5.少女は暗殺者になる。

 ある日学校から帰ってきた俺は、玄関にいたそいつに、言葉を失った。

 紙袋を持った、小太りのおじさんがいる。俺よりやや背が低く、髪は薄く、なぜかはあはあと息を荒くしている。


「ど、どちら様……?」


 買い物袋を握る手に、力が入る。一瞬、脳裏に「無常組」の名前が過ぎった。暴力団がこの家を特定して、入ってきたのだろうか。目の前の男はどこかぬぼっとしてうだつが上がらない。暴力団というような荒々しい印象こそないが、不気味そのものである。

 おじさんはしばし無言で俺を見ていたかと思うと、紙袋を玄関先に置き、急にがばっと俺に抱きついてきた。


「うわああああ!」


 思わず叫んだものの、怖くて体が凍ってしまって抵抗できない。はあはあと荒い息が首にかかって、ぞわっとする。

 だが、ほんのり漂ってくる甘い香りで、気づいた。


「ラルか!」


「あ、もうバレちゃった」


 おじさん、もといラルは、すっと俺から身を離した。外見は小太りの中年男性だが、声は甘く艶のあるラルのものだ。視覚と聴覚の情報が一致しなくて、脳が混乱する。


「量産タイプの変装マスクか。もう、びっくりするからやめてくれよ。知らないおじさんが玄関にいて、無言で抱きつかれる恐怖といったらない」


「うふふ。かわいいリアクション見せてくれてありがと」


 と、またおじさんの容姿で俺に抱きついてきた。


「わああ! 離せ!」


 などとやっていると、リビングにいたらしきキルが玄関に出迎えにきた。


「騒がしいなサク……うわああ! サクがおっさんに襲われてる! と思ったらなんだラルか。いつものことだな」


 一時は驚いたくせに、キルはすぐにおじさんの正体に気づいて興ざめした。俺はラルの肩を掴んで引き離す。


「ラルだったらいいってもんじゃないぞ。はあ、妙な方向に変装のクオリティ上げやがって……」


「褒めてくれてありがと! 私、器用で優秀で呑み込みがいいから、すぐに上達しちゃうの」


 ラルがおじさんの顔で言う。


「決めた。咲夜くんの反応すごく良かったし、今年の仮装パーティはこの姿で行こう」


「えっ! そんな冴えない仮装で行くのか?」


 ラルのことだから、いかに自分を魅力的に見せるかで衣装を選ぶと思った。しかしラルは不敵に笑っている。


「この仮装パーティは美しくかわいくフォトジェニックに楽しむものじゃないからね。こういうのがいちばんちょうどいいのよ」


 それから彼女は、置きっぱなしだった紙袋に目をやった。


「キルの衣装も持ってきてあげたからね。試着しておいて」


「お、サンキュ」


 キルが紙袋を拾う。ラルはまた、俺の方に顔を向けた。


「じゃ、咲夜くん。次回また若い男の子の変装するときは服を貸してね」


「それなんだけど、ラルから返ってきた服、なんかいい匂いがする。あれなに?」


 純粋に疑問をぶつけると、ラルはおじさんの姿のまま、くねっとフェミニンな仕草で口元に手をやった。


「嗅いだの?」


「漂ってくるんだよ。まひるとばあちゃんが気に入ってるみたいで、いい匂いって大絶賛」


「柔軟剤の匂いかしら。この頃新しいの試したから……今度同じの買ってこようか?」


「ほんと? お願いしようかな」


 ラルは相変わらず隙のない妖艶な女性だが、この頃ちょっと、生活感を見せるときがある。陸のところで惣菜を買ったりもしているみたいだし、妙に親近感のある存在になってきた。

 ラルは荷物だけ置いて、すぐに出かけていった。残された紙袋を抱えて、キルがリビングへと戻っていく。


「ラルが見繕ってくれた衣装、どんなのかな。こんなの行くの興味ないから、ラルに丸投げしちゃったんだよね」


「衣装って、例のフクロウ創立記念の仮装パーティのか。キル、一回行ってもうやめたって言ってたから、今年も行かないのかと思ってた」


 俺もキルについていき、キッチンに買い物袋を置いて、リビングに入る。キルはソファに座り、紙袋の中を覗き込みながら答えた。


「そうだな、行かないつもりだったけど、事情が変わった」


「事情?」


「ほら、ここんとこ古賀ちゃんの牽制で美月殺しづらいじゃん? 私が大人しくしてれば向こうもなにもしてこないんだけど、美月に近づこうものなら即殺しにくる。やりづらいったらありゃしない」


