずの犬耳はふっと俺の手をかわし、キルは一歩後ろへと飛び退いた。
「しょうがないだろ、日原院長が妙な動きしてんだよ。美月の動向にも変化があるかもしれなくて……」
「そんなことよりまひるだろ!」
「だーもう! 謝ってるじゃん! これからはちゃんと警戒する!」
キルは決まり悪そうにむくれて、リビングから逃げ出していった。結局なんだったんだ、あいつは。単に俺を煽りにきただけか。
「ったく、なんであいつは俺を暗殺者に仕立てたがるんだ。殺人なんかするわけないだろ」
プンスコ怒る俺を横目に、ばあちゃんが微笑む。
「言葉どおり、楽しみなんでしょうね。咲夜が暗殺者になれば、仕事でご一緒できるかもしれない、とか思ってるんじゃない?」
「なにそれ」
ちらっと、ばあちゃんを振り向く。ばあちゃんはやはり、笑顔を絶やさなかった。
「だってほら、キルちゃんは日原美月暗殺のための潜伏場所として、ここにいるんでしょ。どういう形であれ、仕事が終わったら咲夜ともお別れになっちゃう」
「……ん」
その仮定に、俺はただ、短く喉を鳴らすしかできなかった。キルとの別れは、そのうち来る。分かっているけれど、まだ、その日とその先を想像できずにいる。どういう気持ちで向かえればいいのか、まだ、分からずにいる。ばあちゃんは、そんな俺の気持ちまで察しているのかもしれない。
「でも咲夜がフクロウに所属してくれれば、なんらかの形で、また会えるかもしれないじゃない? あの子もそんな期待をして、あんなこと言うんじゃないかしら」
「そう言われても、殺人の仕事なんかしたくない」
「でしょうね。だけどキルの気持ち、私には分かる。折角こんなに霧雨サニの能力を色濃く引き継いでるのに、それを燻らせておくなんて勿体ないわ」
最後はちょっといたずらっぽく言って、ばあちゃんもリビングから出て行った。
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