 キルが世間話みたいに、命がけの攻防戦を語る。紙袋から顔を上げた彼女は、にやっと口角を吊り上げた。


「……なんてな。ただでやられるだけの私じゃない。やられる前にやり返せばいい」


「なんだ、策があるのか?」


 俺も、キルに並んでソファに座る。キルのニタニタが広がっていく。


「古賀ちゃんは諜報が得意なタイプの暗殺者だ。言い換えれば、情報に踊らされる。美月やミスター右崎に関する虚偽の情報を流して、混乱させてやるんだ」


「ええ……無理じゃないか? 先生、嘘を見抜くの超絶上手いぞ」


 相手は心理学のプロだ。しかしキルは怯まない。


「だから、仮装パーティに行くんだよ」


「はあ、暗殺者とかフクロウの関係者が、仮装で仲良くおいしいものを食べるパーティだよな?」


 それがこれとどう関係あるんだよ、と、俺が半分呆れかけていたときである。キルが少し、声のトーンを低くした。


「と、いうのは建前。真のやり手は、この機会を情報収集・情報撹乱の場に利用する」


「えっ! あ……!」


 俺は間抜けな反応をして、キルの手元の紙袋に目を落とした。


「『仮装』パーティか……」


「そ。フクロウの仮装は、遊びじゃないんでな」


 キルはフードの中でにんまりした。


「隠密の組織故にお互いの顔すら知らないフクロウの者たちが、こんなふうに接触しあうのは、高度な仮装によって素性が分からなくなるからだ。隣にいる奴が暗殺者なのかエージェントなのか分からないし、遂行中の任務が自分と相反するものだったとしても分からない」


「その状況を利用して情報を集めたり、逆に嘘の情報を流したりする、と」


 なるほど、そういう「仮装」パーティなら、ラルがおじさんに化けるのも頷ける。本来のラルからあれだけ遠い姿なら、猛毒のハニートラッパーであるとは見抜かれない。

 キルは俺を見上げて言った。


「この仮装パーティでは、有益な情報交換のほか、フクロウ内の揉め事、仕事上の足の引っ張り合い、極端な例を言えば殺し合いまでもが、お互い匿名で行われる。玉石混合の情報を集めて、その中から真偽を見極めるんだ。嘘の情報に踊らされれば、見抜けなかった奴が悪い。このパーティはそういう場だ」


「殺伐としてんな……」


「私が行った年のパーティでは、なんとフクロウそのものを壊滅させようと目論んだドアホがいて、料理に毒を仕込んだんだ。まあ、ドアホだったから毒の種類も量も間違えてて、それを食べた参加者全員おなかが痛くなっただけで誰も死ななかったんだけど」


 キルが真顔で話すのを聞き、俺は妙に納得した。おいしい料理が出るパーティだというのに、キルは一回行ったきり懲りたと話していた。この毒混入事件があったから、パーティに近づかなくなったのだ。

 では料理に手をつけなければいいと思うが、目の前においしそうなものがあって、我慢できるキルではない。いろいろと腹落ちした。


「そういう事情があるから、当日の夕飯はめちゃくちゃ豪華に豪華にしてくれよな。パーティの料理が入らないくらいおなかをいっぱいにしてから挑む」


 キルは俺にミッションを課し、話を戻した。


「さて、パーティの情報戦だけどな。古賀ちゃんクラスになれば、情報の取捨選択は余裕だろうが、直接会って話すよりは、他人を介して流れた情報の方が真偽のチェックに時間がかかる。この場を利用して、安井の陣営に内乱の火種を撒く」


 キルはめらめら意気込んでいるが、こんなことで上手くいくのだろうか。


「仮装パーティまで残り一週間。それまでに古賀ちゃんに殺されちゃわないよう、お互い気をつけような」


 キルに言われ、俺は先日の陸との会議を思い起こした。


「あのさ、キル。陸が言ってたんだけど、もしかしたら俺、殺されるより、拉致されて生きたまま利用されるかもしんない」


「ほう。聞かせな」


 キルが興味深そうにこちらを覗き込む。俺は陸のプリント裏の図を頭に思い浮かべた。


「無常組そのものが動いて、俺なりばあちゃんなりまひるなりを拉致して、拷問にかけて情報を引き出す。先生がカウンセリングルームで雑談しながら引き出すより、手荒だけど圧倒的に早い。で、解放したければ条件を呑めと、キルと親父を脅す……そうすれば、殺すより効率がいい」


「た、たしかに!」


 キルは俺が陸にしたのと同じ反応をした。


「流石、スイリベール王朝SPは視点が違う。私は生かして揺するなんて思いつかなかった。暗殺者だからな、殺すくらいしか発想がない」


「スイリベール王朝……は、あんまり関係ないけど」


 俺は真剣に続けた。


「俺は事情を把握してるし、登下校もひとりにならないように、陸が気を配ってくれる。ばあちゃんも事情は分かってるし、家からあんまり出ない。問題はまひるかな」


「まひるが誘拐されたら、私……無常組の事務所に乗り込んで暴れてしまうかもしれない」


 キルが難しい顔で俯き、再び顔を上げた。


「拉致されるとしたら、まさにこの仮装パーティまでの一週間が勝負だな」


 彼女は真剣な眼差しで、虚空を見上げている。


「別にいつでもいいっちゃいいんだけど、敵対勢力諸君も、パーティ情報戦を利用したいはず。それまでに私やミスター周りをごたごたさせて、仮装パーティでもっともホットな話題にする。そしてミスターの失脚、私の追放を狙うはずだ」


「うわ、ちょっとこれマジで学校休みたいな」


 まだ仮定、と分かっていても、これだけ不安を煽られると外に出たくなくなる。キルは細い腕を組んで言った。


「んー……まひるの外出時には、なるべく私が同行する。私も美月の観察とか敵の動きの調査とか、やることいっぱいあるから、ずっと張り付いてはいられないけど」


「日原さんの観察の時間を割いて、まひるの護衛に当たってくれない?」


「そりゃ無理だ。美月の暗殺が私の仕事だからな。それがいちばん優先される」


 キルはこんな状況でも、仕事を忘れてくれない。


「少なくともパーティ当日まで、私は絶対に死なないし、まひるを守り抜く。なにせこの日は……」


 キルの目が輝く。


「この日はサクがケーキ焼いてくれる約束の日だからな! 絶対死ねない! サクも無事でいろよ、お前が作るんだからな!」


 食がモチベーションのキルは、ケーキケーキとはしゃいで、自室に帰っていった。

 キルにとっての、特別な日。本人曰く、忘れてしまうような本当の誕生日よりも大事なのが、暗殺者「生島キル」が始動した日だという。

 それまでの「キル」になる前のキルが、気にならないこともない。でも本人からはなんとなく聞けなかった。


 *


 その夜、大嫌いなあいつから一本の電話があった。自室でケーキのレシピを見ていた俺に、ばあちゃんから声がかかる。


「咲夜、お父さんから電話よ」


「いないって言って」


 瞬間的に拒否反応が出た。昔から、親父が苦手だ。自分の携帯に電話がかかってこないように、着信拒否しているくらい苦手だ。今回も居留守を決め込んで電話から逃げようとしたのだが、ばあちゃんが困ったように笑う。


「お父さんからというより、ミスター右崎から、といった感じね。大事な話みたいよ?」


 そう言われて、俺はしぶしぶ部屋を出た。父親としての電話でなく、エージェントとして話があるというのなら、聞いておいたほうがいいかもしれない。リビングに出てきて、俺はばあちゃんから受話器を受け取った。


「はい……」


「咲夜! 元気にしてまちたかー!」


 受話器を耳に当てた途端、おっさんの猫撫で声が鼓膜を突き抜ける。俺は咄嗟に受話器を遠ざけ、一旦呼吸を置いた。腕を伸ばして遠くに離しているのに、受話器からは親父の元気な声が漏れ出して聞こえる。


「パパ、咲夜に会いたくて会いたくて寂しくて堪らないよ。早く日本に帰りたい。咲夜の作るごはん食べたいなあ!」


 これだ。俺は親父のこういうところが、死ぬほど受け付けない。

 俺はもう高校生だというのに、幼児を相手にするような話し方でべたべたに甘やかしてくる。このハイテンションでハイカロリーなキャラは、実子である俺やまひるだけに留まらず、ばあちゃんや陸に対してもそうだ。仕事中はもう少しマシになる、とキルから聞いているが、うざったいのは変わらないらしい。

 このまま受話器を置いてしまいたい衝動を押さえ、俺は再び、対話に戻った。


「で、用件は?」


「この前ねえ、キルにそっくりな犬の置き物見つけて買っちゃった。そしたらその次の日に咲夜に似てる犬も見つけて……」


「用件は? 手短に。俺は忙しい」


 無駄話に付き合うつもりは毛頭ない。ひとりで海外暮らしで寂しいのかもしれないが、この鬱陶しい喋りにそう何分も付き合ってなどいられない。親父はふふふっと笑い、鼻にかかった声で言った。


「せっかちさんだな。総裁から仮装パーチーの話を聞いたから、その件で咲夜にもお話しようと思ったのに」


 フクロウ創立記念仮装パーティ。この機会に、敵対勢力の混乱に陥れる作戦、という話か。


「それはキルがなんかするんだろ、俺には関係ないじゃん」


「まあそうなんだけど。でも、パパのこと嫌いな勢力が咲夜をいじめるといけないから、咲夜にもある程度、腹括ってほしいんだよね」


「腹括る前から、あんたの敵対勢力に殺されかけてるんだけどな」


 俺個人は全然関係ないから、心の底からいい迷惑である。親父がふははと笑う。


「ねえ咲夜。高校卒業したら、どうするか決めてる?」


 急に進路の話になった。普段近くにいない人にいきなり父親ぶられても、こちらの気持ちは追いつかない。


「あんま決めてない。ここから通える学校に進学するか、ここから通える企業に就職するか、ってとこ」


「上京は考えてないわけね」


「まひる、まだ小学生だもん。置いていけねえよ」


 以前、ばあちゃんとキルともこの話をした。ばあちゃんは、まひるのことは自分に任せて、俺は俺の好きなようにしていいと言ってくれた。親父も、同じように言った。


「おばあちゃんいるし、まひるは大丈夫だよ。お金の心配もいらない。咲夜がどの道を選んでも大丈夫なように、パパ、お金の面はちゃんとしてるから」


 大事な話をしているのに、声はイラつく猫撫で声だ。


「もしもパパの身になにかあって、この先も今までどおり仕送りができなくなっちゃっても、大丈夫だからね。咲夜とまひるが大人になるまで分くらいの預金はある」


「……なんだよ、そんな話かよ」


 これ以上この話を聞いていたくない。この変なおっさんが妙な覚悟を決めているみたいな、こんなの聞きたくなかった。


「用件は以上か。切るぞ」


「待って待って、こっからが本題!」


 親父の大声が飛び出し、俺はまた、数秒受話器から耳を離した。もう一度耳に当てると、親父が改めて切り出す。


「もうすぐ咲夜の誕生日だから、なんでも欲しいものを買ってあげよう」


「はあ、そんな用事かよ。いらない。そんじゃ」


「待って、切らないで。キルの記念日でもあるから、キルにもなにか買うつもりなの。あの子が欲しがってるもの、なんか心当たりない?」


 親父にせがまれ、俺は少し考えたが、なにも思い浮かばなかった。


「欲しいものは知らないけど。なんか、キルが暗殺者になった日で……親父がキルを拾った日、だっけか」


「そう。五年前のその日、パパはあるでっかい企業の親玉暗殺の依頼を受けてね。実行者の暗殺者に振る前に、ターゲットの身辺調査をするんだけど、そいつが会食してる料亭の傍の倉庫に、女の子がいてね」


 親父は懐かしそうに話した。


「その子、倉庫からナイフを片手に飛び出してきて、途中ですっ転んでナイフぶん投げちゃったんだよ。それが運よく? 運悪く? ちょうど店から出てきた、パパが視察中だったターゲットの心臓にストラーイク! 持病の薬で血液サラサラだったターゲットは、止血が間に合わなくてその場で死んじゃった」


 かなり軽い語り口で、壮絶な出来事が語られている。


「事態が事態だったから、周囲にいたターゲットの極少数の関係者たちはターゲットの方に注目していて、ナイフを飛ばした女の子は見失っていた。パパはすぐに彼女の方を追いかけて、捕まえた。『今、君が殺した男は、どのみち死ぬ予定だった。ただ、本来は私が暗殺者に流す予定の仕事だった』その説明の上で、説得した。『君が暗殺者になれば、私は君に依頼したことにできるし、君の殺人は正当化される。なんなら報酬が支払われる』」


 そうしてその少女は、成り行きで暗殺者となった、と。


「キル、なんでそんなところにいたんだろう。ナイフ持ってたとか、どういう状況?」


「犯罪に巻き込まれてたんでしょうねえ」


 親父はあっさりと言ってのけた。


「倉庫は悪ーい人たちの取引の現場だったみたいよ? キルちゃんはそこに連れてこられて、悪ーい人たちからナイフを奪って逃げてきた最中だったとか、じゃない? 知らんけど」


 子供をあやすような声色で、背筋が凍るようなことを言う。俺はなにも言えず、ただ受話器に耳を当てていた。


「調べられる範囲で調べてみたんだけど、母親はいないし父親はなんか犯罪絡みだし、本人も小学校にすら行けてない。まあ、拾ったからには育ててあげたいから、フクロウの講習で義務教育を卒業させたけどさ」


「そう、なんだ」


 キルが「生島キル」を名乗る前は、なんだったのだろう。きっとそれは彼女にとっては、まだスタートラインにも立てていない、暗黒時代だったのだ。

 だから彼女は、「生島キル」として生まれ変わった日を、誕生日以上に大事にしている。

 なんとなく、そんな気がした。


「キルは『家族』を知らない」


 親父がまったりとした声で言う。


「だから見返りを求めずにごはんを作ってくれて、悪いことをすれば叱ってくれて、いなくなったら捜してくれる咲夜に、感じたことがない気持ちを持ってるんだと思う」


 一瞬、胸がちくっとした。嫌な感じの痛みではない。なんだろうか、この切ないような温かいような、変な感情は。


「キルにとって初めての家族。初めての、安心して帰ってこられる場所なんだよ。良かったね」


 キルがまひるに言っていた言葉が、頭に蘇る。


『私は今までこんなに、人の純粋さを信じたことがない。この子なら、どんな自分でも受け入れてくれるなんて、そこまで人を信頼した経験がない』


 思えば、俺が唐揚げに失敗したときもそうだった。毒かもしれないなんて疑いもせず、作ったのが俺だから大丈夫だとすっかり信用して、とんでもなくまずい唐揚げをひとりで片付けてしまった。

 キルがどこまで自覚しているかは分からない。でも、俺たちはたしかに……。

 親父が明るい大声で、うきうきと声を弾ませる。


「まあそんな話はいいや! もしキルがなにか欲しいものがあるようだったら、いち早く迅速に! パパに報告してね! キルに直接聞いてもいいんだけど、びっくりさせたいからさ」


 俺は受話器を片手に、冷たい声を出した。


「結局なんの電話だったんだよ。こっちはあんたらのせいで変な奴らに命狙われて、マジで迷惑してんだからな」


 半ば怒鳴る俺に、親父はけたけたと笑った。


「怒ってる、かわいー! 大丈夫大丈夫、咲夜はしっかりしてるから。死なない死なない」


 子供におつかいへ行かせるみたいなノリで、平気で俺に命をかけさせる。俺はがっくりと項垂れた。


「親父も、気をつけろよ。古賀先生、親父の正体、ほぼ確信してるから」


「でしょうね。彼は優秀だからな。咲夜も大人になって暗殺者になったら、あんなふうになるかもね」


「なりたくねえ。ていうか、暗殺者になる気もない」


 今度こそ電話を切って、ため息をつく。この人と喋ると、気力も体力も一瞬で吸い取られる。


 それにしても。俺は親父か話していた、「倉庫の少女」の話が、頭の中を巡る。俺には想像も及ばないような層雑な環境の中、ひとりの女の子が、必死に生きていた。生きていたというのか、単に死んでいなかっただけというのか。やけに体が小さいのは、もしかして、成長期にまともな食事をしてなくて、栄養状態が悪かったからなのだろうか。

 そんな彼女にやっと与えられた居場所が、「フクロウ」だった。それだって殺人集団だが、きっと、「それまで」に比べれば、彼女にとっては救いだったのだろう。自分に役割を与えられ、新しい名前を貰った。今までの自分から生まれ変わって、「生島キル」として、再スタートを切った。それが、彼女の“生まれた日”。


 多分、俺が想像する以上に、彼女にとって大事な日なのだ。そう思ったら、ぽつっとひとりごとが洩れた。


「ケーキ、どんなのにしてやろうかな」


「ケーキ!?」


 大声とともに、リビングのドアが開いた。まるで俺の呟きを聞きつけたかのように、キルがやってきたのだ。ネズミみたいに素早く駆け寄ってきて、目を輝かせて俺の腕にしがみ付いてくる。


「今、ケーキって言ったか? ケーキの話か? ねえねえねえ!」


「こっちが感傷に浸ってればこれだよ……」


 この元気いっぱい食欲旺盛のこいつを見ていると、いろいろとどうでもよくなってくる。こいつだって自分の過去を忘れているわけではないだろう。でも、俺にわざわざ見せないし、感じさせない。知ってほしいわけでもないのだろう。でも、それでいいのだ。俺は今ここにいる、今のキルを知っていれば、それで充分だ。

 キルは怪訝な顔で首を傾げた。


「感傷? んなもん腹の足しにもなんねーぞ。それよりケーキの方がおいしいだろ。おいしいものは明日の活力になる。そっちの方が有意義だ」


「それもそうだな」


 だいぶ暴論寄りだが正論といえば正論だ。俺も頭をからっぽにして、途中だったケーキのレシピの続きを見に、部屋に戻った。

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